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灼熱の時代:五胡十六国時代記⑥

冉閔ぜんびんの末路


歴史の大きなうねりの中で、華北かほくの地は血と泥にまみれ、新たな秩序を求めてうめいていた。352年、北方で勢いを増す鮮卑せんぴ族の前燕ぜんえんは、ついにそのきば冉魏ぜんびに向け、激しい戦いの末、これを滅ぼした。中原ちゅうげんの東半分は、今や前燕ぜんえん馬蹄ばていの下に収まり、その勢いはとどまるところを知らなかった。


しかし、華北全土が静寂に包まれたわけではない。かつてこの地を恐怖で震え上がらせた後趙こうちょう。その残党が、まるで朽ちた木の根のように、あちこちでうごめいていた。後趙の崩壊という大いなる混乱は、各地に群雄を割拠かっきょさせ、かつての部下たちは新たな主を求めて、あるいは旧友とさえやいばを交える日々が続いていたのだ。


そんな混乱の中、漢民族かんみんぞくの希望を背負い、後趙から独立して冉魏ぜんぎを建てた冉閔ぜんびん。彼は「胡族こぞく虐殺ぎゃくさつする」という過激な宣言で漢民族の支持を集めたが、その勢いも長くは続かなかった。彼の理想は、現実の冷たい刃の前で揺らいでいた。北方の雄、前燕との戦いは、次第に劣勢となり、冉魏ぜんぎは崩壊の淵に立たされていた。


353年の春、最後の時が近づいていた。華北の空は重く垂れ込め、不吉な予感を漂わせる。


________________________________


季節は春から初夏へと移り変わる5月。戦場の風は、血の匂いを運んできた。


「もはやこれまでか……」


冉閔ぜんびんは、傷つき疲弊ひへいした兵士たちを振り返った。彼の背後には、荒れ果てた野が広がる。漢民族の復興を掲げた彼の理想は、この乾いた大地に飲み込まれようとしていた。


その時、地平線から砂埃すなぼこりを巻き上げて、騎馬隊が迫りくる。先頭に立つは、前燕の若き将軍、慕容恪ぼようかく。彼は、父である慕容皝ぼようこうの知略と武勇を受け継いだ、冷静沈着な軍事の天才であった。


慕容恪ぼようかくは、ゆっくりと馬を進め、冉閔ぜんびん肉薄にくはくした。その表情には、勝利者の冷徹な自信が浮かぶ。


冉閔ぜんびん殿。もはや抵抗は無益。大人しく投降とうこうされよ。」


冉閔ぜんびんは剣のつかを握りしめた。彼の心には、漢民族の未来を託されたという重圧と、報われなかった理想への悔しさが渦巻いていた。


「この命はくれてやる。だが、漢の魂まで屈すると思うな!」


彼は叫び、残されたわずかな兵と共に、最後の突撃を敢行した。しかし、それはもはや無謀な抵抗に過ぎなかった。数で圧倒し、訓練された前燕の精鋭たちの前に、冉閔ぜんびんの兵は次々と倒れていく。


慕容恪ぼようかくの号令が響き渡り、冉閔ぜんびんは捕らえられた。漢民族の希望の星は、ここについえたのである。


その後冉閔ぜんびんは前燕によって殺害され、冉魏ぜんぎは完全に滅亡した。


________________________________


この勝利により、前燕は冉魏ぜんびの領域を全て吸収し、華北東部における支配力をいっそう強固なものとした。彼らは、分裂し混乱を極める中原の地を、新たな秩序で塗り替えようとしていた。


広大な華北の地で、前燕の勢力はますます拡大し、その野望はさらに広がりを見せる。しかし、その南では、東晋とうしん桓温かんおんという稀代の雄が、静かにその力を蓄え始めていた。そして、西の関中かんちゅうでは、後に華北統一の偉業を成し遂げる苻堅ふけんが、まだ暴君の叔父の陰に隠れて力を蓄える時を待っていた。


嵐が過ぎ去ったかに見えた華北には、新たな嵐の予感が、静かに、しかし確実に迫っていたのである。次の時代を彩る群像ぐんぞうたちの物語は、まだ始まったばかりだった。




〇成漢滅亡、桓温かんおんの野望


西暦354年2月、乱世の只中にあっても江南こうなんにその命脈めいみゃくを保つ東晋とうしんの朝廷は、一つの大きな決断を下した。それは、遠くしょく(現在の四川しせん省)の地に割拠かっきょし、約半世紀にわたって独立を謳歌おうかしてきた成漢せいかん討伐とうばつするというものだ。その大役を担うのは、まさに今、東晋の柱石ちゅうせきとなりつつある若き将軍、桓温かんおんである。彼は345年に荊州刺史けいしゅうししとなり、その軍才と政治手腕は早くから周囲の注目を集めていた。野心家として知られる彼にとって、この遠征は自らの名を天下にとどろかせ、さらなる高みへと上るための絶好の機会であった。


桓温の軍勢は、長江ちょうこうさかのぼり、険しい三峡さんきょうを越えて、蜀の奥深くへと進んでいった。彼の進軍は迅速じんそくかつ苛烈かれつで、成漢の軍勢は次々と敗れ去った。


ある日のこと、桓温は幕舎ばくしゃで地図を広げていた。彼の傍らには、古くからの幕僚ぼくりょうである王導おうどうの孫、王坦之おうたんしが控えている。


王坦之おうたんしよ、成漢の李勢りせいは、李寿りじゅの子であったな。李寿りじゅはかつて、あの李雄りゆうおいでありながら、伯父おじの築いたせいの国号を『漢』と改め、帝位を簒奪さんだつしたという。結局は元の木阿弥もくあみよ。」


桓温の言葉には、どこか冷徹な響きがあった。


「はっ、その通りにございます。李寿りじゅは確かに野心家ではございましたが、その器量は李雄りゆうには遠く及ばず、国を混乱させただけに終わりました。そして今、その李寿りじゅの子、李勢りせいが、我らの前に立ちはだかっています。」


王坦之おうたんしは冷静に応じた。彼の言葉には、成漢の歴史に対する皮肉めいた響きがあった。


「愚かなことよ。建国者である李雄りゆうが約30年もの間、租税軽減そぜいけいげんなどの善政ぜんせいを敷き、たみを安んじたというが、その後の継承者たちがそれを守れなんだ。特に李勢りせいは、統治能力に恵まれず、この機に乗じて一気に滅ぼしてやろうぞ!」


桓温の瞳には、強い光が宿っていた。彼の言葉からは、自身の野望と、乱世を終わらせようとする強い意志が感じられた。


そして、遠征開始からわずか一ヶ月後の3月、桓温率いる東晋軍は成漢の都、成都せいとを攻略する。


________________________________


成漢の皇帝、李勢りせいは、東晋軍の猛攻の前にすべもなく捕らえられた。その知らせが都に届くと、人々は歓喜に沸いた。


「万歳!桓温将軍、万歳!」 「これで、蜀の民も救われる!」


長安ちょうあん奪還だっかんを目指す桓温かんおんの遠征は、一時的に蜀を東晋の版図はんとへと戻した。しかし、彼の野望はここで終わらなかった。彼はこの成功を足がかりに、さらに北へと進軍し、中原ちゅうげん回復の夢を追い続けることになる。


こうして、304年に李雄りゆうが建国してから約50年間続いた成漢は、その歴史に幕を下ろした。五胡十六国ごこじゅうろっこく時代の混乱の中、一時は独立を保った氐族ていぞくの王朝も、新たな時代の波にはあらがえなかったのである。桓温の第一次北伐ほくばつは、彼の軍事的手腕と野心を天下に知らしめるとともに、東晋の勢力回復の第一歩として、歴史に深く刻まれることとなった。だが、この勝利が、彼自身のさらなる野望をき立て、後に東晋を巻き込む大きなうずを生み出すことになるとは、この時の誰もが知りようもなかった。



長安ちょうあんへの夢、そして撤退


西暦354年、東晋とうしんの将軍、桓温かんおんは、しょく(現在の四川しせん省)の地に割拠かっきょしていた成漢せいかんを滅ぼし、その勢いを駆ってさらなる野望を抱いていた。彼の瞳の先には、かつて西晋せいしんの都であった長安ちょうあん城壁じょうへきがぼんやりと見えていた。長安ちょうあんは、かんの時代から続く歴代王朝の都であり、中原ちゅうげん象徴しょうちょうとも言える地。そこを奪還だっかんすることは、東晋の正統性せいとうせいを内外に示し、桓温かんおん自身の名を歴史に刻む上で、この上ない功績となるはずだった。


桓温かんおん軍議ぐんぎを開いた。幕僚ばくりょうたちが並ぶ中、彼は地図を広げ、指で長安ちょうあんの方向をなぞる。


しょくは平定された。次なる目標は、長安ちょうあんだ。」


彼の言葉には、成漢せいかん攻略こうりゃくで得た自信と、未来への確固たる意志が宿っていた。しかし、居並ぶ幕僚ばくりょうたちの顔には、不安の色が浮かんでいる。


参軍さんぐん袁喬えんきょうは、慎重な性格で知られ、いつも冷静に物事を判断する男だった。彼は恐る恐る口を開いた。


「将軍、誠に申し上げにくいことではございますが、この長旅でへいたちは疲弊ひへいし、何より兵糧ひょうろうが心もとない状況でございます。しょくの地は確かに豊かですが、これまでの消費量を考えると、長安ちょうあんまでの道のりを維持できるか…」


桓温かんおんは、その言葉にまゆをひそめた。


「たわけめ! 我が軍は天下に冠たる精鋭せいえいぞ。多少の困難で立ち止まるわけにはいかぬ! それに、今、華北かほくには前秦ぜんしんが勢力を伸ばしておる。彼らを牽制けんせいせねば、いずれ江南こうなんにまで脅威きょういが及ぶであろう。」


前秦ぜんしんとは、氐族ていぞく出身の苻健ふけんが建国した国で、後の華北統一を目指す一大勢力となりつつあった。桓温かんおんの先見の明は確かだったが、現実的な問題が彼の前に立ちはだかっていた。


遠征軍は長安ちょうあんへと向けて進発した。しかし、道は険しく、行く先々で前秦ぜんしんや地元勢力の抵抗にった。そして、何よりも深刻しんこくだったのは、袁喬えんきょう懸念けねんしていた兵糧ひょうろうの問題である。広大な山岳地帯さんがくちたいを越えるには、想像以上の物資が必要だった。兵士たちは飢え、士気しきは徐々に低下していった。


ある日の夕暮れ、桓温かんおんは自ら兵糧庫ひょうろうこの様子を見に行った。そこには、空になった袋と、疲れ果てた兵士たちの姿があった。彼らの顔には、希望よりも疲労が色濃く浮かび上がっている。桓温かんおんは、くちびるを噛み締めた。彼の胸には、焦燥しょうそう無念むねん渦巻うずまいていた。


再び軍議が開かれた。今度は、誰もが撤退てったいの必要性を訴えた。


「将軍、このままでは、兵が餓死がししてしまいます。一度、兵を休ませ、態勢を立て直すべきかと。」


袁喬えんきょうの言葉は、桓温かんおんの耳に痛いほど響いた。野心に燃える彼にとって、撤退は敗北に等しい。しかし、兵士たちの命には代えられない。苦渋くじゅうの決断だった。


「…よかろう。撤退する。全軍、江南こうなん帰還きかんせよ。」


その声は、震えていた。長安ちょうあん奪還だっかんの夢は、はかなくも消え去った。桓温かんおんは、将軍としてたぐいまれな軍事手腕を持つ一方で、その感情的な一面が時に彼の判断を揺るがすことがあった。今回の撤退は、彼にとって大きな挫折ざせつであり、その後の彼の人生に深く影響を及ぼすことになる。


この第一次北伐ほくばつは、一時的にしょく東晋とうしんの支配下に戻したものの、中原ちゅうげん回復の夢は遠のいた。しかし、彼の挑戦はこれで終わりではなかった。桓温かんおんは、後に二度、そして三度と北伐ほくばつ敢行かんこうし、その度に天下を揺るがす存在となっていくのである。乱世の波は、まだ高く、そして荒れ狂っていた。




〇嵐を呼ぶ新帝の即位


西暦355年1月、華北かほくの西部を支配する氐族ていぞくの国、前秦ぜんしん激震げきしんが走った。建国者であり、その基盤を築き上げた景明帝けいめいていこと苻健ふけんが、病に倒れ、帰らぬ人となったのである。苻健ふけんは、混乱極まる華北かほくの地において、武力と政治手腕せいじしゅわん前秦ぜんしんおこし、氐族ていぞくの勢力を確固たるものにした実力者じつりょくしゃであった。彼の死は、まだ若い前秦ぜんしんにとって、大きな転換点てんかんてんとなるはずだった。


後を継いだのは、子の苻生ふせいであった。彼は父の死をいたむ間もなく、玉座ぎょくざいた。しかし、その即位は、臣下しんかたちの間に安堵あんどをもたらすどころか、深い不安と戦慄せんりつを呼び起こすものとなる。なぜなら、苻生ふせいは、その性格せいかくが極めて残忍ざんにんで、感情かんじょう起伏きふくが激しい暴君ぼうくんとして知られていたからだ。


ある日のこと、朝議ちょうぎの席での出来事である。些細ささいな意見の相違そういから、老齢の重臣が苻生ふせい逆鱗げきりんに触れた。


貴様きさまごときが、ちんの決定に口をはさむか! その首、すぐにねてくれよう!」


そう叫ぶと、苻生ふせいは即座に衛兵えいへいに命じ、その場で重臣の首をり落とさせた。血が広間に飛び散り、居並ぶ百官ひゃっかんは皆、青ざめて息をのんだ。彼の目に宿る狂気きょうきは、誰もが口を閉ざすに十分だった。


また、ある時は、宮殿きゅうでん庭園ていえん散策さんさくしている最中、些細な不注意ふちゅういから侍女じじょ花瓶かびんを割ってしまった。本来ならば、叱責しっせきで済まされるようなことだったが、苻生ふせい激昂げきこうし、その場で侍女を惨殺ざんさつさせたという。彼にとって、人命じんめいは何の価値かちもないかのようであった。


このように、苻生ふせいは日ごとに行われるうたげで酒にい、その度に多くの臣下しんか宮女きゅうじょを気まぐれに殺害さつがいした。彼の恐怖政治きょうふせいじは、前秦ぜんしんの内部に深いかげを落とした。本来ならば、父の苻健ふけんが築いた華北かほく西部の安定化あんていかを進め、国力を充実させるべき時期である。実際、前秦ぜんしんの軍事力そのものは、依然として強力であり、周辺の小勢力を着実に吸収きゅうしゅうし、その版図はんどを広げ続けていた。しかし、その内側では、皇帝の暴虐ぼうぎゃくおびえる人々で満ちあふれ、いつ内乱ないらんが起きてもおかしくない、不穏ふおんな空気がただよっていた。


「このままでは、国が滅びる…」


そうささやく者が、宮廷きゅうていのあちこちで増えていった。人々は、苻生ふせい叔父おじであり、優れた器量きりょうを持つ苻堅ふけんひそかに期待きたいを寄せ始めていた。この暴君ぼうくんの支配が、いつまで続くのか。前秦ぜんしんの未来は、暗雲あんうんに包まれていたのである。

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