貴方という人
屋敷に戻ったのは、夕方近くだった。
日中の人通りが引いた通りは静かで、
昼間に見た街の賑わいが、少し遠い出来事のように感じられる。
玄関をくぐると、使用人が一礼して迎えた。
普段と変わらない光景。
だが、エルフリーデの中には、まだ外の空気が残っていた。
「お帰り」
応接寄りの廊下で、ルーカスが声をかける。
書類を片手に持ったままの姿は、いつも通りだ。
だが、視線は彼女の表情をきちんと捉えていた。
「……ただいま戻りました」
返事をしてから、少し間を置く。
ルーカスは、彼女の歩調に合わせて隣に立った。
「どうだった」
問いは短い。
だが、答えを急かす調子ではなかった。
エルフリーデは、すぐには口を開かなかった。
今日一日の出来事を、順に思い返す。
街の音。
マグダレーナの勢い。
三女の淡々とした言葉。
そして、そのどれにも悪意がなかったこと。
「……素敵な方達でした」
自然と、そう言っていた。
評価でも、社交辞令でもない。
事実としての感想だった。
ルーカスは、小さく息を吐いた。
「それなら、よかった」
それだけ言って、話を切り上げる気配もあった。
だが、エルフリーデは一歩だけ踏みとどまる。
胸の奥に、さっきから引っかかっている感覚があった。
「……ルーカス様」
名を呼ぶ声は、静かだった。
彼は、書類を脇に置き、きちんと彼女に向き直る。
「なに?」
エルフリーデは、言葉を探すように視線を落とす。
「今日」
短く切り出す。
「お二人と話していて……」
指先が、無意識に外套の縁をなぞる。
「私、気づいたんです」
顔を上げる。
「ルーカス様のご家族のこと、何も知らなかった、と」
言い訳でも、責めでもない。
ただの事実だった。
ルーカスは、少しだけ目を瞬かせた。
驚きというより、
その話題が来ることを、どこかで予想していたような反応だった。
「……聞きたい?」
確認するような問い。
エルフリーデは、迷わず頷く。
「はい」
言葉に力は入っていない。
だが、揺れもなかった。
「よければ」
一呼吸置いて、続ける。
「聞かせてください」
ルーカスは、しばらく黙っていた。
考えているというより、
どこから話すかを整理している沈黙だった。
やがて、歩きながら言う。
「場所、移そうか」
応接間ではなく、
普段二人で使っている小さな居間だった。
窓から差す夕暮れの光が、床に長い影を落としている。
ルーカスは、椅子に腰を下ろし、背もたれに軽く体重を預けた。
「たいした話じゃない」
前置きは、淡々としている。
「でも、長くなるかもしれない」
「構いません」
エルフリーデは、向かいに座った。
視線は逸らさず、ただ聞く姿勢を取る。
ルーカスは、天井を一度だけ見上げてから話し始めた。
「母は、雲漢王朝の王女だった」
その名前を、説明することはしない。
だが、重みだけは自然と伝わる。
「政略婚だよ」
短く。
「同盟のための、正しい選択だった」
評価は、そこまでだった。
「ただ」
言葉が、わずかに緩む。
「完全に打算だけ、というわけでもなかった」
エルフリーデは、何も言わずに頷く。
続きを、待つ。
「父は、あの人なりに誠実だったと思う」
肯定でも、擁護でもない。
距離を取った言い方だった。
「母も、王女としての役目は果たした」
視線を、床に落とす。
「でも」
ほんの一瞬、言葉が詰まる。
「王宮は、母にとって居心地のいい場所じゃなかった」
異国。
文化の違い。
価値観の隔たり。
それらを、あえて並べることはしない。
「雲漢では、沈黙は強さだ」
「ここでは、沈黙は誤解を生む」
エルフリーデは、その言葉の意味を、すぐに理解した。
「母は、目立たなかった」
「だから、守られてもいなかった」
責める響きはない。
事実として語っている。
「僕は、五番目だ」
言い直す必要のない数字。
「上に兄姉がいて、役割はすでに埋まっていた」
そこで、ふっと小さく笑う。
「何もしなければ、いないのと同じになる」
「……それで?」
エルフリーデが、静かに続きを促す。
「だから、外に出た」
迷いのない声だった。
「王宮の中で場所を探すより、
自分で場所を作った方が早い」
それが、連合商務調整局だった。
「第五王子、という肩書きは」
少しだけ、間を置く。
「使うと、何かを奪う」
「使わなければ、何も残らない」
そのどちらも、選びたくなかった。
「だから、名前を隠した」
「役割も、切り離した」
淡々とした語り口だが、
その選択の重さは、十分すぎるほど伝わる。
エルフリーデは、膝の上で手を組んだ。
(……独立した人)
自分とは、違う。
王宮に残り、
役割に押し潰され、
それでも抜け出せなかった自分とは。
「兄たちは」
ルーカスは、話題を移す。
「皆、ちゃんと王族だ」
評価は、簡潔だった。
「向いている人間が、向いている場所にいる」
「僕は、そうじゃなかった」
それだけの話だ、と言わんばかりだった。
しばらく、二人の間に静けさが落ちる。
エルフリーデは、すぐには何も言わなかった。
慰めも、共感も、ここでは違うと分かっている。
だから、ただ一つだけ口にする。
「……教えてくださって、ありがとうございます」
心からの言葉だった。
ルーカスは、少しだけ目を細める。
「重くなかった?」
「いいえ」
首を振る。
「知れて、よかったです」
それ以上は、言わない。
ルーカスも、理由を聞かなかった。
窓の外では、夕暮れが夜へと変わりつつある。
家族の話は、終わった。
だが――
その日から、エルフリーデの中で
「ルーカスの隣」という場所は、
少しだけ、輪郭を持ちはじめていた。




