河の町の朝
数日かけた移動の末、馬車は夜明け前に古都へ入った。
高い城壁は、朝靄の中で輪郭だけを残している。
門をくぐる際の石の音は低く、重く、響きすぎない。
この街が、通過点ではなく「迎え入れる側」であることを示すようだった。
宿に着いたのは、空がようやく白み始めた頃だった。
石造りの建物が並ぶ一角。
外観は簡素だが、通りに面した窓は広く、内部の天井も高い。
交易都市らしい、実務と格式の中間にある造りだ。
エルフリーデは、与えられた部屋で一度だけ外套を外した。
長旅の疲れはある。
だが、眠るほどではなかった。
窓辺に立ち、外を覗く。
河霧が、街の低い位置に溜まっている。
その向こうに、大河があるのが分かる。
船の影。
桟橋。
対岸に見える、別の国の紋章。
連合のものもあれば、見慣れない旗もある。
(……ここは)
王宮ではない。
連合の都市でもない。
どの勢力の中にも属さない場所。
それだけで、空気の重さが違った。
通りの奥から、鐘の音が一度だけ響く。
時間を告げる音というより、街が目覚める合図のようだった。
ほどなくして、扉が軽く叩かれる。
「起きてる?」
ルーカスの声だった。
「はい」
エルフリーデが答えると、扉が開く。
彼も、すでに身支度を整えていた。
移動中に見せていた、少し緩んだ雰囲気はない。
完全に仕事の顔だ。
「朝食は一時間後だ」
淡々とした報告。
「それまでに、街の動きを一度見ておきたい」
「分かりました」
エルフリーデは、頷く。
ルーカスは、彼女の首元に一瞬だけ視線を向けた。
そこにあるネックレス。
細い鎖。
小さな飾り。
誘拐の際に奪われ、取り戻したもの。
今は、彼女の日常の一部になっている。
「……やっぱり、似合ってる」
それだけ言って、視線を外す。
評価でも、気遣いでもない。
確認に近い声音だった。
エルフリーデは、首元に触れず、ただ答える。
「ありがとうございます」
二人で廊下へ出る。
宿の階段は石造りで、足音が低く響く。
下階では、すでに他国の使節らしい一団が朝の準備をしていた。
言語は様々だが、話題は同じだ。
今日。
この街で始まる催し。
外へ出ると、朝の冷たい空気が肺に入る。
石畳はまだ湿っている。
だが、すでに人の動きはある。
荷を運ぶ者。
文書を抱えた官僚。
警備の兵。
護衛も、自然な距離でついてきていた。
目立たない。
だが、確実に視界に入る位置だ。
「……賑やかですね」
エルフリーデが言う。
「式典の朝は、どこもこうなる」
ルーカスが答える。
「表向きは祝賀。裏では、全員が立ち位置を確認してる」
エルフリーデは、街を見渡した。
石の建物。
河。
各国の旗。
ここでは、過去も肩書きも、完全には消えない。
だが、隠れる場所もない。
(……立つ場所を、選ぶんだ)
守られるか、逃げるかではない。
どう立つか、だけが問われる。
宿へ戻る途中、エルフリーデは自然と歩幅を揃えた。
隣にいる人の存在を、意識しすぎず、頼りすぎず。
「準備、間に合いそうですか」
彼女が尋ねる。
「問題ない」
即答だった。
「君が隣に立つなら、十分だ」
それ以上は、言わない。
エルフリーデも、答えなかった。
ただ、視線を前に向ける。
これから確認すべきことは多い。
動線、警備、入場の順。
どの場面で誰と話す可能性があるか。
式典は、華やかな社交の場であると同時に、各国が互いの立場を測る実務の場でもある。
準備は、まだ続く。
今日一日は、そのために使われることになる。
二人は並んで宿へ戻った。
それぞれが、頭の中で同じ予定をなぞりながら。




