イツキとバウとパル
ミノス正教会の中庭には大きな噴水があり、教会の前には大きな泉がある。水の都と呼ばれるこの街の、シンボル的な存在である教会を、火災から守るために、様々な工夫がしてあるのだ。
借家から教会までの道すがら、家がポツポツしかないのは、火災による延焼を避けるためである。
中庭の大きな噴水の回りには、木製のベンチがぐるりと配置してあり、人々の憩いの場として提供されていた。
ベンチの1つを良く見ると、その下に番犬バウ?と思われる犬が、のんびり横になっている。人々が目の前を通り過ぎても全く関心なしで、声を掛けられても微動だにしない。
イツキは、そんな番犬バウの様子を、少し離れた所から観察していた。
教会に着いてから直ぐに、イツキはバウについて、いろいろな人から話を聞いていた。
「ねえねえ、バウってどんな犬なの?」
「うーんそうだな、ファリス(高位神父)のエダリオ様以外の命令は、ほとんど聞かないなぁ……反応もしないぜ。その代わり、言わなくてもきちんと仕事してるけどな」
と、一番バウを目にする仕事をしてる、教会警備隊のモグさんが言ってた。
その他の人の話は、バウは頭を撫でられるのが嫌いとか、怪しい人間を見付けたら凄い声で吠えるとか、まだ町の人に噛みついたことがないとか、無駄に吠えないとか、めったに尻尾を振らないなどだった。
1時間くらい観察したところで、イツキはバウの隣のベンチに座った。そして、バウの方を見ずに話を始めた。
「毎日お仕事ご苦労さま。管理人のモーリーさんが言ってたけど、バウは教会に来る人の足音を全部覚えてるんだってね。すごいねぇ。僕の足音も覚えてくれたかな?僕はまだ1度も犬に触ったことがないんだ。いつか仲良くなったら、よしよしさせて貰えたら嬉しいな」
それから暫く何も話さず、ただ隣で、大好きなオルゴールのメロディーを口ずさんでいた。
朝の祈りの時間が始まり、人々は大聖堂へと入ってしまった。広い中庭にはイツキとバウだけになり、ベンチから下りたイツキが、バウの方へ1歩だけ踏み出した時、1人の男が礼拝堂に入る姿が目に入った。
『誰だろう?』ミノス正教会に来たばかりのイツキには、当然見覚えのない男だった。
イツキはバウのいるベンチから、少し離れたベンチに移動し、礼拝堂の様子をうかがうことにした。
すると、バウがイツキのベンチの横に来て座った。
「なんだか怪しい人だと思わないバウ?」
「・・・」バウは何も答えない。
暫くして礼拝堂の扉が開き、先程の男が出てきた。手には袋の様な物を持っている。
「ねえバウ、礼拝堂に入る前は何も持って無かったよね?」
イツキはこの時、その男が黒いモヤモヤに包まれているのを見ていた。
「バウ、あれは泥棒だ。君もそう思うよね。僕は大声で叫んで人を呼ぶから、バウはあの男を逃がさないでね」
イツキは初めてバウの方を見て、小声でお願いした。
バウと同時に立ち上がり、バウは逃げようとすると男の元へ一気に駆けていき、イツキは大聖堂へと駆けていく。
「泥棒だよー!誰か来てー!」
「ワン、ワン、ワン」
バウは男の前に立ち塞がり、歯を剥き出しにして「グルゥー、ウー」と威嚇する。
「くそっ、犬がいたのか!どけ!邪魔だ!」
男は袋を振り回して、バウを排除しようとする。
バウは一段と姿勢を低くして、激しく吠え、左右に動きながら男の動きを止める。
「誰か来てー!泥棒だー!」
イツキは全速力で走りながら、叫び続ける。
「どうした?何があった?」
警備隊のモグさんとビンダルさんが、駆け付けてきてイツキに問う。
イツキは「はーはー」息を切らしながら、苦しくて話せない。バウの方を指差して、来た道を戻ろうとする。
「バウが吠えてるな!よし、イツキは危ないからここで待ってろ。いいな!」
警備隊の2人がバウの方へ走って行き、あっという間に泥棒を捕まえてくれた。
その頃には、バウの吠える声を聞いた人々が、駆け付けて来ていた。
「よーし良くやったぞバウ。お手柄だ!」
バウを褒めながら、頭を撫でようとする人たちの手をすり抜け、バウは歩き出す。
「バウー!偉かったねー」
犯人が捕まって安心したイツキは、震える足で歩きながら、まだ遠くにいるバウに声を掛けた。今になって、怖くなってきたイツキである。
ガクガクする足で、一番近くのベンチに腰掛けて、バウが来るのを待つ。
バウはイツキの前まで来ると立ち止まり、「ワン!」と可愛く吠えて尻尾を振った。
そして珍しくベンチの上に飛び上がると、イツキの横に座った。
「僕たち頑張ったね」
イツキはそう言いながら、バウの頭をよしよしと撫でまくった。
お返しに、バウはイツキの顔をペロペロと舐め始めた。
「バウ、くすぐったいよ~」
駆け付けて来ていた人たちは、その珍しい光景に驚きつつ、そして癒されながら眺めていた。
神父パルが朝の祈りから戻ってきたので、午後から始まる勉強について、ファリスの執務室で打ち合わせを始める。
「おはようございますハビテ様。今日から張り切って私の学んだことをお教えいたします。自分の様な一般神父が、最年少ファリスであられるハビテ様と、ともに勉学について論じる機会を頂き、とても感激しています」
喜びに満ちた顔で、パルは挨拶をする。
「そんなにかしこまらなくていいよ。それに、君が勉強を教えるのは僕じゃないんだ。昨日一緒に来たイツキの方だから」
やっぱり勘違いしてたんだと、心の中で溜め息をついた。
「あのう・・・聞き間違いでしょうか?今、イツキ君とおっしゃいましたか?」
「すまんすまん。君にはこれから重要な人物に、君の得た全ての知識を教えて欲しいと言ったのは私だ。だが、それがファリスだとは言って無かったはずだ。イツキも教会にとって大切な存在だから、解りやすく教えてやって欲しい」
エダリオ様は、自分の説明不足を詫びられ、改めて指示を出された。
明らかにガッカリした表情のパルは、
「幼児に高学院の知識、それも医学や薬学について教える、意味と実用性または理解度について、どのように考えて教えればいいのでしょうか?」
と、自分が低く見られたと思ったのか、プライドを傷付けられたようだった。
「結論から言うと、意味は必要だからで、実用性について言うなら、本人はまだ知らないが、9歳で軍隊に入隊するからだ。理解度は自分で教えれば分かるはずだ」
俺は、リース(聖人)エルドラ様から聞いていた、パルの性格について、なんとなく納得した。
『パルは自分の知性におごりがある。どこか人を見下し、認められることに貪欲である。このまま本教会の病院で働くと、人が付いてこないだろう』
エルドラ様が心配されて、イツキの教育係に指名された訳は、[イツキの素直さ]や[知りたいと思う純粋さ]を教えるためのようである。
「私は、ファリス様を教えるための知識には自信がありますが、文字から教えるような、幼児の教育には自信がありません」
自分の知識は、高位の者にこそ相応しいと異議を唱えた。
「パル、医学や薬学の他に、イントラ連合の言葉も話せるように教えて欲しい。エダリオ様はカルート語を、ダヤンさんはダルーン語を教えられる。イツキが何処の国の言葉を、一番上手に話せるようになるか楽しみだ」
俺はパルの訴えを無視して、やるべきことをきちんと伝えた。
柔らかい春の陽射しが、ハビテの執務室に降り注ぐ午後、勉強の時間はやってきた。
「こんにちはパルさん。よろしくお願いします。僕は、知らないことを勉強するのが大好きです。ハビテから、いっぱい質問しても良いって聞いて、嬉しくて楽しみに待ってました」
にこにこ笑顔で挨拶をして、買って貰ったばかりのノートを机に広げた。
「イツキ君は字が書けるのかな?」
「はい、あっ、でもどこの国の文字ですか?」
「何処でも良いよ。書ける国の文字で、僕に質問したいことを1つ書いてごらん。できたら声を掛けてね」
パルは席を立ち、窓からの景色を眺めながら、己に課せられた、理不尽とも思える仕事に、どう向き合えば良いのか考えていた。
正直、イツキのキラキラした瞳も笑顔も、見たくはなかった。今出した課題さえ、まだ書けない幼児に何を教えろと言うのだろう……。ペンを動かす音は聞こえるが、その内容にも興味すらわかない。
「できました!同じことを3回書いたのは初めてだから、時間が掛かりました。でも、こうして並べると、文字に共通点がたくさんあって面白いですね」
イツキは、今朝自分の身に起きたことについて、質問を書いていた。
〈今朝僕は、泥棒に遭遇しました。皆に知らせるために、中庭から大聖堂へと全速力で走りました。バウと警備隊のモグさんとビンダルさんが、泥棒を捕まえてくれて、安心して歩き出したら、何故か足がガクガクして、上手に歩けませんでした。今まで全速力で走っても、足がガクガクしたことが無かったのに、どうして今日はガクガクしたのでしょうか?〉
と、ハキ神国語、ミリダ語、レガート語の3か国語で書かれていた。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
連日の豪雨で、夏バテしてました……ははっ。
次話から、武術や他の修行が始まります。




