幕間 冷め切る愛
王都・王宮。
第一王子レオナルトの執務室は、以前よりも静かだった。
いや、正確には――人が来なくなった。
机の上には、未処理の書類が積まれている。
かつてなら、自然と整理されていたそれらが、今は手つかずだ。
「……誰か、いないのか」
苛立ち混じりに声を上げる。
返事はない。
(……またか)
以前は、声を出す前に誰かがいた。
今は、呼ばなければ来ない。
呼んでも、すぐには来ない。
「……殿下」
ようやく入ってきたのは、若い文官だった。
どこか距離を保った立ち位置。
「何だ」
「評議会より、本日の協議内容の写しです」
差し出された書類は、薄い。
だが、中身は重かった。
レオナルトは、ざっと目を通し――眉をひそめる。
「……“王位継承に関する前提条件の再整理”? これは、どういう意味だ」
文官は、一瞬だけ言葉を選んだ。
「……各国からの信用度、実務遂行能力、支持基盤などについて、現状が“王位継承を前提とするに足るか”を確認する、と。」
遠回しな言い方だった。
――王位を与える前提が、揺らいでいる。
――「王になるはず」という扱いが、外されつつある。
それは、王太子候補に向けられる言葉ではない。
「そんな話、今までなかっただろう。」
「はい。しかし……」
文官は、視線を伏せる。
「最近の地方視察報告と、その後の対応について、疑問の声が多く。」
レオナルトの指が、机を叩く。
「視察は、問題なく終えたはずだ!」
「……形式上は。」
その一言が、刺さった。
文官は、それ以上何も言わず、一礼して下がる。
扉が閉まる。
「……ちっ」
レオナルトは、椅子に深く座り込む。
(何だって言うんだ)
以前は、こんな時でも――
誰かが説明を整え、問題を噛み砕き、責任を分散させていた。
(……エルフリーデ)
その名前が、ふと浮かぶ。
すぐに、首を振った。
(関係ない)
あいつは、追い出した。
雑務ばかりの、役に立たない妹だ。
――なのに。
机の上の書類は、現実を突きつけてくる。
「王位継承、再整理」
その文字が、何度見ても消えない。
※
同じ頃。
王宮内の別室で、ミレーネは手紙を握り潰していた。
「……ふざけないで」
紙質は良い。
封蝋も、見慣れた自国の紋章。
――だからこそ、内容が重い。
⸻
「情勢を鑑み、当面の間、王宮滞在は慎重に行うこと。貴女の立場については、再検討の必要がある」
⸻
再検討。
それは、遠回しな拒絶だった。
「……私は、第一王子の婚約者よ。」
誰に言うでもなく、呟く。
返事はない。
最近、自国からの使者の態度も変わった。
以前のような持ち上げはない。
贈り物も、減った。
(……まさか)
頭をよぎる言葉が、ある。
――ハズレ馬。
勝つと思って賭けた相手が、転び始めた時に使われる言葉。
(……嘘でしょう)
レオナルトは、王位を継ぐはずだった。
だからこそ、婚約した。
だからこそ、自国は自分を送り込んだ。
それが、揺らいでいる。
(……私が、悪いわけじゃない)
そう、何度も思う。
けれど。
「最近の第一王子、評判が良くないらしいわよ。」
廊下で、そんな囁きが聞こえた。
「随行官が増えるって。」
「信用されてないんじゃない?」
言葉が、胸に突き刺さる。
ミレーネは、思わず拳を握る。
(……こんなはずじゃない)
以前は、王宮にいればすべてが保証されていた。
今は――
保証が、音を立てて崩れている。
夜。
王宮の私室。
灯りは点いているが、空気は冷え切っていた。
レオナルトは、椅子に深く腰掛けたまま動かない。
机の上には、評議会の写しと、未開封の書簡。
ミレーネは、窓際に立っていた。
背を向けたまま、腕を組んでいる。
沈黙が、長く続く。
先に口を開いたのは、ミレーネだった。
「……ねえ」
低い声。
抑えているが、抑えきれていない。
「最近、あなたのところに人が来なくなったわね。」
レオナルトは、答えない。
「前は、もっと――賑やかだった。」
振り返る。
その目には、苛立ちと、不安と、そして焦りが滲んでいた。
「自国からも、手紙が来たわ。」
紙を、放り投げる。
「“慎重に行動しろ”“情勢を見極めろ”ですって。」
乾いた笑い。
「まるで、私が間違った選択をしたみたいじゃない。」
レオナルトの眉が、ぴくりと動く。
「……今は、時期が悪いだけだ。」
「時期?」
ミレーネの声が、鋭くなる。
「“時期”で済む話?」
一歩、近づく。
「ねえ、レオナルト。」
名前を呼ぶ声に、かつての甘さはない。
「あなた、王位継承が怪しいって、分かってる?」
言い切りだった。
レオナルトは、立ち上がろうとして――止まる。
「……そんなことは。」
「あるわよ。」
被せる。
「私の国が、もう動いてるもの。」
一瞬の沈黙。
そして。
ミレーネの感情が、ついに堰を切った。
「――勘違いしないで。」
声が、震える。
「私は、あなたが“第一王子だから”婚約したのよ!!」
その一言が、部屋を切り裂いた。
「愛とか、信頼とか、そんな綺麗事じゃない!」
吐き捨てるように。
「王位を継ぐから! 将来が保証されてるから! だから、私はここにいるの!」
レオナルトの顔から、血の気が引く。
「……ミレーネ。」
「何?」
即座に返される。
「今さら、“一緒に乗り越えよう”とか言わないで。」
冷たい目。
「私は、沈む船に乗るために王宮に来たんじゃない。」
沈黙。
二人の間にあったはずの「未来」が、音を立てて崩れていく。
「……じゃあ。」
レオナルトが、かすれた声で言う。
「俺が、王位を失ったら――」
ミレーネは、答えなかった。
答えない、という選択が、答えだった。
背を向ける。
「今日は、もう話したくないわ。」
扉に手をかけ、振り返らずに続ける。
「……少し、距離を置きましょう。」
破局とは言わない。
だが、修復の言葉も、もうない。
扉が閉まる。
レオナルトは、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。
机の上には、王位継承の書類。
そして、婚約者の背中が残した沈黙。
(……違う)
(こんなはずじゃない)
だが、誰も答えてくれない。
かつて、遊んでいても、観光していても、すべてを裏で整えていた存在は――もういない。
数日後。
「第一王子と婚約者、関係悪化か」
「婚約解消も視野?」
そんな噂が、社交界を巡り始める。
ミレーネは、“ハズレ馬に乗った女”として扱われ始め、レオナルトは、“王になれなかった男”として測られ始める。
まだ、正式な破局ではない。
だが。
――二人はもう、同じ未来を見ていなかった。
そして、その裏で。
かつて「切り捨てたはずの王女」が、誰にも切り捨てられない位置へ、静かに辿り着こうとしている。
それを、二人が知るのは――
もう少し、後の話だ。




