第一章 帰らない夫
富田純子は夫、涼真のカッターシャツにアイロンをかけていて、襟元にシミを見つけた。
――洗濯した時こんなシミがついていたかな?
純子は不思議に思いながら、またシミの部分洗いをした。
夫のスーツをタンスにしまいながら上着のポケットを確認すると、見知らぬバーの名刺が出てきた。
営業用だろうと、再びポケットに入れる。
今夜の夕食は魚が食べたいと言っていたので、鮭のムニエルの献立を考えながら自転車でスーパーへ向かう。
すると隣の濵田も来ており、挨拶をした。
「こんにちは。」
「あら、富田さん、こんにちは。今日の献立決まりました?」
「ええ、今日は鮭のムニエルにしようかと......」
「美味しそうね。うちはお肉にするわ。それじゃまた」
濵田は派手好きで、髪は金髪に染めている。
指には付け爪をしていて、あの指でどうやって料理や家事をこなしているのかと、純子は思っていた。
性格もサバサバしていて、言いたい事を言う。
できるだけ会いたくない、純子には苦手なタイプだった。
買い物をして帰ると早速夕食の準備を始めた。
涼真は帰宅して夕食ができていないと不機嫌になる。
全て作り終え、あとは夫の帰りを待つだけだ。
8時ごろ、今日は仕事で遅くなると夫からメールが来た。
仕方なく一人で遅い夕食をとり、残りは冷蔵庫へ入れた。
後片付けをして風呂に入ると、することもないので、スマホを見ていると、リアルタイムのインスタグラムのバックに、夜の街を歩く夫らしき人物が写っていた。
――え、もしかして彼?そんなはずないよね......
アカウントを調べたが知らない人物だった。
たぶん似た人だろう、と自分を納得させベッドに入った。
夜は目を覚ますこともなくぐっすりと眠り、目覚ましの音で目が覚めた。
隣を見ると、誰もいない。
昨夜、夫は帰ってこなかったのか。
こんなことは今まで一度もなかった。
純子は気持ちの整理がつかない。
静かな部屋に時計の音だけがカチコチと耳に響く。
カーテン越しに朝日が透けて見えるが、開けようと言う気持ちになれない。しばらくベッドの上で悶々としていた。
――もしかして事故?そうだったら警察から連絡が来るはず。――きっと、営業で遅くなってホテルに泊まったに違いない。無理にそう思うことにしなければ、頭が変になりそうだった。
今はまだ朝の6時。会社に問い合わせもできない。
いろんな事を考えているうちに、今日がゴミ収集の日だと言う事を思い出し、慌てて支度するとゴミを持って出た。
ゴミ置き場では、近所の人たちが噂話をしている。
「ねえねえ、濵田さんていつも派手じゃない、なんの仕事してるか知ってる?」
「そうよね、なんだか夜になってから出かけてるみたい。」
「旦那さんているのかしら。見た事ないわね。」
そこへ濵田がやってきて噂話はしなくなった。
「あら、濵田さんおはようございます」
「おはようございます。私の名前が聞こえたようだけど」
「聞き間違いよ。」
みんなはそそくさと自分たちの家へ帰っていった。
純子は思い切って聞いてみた。
「濵田さん、夜のお仕事なんですか?」
「そうよ、小さいけど私のお店よ。.....そういえば、富田さんのご主人も時々うちの店に来るわよ。」
「え、そうなんですか」
「うん、会社の人たちも一緒よ。安心した?」
「え、ええ。教えてくれてありがとうございます」
純子は心の中で本当にホッとしていた。
――やっぱり昨夜は営業だったのよ。メールぐらいしてくれればいいのに。
家に帰り、朝食と掃除、洗濯を済ませると9時を回っていた。夫は今頃出社しているだろうと、メールをした。
「昨夜はどうしたの?今日は帰ってくるよね。」
メールの返事はなかった。仕事で忙しいのかもしれない。そう思ったが、胸のざわつきが止まらない。
家でじっとしていると、スマホばかり気にしてしまう。
親友の松本美咲を誘ってランチでもして気を紛らわすことにした。
美咲は中学の時からの親友だ。
困った時はいつも相談に乗ってくれた。
美咲も快諾し、都心のレストランに出かけた。
美咲は食事の時もスマホをチェックしている。
「どうしたの?何か約束でもあるの?」
「ううん、なんでもないの。癖なの。気にしないで。」
そう言いながら、スマホを持つ美咲のブレスレットが目に入った。
「あら、そのブレスレット、私のと同じ。」
美咲はブレスレットを愛しそうに撫でながら
「あらそうなの?彼にもらったの。偶然ね。」
美咲に彼氏がいたなんて初めて聞いた。
「美咲、彼氏いたの。知らなかった。」
「失礼ね、彼氏ぐらいいるわよ。今度紹介するね。」
美咲は含みのある笑みを浮かべ、純子に答えた。
「楽しみにしてるわ。それにしても、涼真は一体どうしちゃったのかしら。」
「純子、大丈夫よ今夜は帰ってくるわよ。」
相変わらずスマホばかり気にしている美咲に、純子は小さく頷いた。
「そうだといいんだけど……」
純子は久しぶりに親友に会って、少し気持ちが落ち着いた。
レストランを出て帰る道すがら、人混みの中に涼真の姿を見た。
「美咲、涼真だわ!」
「え、ちょっと待って」
美咲が止める間も無く純子は走り出した。
しかし、人が多く、なかなか辿り着けない。
そうこうしているうちに人混みに紛れ見失ってしまった。
「どうしたの純子、急に走り出すからびっくりしたじゃない。」
「涼真よ、絶対そうだわ。一人だった。」
「見間違いじゃない?それか、営業で出ているのかも。」
「……同僚の槙野さんに電話して確かめてみる。」
「槙野さんと純子って親しいの?」
美咲は意味ありげに聞いた。
「とくに親しいってほどじゃないけど、引っ越しの時に手伝ってもらったぐらいかな。美咲もその時に会ってるわよね」
純子達は人通りの少ない路地に入ると、槙野にに電話した。
「もしもし槙野さん、富田です。夫は出勤してますか?」
「奥さん知らなかったんですか、富田は昨日付で退職してますよ」「そんな!間違いじゃないですか?」
「いえ、間違いではありません。げんに出社してませんし。もしもし……」
純子はスマホを落としそうになった。
何がどうなっているのか、立っているのがやっとだった。
「嘘よ、私に黙って会社を辞めるなんて……」
「純子どうしたの、顔色が真っ青よ。何があったって言うのよ」
美咲は今にも倒れそうな純子を抱き抱えた。
「涼真が……涼真が退職したって……」
それだけ言うと、美咲の胸に泣き崩れてしまった。
「純子、泣かないで。涼真くんが勝手に退職したの腹が立つけど、まだ何もわかってないし。帰ってきたら説明してくれるわよ。」
美咲は順子を宥めると申し訳なさそうに
「こんな時になんだけど、私これから人と会う約束してるの。ごめんね。あまり思い詰めないでね。」
美咲は気落ちしている親友を放り出して去ってしまった。
そしてこの日以来、涼真が純子の元に戻ってくることはなかった。




