第二章 夫の裏切り
純子は一応警察に行方不明者届を出した。
涼真が帰らなくなって2週間がたった。
生活のために就職活動を始めた矢先、突然の吐き気に襲われ、内科を受診した。
診察した医師は、
「これは産婦人科で、詳しく診てもらったほうがいいですね。」
そう言われて産婦人科を受診した。
「おめでとうございます、三ヶ月です。」
医師の言葉が鋭いナイフのように淳子の胸に突き刺さった。
——おめでとう?何が……?赤ちゃん、あなたのパパまだ帰って来ないのに……ママ一人でどうやって……育てていくのよぉぉぉ!
純子は思わず唇を噛み締め、心の中で叫んでいた。
家までどうやって帰ったのか分からない。
気がつくと玄関の前に立っていた。
家に入ると、乱暴に衣服を脱ぎ捨てると全てを洗い流すかのようにいつまでもシャワーをかけ続けた。
——全て溶けてしまえ、赤ん坊と一緒にこの体も、涼真への思いも……
そう祈りながらいつまでもいつまでも。
しかし、シャワーが全てを洗い流すはずもなく、現実も何も変わらない。
バスローブを羽織ったまま髪も乾かさず、抜け殻のようにソファーに座っていると玄関のチャイムが鳴った。
隣の濵田だ。
「こんばんは。シャインマスカットもらったのでお裾分けに。」
純子は慌てて身なりを整えると、濵田に礼を言ってシャインマスカットを受け取った。
「あ、そうそうご主人、昨日お店に来てたわよ。」
「そうですか。あ、シャインマスカットありがとうございます」
内心、気が気じゃなかった。濵田を問い詰めたかったがそうもいかず、平常心を保ちながら返事をした。
「いいえ、どういたしまして。それじゃおやすみなさい」
濵田はそう言うと意味ありげな笑みを浮かべ帰っていった。
濵田の言葉で、スーツに入っていたバーの名刺を思い出した。
慌てて、名刺を取り出し、名前を確かめた。
「バー・ハマダ」と書いてある。濵田が経営しているバーだ。
なぜもっと早く気がつかなかったんだろう。
気が抜けたように体の力がなくなり、ベッドに横たわった。
天井を見ながら今日の出来事を思い出していた。
新しく芽生えた命は、果たして自分の希望になるのか。
それとも、さらなる不幸を呼び込むのか。
純子は深い海の渦の中にいるような感覚に襲われた。
——涼真に会いたい。会って妊娠したことを聞けば必ず帰ってくるわ。会えるか分からないけど、明日「ハマダ」へ行ってみよう......
眠れぬ夜を過ごした純子は夜を待って「バー・ハマダ」に行った。
すると涼真と女が店に入っていくのが見えた。
暗くて、女が誰だかわからない。
追いかけて入ると、夫は驚いた顔をした。
「純子!」
「あなた!一体どう言うことよ。一体何があったの......」
涼真に矢継ぎ早に聞くと、横に座っている女に目がいった。
「その人は誰?」
涼真の横にいた女が振り向いた瞬間、心臓が震え吐き気を覚えた。
「美咲!」
美咲は悪びれず、笑みを浮かべながら純子に向かって言った。
「純子、紹介するわ。わたしの彼氏。よろしくね」
「な、何を言ってるの!彼氏って、涼真のことだったのね。よく平気な顔をして……人を舐めるにも程があるわ!」
「純子、人を舐めてるのはあなたよ。私が好きになった人なのに、あなたは私に告白の相談を持ちかけて来る。その度に私は諦めて、あなたに譲ってきたわ。」
涼真はその言葉を聞き、優しく美咲の手を握ってきた。
「なぜ言ってくれなかったの?」
「言ったわよ!でもあなたは聞く耳を持たなかった。でもね、今回は涼真の方から私を誘ってきたの。引っ越しの時、純子が槙野さんを送り出しに行ってる間に私たち仲良くなったの」
「そんな!それじゃずっと私を騙してたの?結婚して三年よ、その間ずっと……?」
純子は悪寒がした。美咲の声を聞きながら吐きそうになるのをじっと我慢していた。顔には脂汗が滲んでいる。
「そうやって三年もの間二人して笑っていたのね。」
純子は美咲の手を握っている涼真の腕に縋り懇願した。
「お腹の中にはあなたの赤ちゃんがいるの。だから、お願い帰ってきて」
「俺の子供だって?違うだろ、槙野の子供じゃないのか」
「なんで!槙野さんと私はなんの関係もないわ。」
「嘘つけ!引っ越しの時、やけに親しそうだったじゃないか。
美咲が二人で会っている写真を見せてくれたんだ。」
美咲が割って入った。
「ここに証拠があるわ。」
そう言って二人が写っているスマホの写真を見せた。」
「それは……あなたが毎晩遅いから、槙野さんに相談してたのよ。それだけよ。」
「とにかく、俺はもう家に帰るつもりはないから。それに美咲との間には俺たちの子供がいる。もうすぐ一歳の誕生日だ。家事をするしか脳のないお前の子供なんかいらないんだよ!」
純子は夫が何を言ってるのかわからなかった。
「何言ってるの……美咲との子供?妻は私よ!あなたと私の子供よ!愛人の子供の方が可愛いって言うの!」
涼真の肩を掴み揺さぶりながら叫んだ。
その横で美咲は純子を憐れむように笑みを浮かべている
「二人とも......許さない……こんなこと許されるはずがない!」
そこに濵田が割って入った。
「富田さん少し落ち着いて。他のお客さんもいることだし。」
純子は初めて濵田に気がついた。
「濵田さん、あなたもグルだったのね。よくも平気な顔をして家に来たわよね。」
「ママは私の従姉妹なの。当然私の味方よ。色々相談に乗ってもらったわ。」
純子は怒りと悔しさで目は吊り上がり、唇はワナワナと震えている。
「みんなで私を騙していたのね......私を笑っていたのね......」
頭が真っ白になり、周りの言葉が耳に入らない。
頭の中で何かが弾け、無意識にカウンターのナイフを手にした。
気がつくと、目の前で美咲がお腹を抑えて倒れている。
純子は手に生暖かいものを感じると、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
美咲の腹から流れるその赤いシミは、座り込んだ純子のワンピースの裾に、ワインのように深く染み込んでいく。
純子は茫然とその光景を眺めていた。
遠くでパトカーと救急車のサイレンが聞こえる。




