#98 お面
再び私の前に旦那が現れた。
『そろそろ落ち着いたかい?』
「…うるさい。貴方に心配される筋合いはありません。」
『こっちだ。』
旦那は私の言葉を遮るように違う方向へと歩き出した。
渋々後を着いて歩いて行くと、裏口の扉へと辿り着いた。
『ここからなら抜け出せる。さあ、早くウルルに会うんだ。』
私は、何故か脚が竦んだ。
『どうしたんだい?』
「…結局、あなたの望みは何なの?」
私の質問に旦那は呆れた様子で溜息を吐いた。
『僕はね、獰猛な動物とも共存できる世界を望んでいる。それは僕の両親が熊に襲われて亡くなってしまったからさ。しかし、法律上熊を殺す訳にもいかない。どの熊が両親を殺したのかさえ分からない。では、言葉を話せたら?熊と通じ合えば、両親を殺した熊に会える。そう思ったのが始まりだ。』
彼の語る未来は、彼自身の願望で満ちていた。誰しもがそう思うだろうと、自分勝手な価値観を押し付けているとも知らずに。
「…あなた言ったわよね。ウルルに世界を征服させる為に私に熊を産み続けろって。それが共存とどう繋がるって言うのよ。私に熊なんて産めるわけ…」
この瞬間、私の脳裏にはウルルの姿が過ぎった。
『さっきも言ったが、ウルルは神威の子なんだ。ウルルみたいな力作は、もう二度と産まれないかもしれない。野生のような熊が産まれるのか、それとも特異体質の熊が産まれるのか。未来が分からないからこそ君は熊を、子を産み続けなければならない。これは偶然でなく必然であり運命なんだ。君はもう熊として…いや、熊の王として生きていくしかないんだよ。』
「…狂ってる…私は何故…こんな人を愛してしまったの…」
自身の口から零れたはじめての最低な言葉だった。
愛してしまったが故の惨劇とでも言うべきだろうか。
頬を伝う涙が口に入った時、何故か血の味がした。
私は、そのまま裏口の扉から逃げ出した。
草原を駆け抜け、それらは次第に土へと変わる。時々踏む砂利や石を踏みつける時の痛みに耐えながら、走り続けた。ダラダラと流れる涙と鼻汁を、私は何度も右腕で拭った。
気が付けば辺りは見覚えのある景色へと変わり始めた。
いつか家族で行ったスーパーや飲食店を横目に、過去の記憶が蘇る。胸の内が痛くなりながらも横切り、私はウルルの元へと急いだ。
しかし・・・
暗闇に包まれる街中、奥へ進み続けて行くと人々の悲鳴が聴こえた。
「…何これ。」
そこは黒ではなく橙。
暗闇に炎を灯すように。
悲鳴が交差する中、街は燃え、人は死に、血が飛び散る。
その中に立つ小さな背丈の後ろ姿。
まるで、赤子のような。
振り返るその顔容、無表情で笑みを浮かべているようであった。
頬に付着した血を拭えば、頬の上で赤黒い血が伸びる。
「……嘘…ウ…ルル。」
それは見覚えのある顔。
いや、お面であった。




