第25話 誤算
「嘘っ、だって――」
「神様は見てらっしゃる、一人ひとり全ての生き様をなぁ」
アリエスの瞳と少しだけ視線を絡めたあとに、老女はゆっくりと円天井を仰ぎ見る。
その場に描かれている悠久の美。
天使〈イスラフィル〉の姿へとアリエスの視線を誘うように。
「奏でよ、祈りを。詠えよ、平和を。さすれば闇は祓われん」
「そんなの……もう音楽はとっくに奪われてしまったのに――」
「ふぉほほ。おかしなことを言う娘さんじゃ。本当に音楽が消されてしまったとでも思っているのかい?」
「でも、実際に……」
喉の奥で言葉が詰まってしまった。
咎めるように言う老女の黒い瞳には、確かな慈しみが揺らいでいる。
皺に埋もれた眼孔の奥、そこには全てを悟った者のみが宿す光が輝いていた。
「ほら、歌えるだろう?」
やはり、老女は微笑んでいる。
「……いいえ、わたしには」
力なくアリエスはぶんぶんと首を振る。
無理だ。
声を出して歌ったことなど一度もない。
楽器だって、音楽が消される前でも一度も触れたことはないのだから。
「そうかい? おかしいねぇ。おまえさんは音楽を知ってる目をしているよ?」
慧眼でもあるのか。
全てを見透かしたように老女が首を傾げてみせた。
「あ……」
天使〈イスラフィル〉の化身。
美しい歌声でいつもアリエスを慰めてくれる。
けれど――彼は。
「この世にはねぇ、未だ女神ですら奪えなかったものが残っているのさ。それを信じてごらんよ」
老女の言葉にハッとした。
女神ですら消すことができなかったものがある。
管理しきれなかった存在がある。
全知全能の女神〈ニュークリアス〉にとっての盲点。
たった一つの誤算。
世界に散らばる全ての末端機関を掌握する彼女が、しかし未だに看過している最大の瑕疵。
それが彼、スウィンザ。




