削らない
屋敷探しと家具選びを終えた帰り道、
二人は王都の大通りから一本外れた道を歩いていた。
人通りは少なく、夜に向かうにつれて、街の輪郭が静かにほどけていく。
昼間の喧騒が遠のいた分、音は少ない。
足音と、遠くで鳴る馬車の軋みだけが残っていた。
通り沿いに、淡い灯りが一つ見える。
香りだった。
甘く、重く、少し焦げたような匂い。
エルフリーデが、気づくより早く。
ルーカスの足が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
歩調が、遅れる。
視線が、自然と横へ流れる。
店先に掲げられた、小さな看板。
異国風の意匠。
半開きの扉の奥から、柔らかな光と、煙の匂いが漏れている。
水タバコの店だった。
エルフリーデは、隣を歩く彼の様子を横目で見た。
言葉にはしない。
だが、立ち止まりかけた理由は、すぐに分かった。
「……あ」
ルーカスが、短く息を吐く。
それは、気づいてしまった時の声だった。
「いや」
すぐに、言い直す。
「何でもない」
歩き出そうとする。
だが、その動きは、どこか不自然だった。
エルフリーデは、足を止めた。
「……ルーカス様」
名を呼ぶ声は、静かだった。
責める調子はない。
ルーカスも、歩みを止める。
少しだけ、困ったような表情で振り返った。
「気づいた?」
確認するような問いだった。
「はい」
短く答える。
「……お好き、ですよね」
水タバコ。
そう言わなくても、十分だった。
ルーカスは、視線を店から外す。
夜道の先を見たまま、肩をすくめた。
「まあね」
否定はしない。
「仕事の合間に、たまに」
“たまに”という言い方は、やや控えめだった。
沈黙が、短く落ちる。
店から流れてくる甘い香りが、風に乗って二人の間を抜ける。
ルーカスが、少し間を置いて口を開いた。
「でも」
言葉を選ぶ声音。
「君と住むなら、もう買わない」
淡々とした言い方だった。
宣言というより、事実の整理に近い。
「部屋に匂いも残るし」
「火の管理も、気を遣わせる」
理由は並ぶ。
どれも、もっともだ。
「だから」
視線を戻す。
「やめる」
その言葉は、軽かった。
迷いを含んでいない。
エルフリーデは、一瞬だけ言葉を失った。
胸の奥に、ひっかかるものが生まれる。
小さく、だがはっきりと。
「……それは」
声に出すまで、少し時間がかかった。
「私のせいで、ですよね」
問いではない。
確認に近い。
ルーカスは、すぐに首を振る。
「違う」
短く、きっぱりと。
「僕の判断だ」
言い切る。
だが、それでも理由は分かってしまう。
エルフリーデは、視線を落とした。
石畳に落ちる灯りの形を、しばらく見つめる。
「……嫌です」
ぽつりと、そう言った。
ルーカスが、わずかに目を瞬かせる。
「嫌?」
「はい」
顔を上げる。
視線は、まっすぐだった。
「私のために、ルーカス様の楽しみが消えるのは」
言葉を探しながら、続ける。
「それは、違うと思います」
押しつけではない。
だが、はっきりとした意思だった。
ルーカスは、すぐには返さなかった。
少しだけ考える素振りを見せる。
「……依存してるわけじゃない」
言い訳ではない。
説明に近い。
「なくても困らない」
「でも」
エルフリーデは、静かに言葉を重ねる。
「“なくても困らない”と、“あっていい”は、別です」
ルーカスは、息を止めたように見えた。
「私」
少しだけ、言いづらそうに続ける。
「誰かの都合で、身の回りを削られる生活は、もう十分経験しました」
責める声ではない。
過去をなぞるような、淡々とした調子。
「だから」
視線を逸らさず言う。
「私と一緒に住むことで、ルーカス様の何かが減るのは……嫌です」
夜風が、二人の外套を揺らす。
ルーカスは、しばらく黙っていた。
水タバコの店から、笑い声が一つ漏れる。
やがて、低く息を吐いた。
「……参ったな」
困ったように、けれどどこか楽しそうに。
ルーカスは小さく息を逃がした。
「そういう言い方をされると」
視線を、エルフリーデに戻す。
「説得力がある」
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
「じゃあ」
言葉を区切って、続けた。
「完全にやめる、は撤回する」
エルフリーデの目が、わずかに見開かれる。
「ただし」
彼は、淡々と条件を並べる。
「吸うのは、自分の部屋だけ」
「共有の空間では、絶対に吸わない」
「匂いも、外に出さない」
理屈としては、徹底している。
「頻度も減らす」
「君が不快だと言ったら、その時点で考え直す」
最後の一言は、条件というより約束だった。
「それなら」
少し考えてから、言う。
「どうだろう」
エルフリーデは、数秒だけ黙った。
石畳に落ちる灯りを見つめ、それから顔を上げる。
「……それなら」
小さく、頷く。
「いいと思います」
ルーカスの口元が、わずかに緩む。
「交渉成立だ」
どこか、異国の商人めいた言い回しだった。
「……今の言い方」
エルフリーデが、ふと気づいたように言う。
「少し、雰囲気が違いました」
「そう?」
「はい」
少し首を傾げる。
「異国の商人の方みたいでした」
ルーカスは、一瞬きょとんとしてから、軽く笑った。
「昔の癖だよ」
意味深な言い方だったが、深掘りはしない。
「じゃあ」
歩き出しながら、付け加える。
「次は、家具の配置でも交渉しようか」
「……それは」
エルフリーデも、歩き出す。
「負ける気がしません」
二人の足音が、再び揃う。
水タバコの甘い香りは、背後に遠ざかっていった。
だが、その夜の出来事は、確かに残った。
生活を削らない。
楽しみを奪わない。
そうやって、少しずつ。
二人は「一緒に暮らす形」を、すり合わせ始めていた。




