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灼熱の時代:五胡十六国時代記②

南への光芒こうぼう


317年、華北かほく(中国の北部)の空は、依然として暗く重かった。かん前趙ぜんちょう)が長安ちょうあん陥落かんらくさせ、愍帝びんていを捕らえたことで、漢民族かんみんぞくが築き上げた西晋せいしん王朝は完全に滅び去った。中原ちゅうげん(中国の中心地)には、異民族いみんぞくの建てた国々が乱立し、「五胡十六国時代ごこじゅうろくこくじだい」という、血と混沌こんとんの幕開けを告げていた。


しかし、その暗闇くらやみの中にも、一筋の光が差し込もうとしていた。それは、華北かほくを追われた漢民族かんみんぞくが、南方なんぽうの地、江南こうなん長江ちょうこうより南の地域)に新たな希望を見出した瞬間であった。


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建康けんこう(現在の南京ナンキン市)の地には、西晋せいしん琅邪王ろうやおうしん皇族こうぞくの位の一つ)、司馬睿しば えい避難ひなんしていた。彼は、帝位ていいへの執着しゅうちゃくが薄く、どこか控えめな性質せいしつの人物であったが、この混乱の時代にあって、漢民族かんみんぞく貴族きぞく豪族ごうぞくたちは、彼の存在こそが、失われたしん正統性せいとうせい(国を統治する権力が正当であること)をぐ唯一の希望だと信じていた。


「もはや、中原ちゅうげん蛮族ばんぞく(ここでは異民族いみんぞくを指す蔑称べっしょう)の手に落ちました。このままでは、かん文化ぶんかも、我がしん血脈けつみゃく途絶とだえてしまいます!」


ある日、建康けんこうの広間では、北から逃れてきた渡来とらい貴族きぞくの一人、王導おうどう力説りきせつしていた。王導おうどうは、司馬睿しば えいを支える重要なはしらであり、彼の言葉には、故郷こきょうを失った者たちの悲痛ひつうな叫びが込められていた。


司馬睿しば えいは、静かにその声を聞いていた。彼の心の中には、故郷こきょうへの郷愁きょうしゅうと、漢民族かんみんぞくの未来への責任感が渦巻うずまいていた。


「しかし、私に、その大役たいやくつとまるのであろうか……」


司馬睿しば えいは、控えめにつぶやいた。彼は、自らの力量りきりょう過信かしんすることなく、常に周囲の声に耳を傾ける(かたむける)人物であった。


琅邪王ろうやおう殿下でんか! あなたさまこそが、この混迷こんめいの世を救う唯一の御方おかたにございます! どうか、どうか、天命てんめいをお受けください!」


江南こうなん土着豪族どちゃくごうぞく(その土地に昔から住み着いている有力者)たちも、口々に即位そくい懇願こんがんした。彼らは、北からの渡来とらい貴族きぞくと協力することで、江南こうなん安定あんてい繁栄はんえいを築き上げようとしていた。


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しゅうの声に押されるように、司馬睿しば えいはついに決断した。


317年、建康けんこうにおいて、司馬睿しば えい帝位ていいき、しん王朝の再興さいこう宣言せんげんした。これが、東晋とうしんの始まりである。彼の即位そくいは、西晋せいしん滅亡めつぼう後の漢民族かんみんぞくにとって、まさに一筋の光明こうみょうであった。北の地が異民族いみんぞく支配下しはいかに置かれる中、江南こうなんの地に漢民族かんみんぞく王朝おうちょう存続そんぞくすることになったのである。


だが、東晋とうしんの道は、決して平坦へいたんではなかった。司馬睿しば えいは、帝位ていいへの執着しゅうちゃくが薄い穏やかな性格せいかくであったがゆえに、江南こうなん豪族ごうぞく有力者ゆうりょくしゃたちの力に依存いぞんせざるを得ず、その権力基盤けんりょくきばん脆弱ぜいじゃくであった。建国後まもなく、彼の治世ちせいは、王敦おうとんらんなど、臣下しんか専横せんおうに苦しむことになる。


それでも、東晋とうしんは、漢民族かんみんぞくの文化と伝統でんとうを守り続け、いつか来る中原ちゅうげん回復かいふくの夢をいだきながら、その歴史を刻んでいく。この建康けんこうの地から、江南こうなんの穏やかな風に乗って、新しい時代の息吹いぶきが静かに広がり始めたのであった。



奴隷どれいちかい、新たな覇者はしゃ


華北かほく(中国の北部)の広大な平野には、相変わらず混乱の嵐が吹き荒れていた。西晋せいしんは滅び、かん前趙ぜんちょう)が中原ちゅうげん(中国の中心地)を席巻せっけんする中、江南こうなん長江ちょうこうより南の地域)では東晋とうしんが細々と命脈めいみゃくたもっていた。しかし、その華北かほくの荒野に、新たな、そして強烈な光を放つ存在が現れようとしていた。


それは、奴隷どれいの身から成り上がった男、石勒せきろくである。


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石勒せきろくは、羯族けつぞく異民族いみんぞくの一つ)の出身であった。幼い頃に奴隷どれいとして売られ、どんどんぞこの生活を送ってきた。しかし、彼の胸には、誰にも負けない強い野心と、たぐいまれな軍事の才能が宿っていた。


ある日、石勒せきろくは、かつての主君しゅくんであるかん前趙ぜんちょう)の劉淵りゅうえんのもとで、戦功せんこうを重ねていた。劉淵りゅうえんは、匈奴きょうど部族長ぶぞくちょうでありながら、漢王朝かんおうちょう末裔まつえいを名乗り、漢民族かんみんぞくの支持をも得ようと努める、機を見るにびん野心家やしんかであった。石勒せきろくは、その劉淵りゅうえんの元で、自身の力を存分に発揮していたのだ。


だが、石勒せきろくの心には、常に独立の炎が燃え盛っていた。彼にとって、かん前趙ぜんちょう)は、天下統一への通過点に過ぎなかった。


「この華北かほくは、あまりにも荒れ果てている。民は飢え、国は乱れ、もはやかん統治とうちでは、この混乱を収めることはできぬ。」


石勒せきろくは、彼が重用ちょうようする漢人かんじん賢臣けんしん張賓ちょうひんに語りかけた。張賓ちょうひんは、石勒せきろくが自身の出自しゅつじ教養きょうようの限界を理解し、偏見にとらわれず実力じつりょくを重んじる現実的げんじつてき思考しこうの持ち主であると見抜き、深く信頼しんらいしていた。


張賓ちょうひんは、静かにうなずいた。


大王だいおう石勒せきろくを指す敬称けいしょう)のお言葉、ごもっともにございます。かんは、すでにその力を失いつつあります。今こそ、新たな秩序を築く時ではございませぬか。」


張賓ちょうひんの言葉は、石勒せきろくの決意を一層いっそうつよくした。奴隷どれいから身をおこし、数々の苦難くなんを乗り越えてきた石勒せきろくにとって、もはや誰かの下に甘んじる(あまんじる)など、考えられなかった。


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そして319年、石勒せきろくはついにかん前趙ぜんちょう)から独立を宣言した。


彼の率いる精鋭せいえいの軍は、瞬くまたたくま華北かほくの東部に勢力を拡大していく。かつては奴隷どれいとしてさげすまれた男が、今や一軍のしょうとして、いや、それ以上の存在として、新たな国を築こうとしていた。


われこそが、この乱世を終わらせる者。そして、新たな時代を切り開く者である!」


石勒せきろくの力強い声が、華北かほくの荒野に響きひびきわたる。彼が建国した国は、「後趙こうちょう」と名付けられた。奴隷どれいから皇帝こうていへ――その非凡ひぼん生涯しょうがいは、まさに乱世が生んだ奇跡きせきとも言えるものであった。


しかし、その道のりは、まだ始まったばかりである。後趙こうちょうは、劉曜りゅう よういだかん前趙ぜんちょう)との間に、避けられない衝突しょうとつかかえていた。そして、石勒せきろくの死後、そのおいである石虎せき こ実権じっけんにぎることになるのだが、それはまた別の物語である。


華北かほくの東部に、新たな覇者はしゃ誕生たんじょうした。その光は、やがて中原ちゅうげん全体を飲み込み、五胡十六国時代ごこじゅうろくこくじだい様相ようそうを大きく変えていくことになるのだった。



乱世らんせいうず江南こうなんらぎ


320年、中国の広大な大地は、相変わらず混乱のさ中にあった。特に華北かほく(中国の北部)では、新たな覇者はしゃを巡る争いが激しさを増していた。西晋せいしんの滅亡後、その中原ちゅうげん(中国の中心地)を支配していたかん前趙ぜんちょう)と、羯族けつぞく異民族いみんぞくの一つ)の石勒せきろく建国けんこくしたばかりの後趙こうちょうが、まさにきばき合っていたのである。


一方、長江ちょうこうの南に位置する江南こうなんでは、かろうじて漢民族かんみんぞく王朝おうちょうである東晋とうしん命脈めいみゃくを保っていた。初代皇帝しょだいこうてい司馬睿しば えいは、帝位ていいへの執着しゅうちゃくうすく、周囲の推戴すいたいを受けて即位したおだやかな人物であったが、その権力基盤けんりょくきばんは決して盤石ばんじゃくではなかった。北からの異民族いみんぞく脅威きょういに加え、内部にも不穏ふおんな空気が渦巻うずまいていたのだ。


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王敦おうとん野望やぼうみかど苦悩くのう


322年、その不穏ふおんな空気がついに爆発ばくはつする。東晋とうしん朝廷ちょうてい絶大ぜつだい権勢けんせいを誇っていた大将軍たいしょうぐん王敦おうとんが、反乱はんらんを起こしたのである。王敦おうとんは、その強烈きょうれつ野心やしん軍事手腕ぐんじしゅわんで、帝位簒奪ていいさんだつ(皇帝の位を奪うこと)さえも視野しやに入れていた。


建康けんこう(現在の南京ナンキン)の宮城きゅうじょうでは、司馬睿しば えい皇帝こうてい臣下しんかたちを前に、苦渋くじゅう表情ひょうじょうを浮かべていた。


王敦おうとんめ、ちん(皇帝が自身を指す言葉)のおんあだで返すとは……!」


皇帝こうていの声には、悲しみと怒りがない交ぜになっていた。かたわらひかえる重臣じゅうしんの一人が進み出て、深く頭を下げた。


陛下へいか(皇帝への敬称)、この反乱はんらんは、江南こうなん安寧あんねい(平和)をおびやかすもの。すみやかに鎮圧ちんあつせねば、内外ないがいに示しがつきませぬ。」


司馬睿しば えいは、小さくためいきをついた。控えめでおだやかな性格ゆえに、臣下しんか権力けんりょく依存いそんせざるを得なかったおのれの弱さを、深くやんでいた。


「わかっておる。だが、王敦おうとんの兵は精強せいごう(強く優れた兵)……容易たやすくはいくまい。」


その言葉通り、王敦おうとんらんは、東晋とうしんにとって想像以上そうぞういじょう困難こんなんな戦いとなった。323年に入っても、反乱はんらんは収まる気配を見せず、朝廷ちょうてい鎮圧ちんあつに全力をそそぎ続けていた。江南こうなんの地は、北からの戦乱せんらんとは異なる、内側からの痛みにもがき苦しんでいた。


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鎮静ちんせい代償だいしょう


長い苦戦くせんの末、ようやく光明が見えてきたのは324年のことであった。司馬睿しば えい皇帝こうてい忠実ちゅうじつ将軍しょうぐんたちの努力により、王敦おうとんらん鎮圧ちんあつされた。宮城きゅうじょう平穏へいおんが戻り、人々は安堵あんどいきをついた。


しかし、その代償だいしょうは大きかった。内乱ないらん東晋とうしん国力こくりょくいちじるしく消耗しょうもうさせ、疲弊ひへいさせた。司馬睿しば えいは、北方の失われた故地こち(元の土地)を取り戻す「北伐ほくばつ」(北方の異民族いみんぞく討伐とうばつすること)を悲願ひがん(強く願うこと)としていたが、その夢は遠のいた。


「これでしばらくは、うちうれいはなかろう。だが、そと脅威きょういは増すばかり……。」


皇帝こうていつぶやきは、誰に聞かせるでもなく、静かに消えていった。華北かほくでは、前趙ぜんちょう後趙こうちょうの戦いがさらに激化げきかし、その波はいつ江南こうなんに押し寄せる(おしよせる)やもしれなかった。


江南こうなん朝廷ちょうてい内紛ないふんれる間にも、北の大地では、異なる野心やしんを持つ者たちの覇権争い(はけんあらそい)が、容赦ようしゃなく続いていたのである。

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