第二話「馬車馬のように奔れ《オペレーション・スレイプニル》」
開かれたセキュリティシステムをもう一度固めなおして、外へ出る。申し訳程度の感覚器官が気温二十八度近くの暑さをかすかに伝えてくれる。
「ほら、来いよ」
そう言いながら、その手の選手が使うような流線形のヘルメットを頭に着けた先輩は颯爽と――やたらとその脚を振り上げてみせながら――狭い玄関先に置かれた自転車に跨り、ベルを二回鳴らして走っていった。
車じゃないのかよ、と突っ込みたくなるのをぐっと堪えて、モーターを力強く動かした。
以前であれば、こんな円筒物が地面を走ろうものなら坂道やカーブで転倒して辺りを惨状に変えるところだが、慣性制御システムが整備されるようになってからは、歩道であれば走ってよいと言われるほどに進歩した。
と言っても、その基準を超えた坂道と段差には弱い。ぼくの隠れ家も基本的に段差や坂道、階段は作らなかった。
つまるところ、先輩のこの行動は暴虐の極致である。特に隠れ家を出て数キロと離れない地点の坂道は、こんなところに隠れてしまったぼくの不運を嘆くほどだ。何を隠そう、ぼくの隠れ家は中心市街地を離れた山奥にある。そこから一気に下るのだからたまったものではない。一応日常生活が可能なように車輪の間隔がある程度開いたり、ちょっとばかし傾いても対応できるようになってはいるものの、はっきり言ってこれでこの山道を駆け下りるのはメーカーにとっても想定の範囲外だろう。
だが悲しいかな、既に先輩とぼくとのレースは開始していた。いざという時に全力疾走で逃げられるよう脚部の設定を怠らなかったのがある意味救いか、それとも皮肉か。
先輩が、そのバイクレース仕様らしい自転車を巧みに動かして抜けていく急カーブをぼくは必死の思いで曲がった。タイヤと関節部分が悲鳴を上げながらそれに応える。
見た目は小学生かギリギリ中学生というほどでも、義体の力を舐めてかかると酷い目に遭う。
だが、先輩はプロテクター等を全く着けずに走っていいスピードでは無い速度で走っている。舗装されているとはいえこんな山道で転ぼうものなら、あっという間に山底に転落か、偶然通りかかった自動車と激突するかの二択だ。……それは、ぼくも同じなのだが。
対抗車両も後続車両も来るんじゃないと祈りつつ、麓に下りる3つ目のコーナーを曲がった。
HUDに浮かぶ慣性制御のゲージが赤に振れている。
ブレーキを忘れてはならない。さっきこれをレースと言ったものの、これが大事なのではないからだ。それにどうせ、たかだかぼくの数十万程度の簡易生命維持装置では、先輩の本気のチューンナップの義体と自転車には勝てやしない。
先輩は、あくまで先導役に過ぎない。だが……そういう風に思っていれば、すぐに先輩を見逃してしまう。
次の坂道、意を決して慣性制御を切る。
装置に使われている特殊鋼材「ネームレス」が生み出す力量場によるリミッターが外れ、重力が掛かって更に加速。もうモーターの勢いというより位置エネルギーの勢いといった感じで、悠然と前を立ち漕ぎで走る先輩のやたらと突き出された尻に数メートルの距離まで近づいた。ぶつかりそうに思われて、少しだけ慣性制御を戻す。
『見んなよ変態』
スパッツからくっきりと扇情的なラインが浮き出る先輩の尻から届く有難い無線通信に答える。
『はえーよスピード狂』
『なんだ、まだ元気だな』
『そろそろ警察に見つかりますよ?』
『そうだな、じゃあ……』
急に、先輩の尻が視界の右端へと消える。
『……勝ちは譲るわ』
――目の前には、第4コーナー。ほとんど直角のU字路。
――馬鹿野郎。
慣性制御とブレーキをフルに使ってドリフト……できず、ガードレールに火花を散らしながら、最初を思えばすっかりなだらかになった下り坂を時速10キロぐらいのスピードで走行。
ぶはははは、というおよそうら若き乙女が出してはいけない笑い声が後ろから飛んでくる。
『そんなに俺の尻が好きか変態!チェッカーフラッグは貰った!』
レースはまだ終わってはいなかった。立ち漕ぎの先輩が向こうへかっ飛んでいく。
(ピー)ぶっ(ピー)してやる、とか言ってはいけない。
どこにチェッカーフラッグがあるんだ、とか言ってもいけない。
――耐えろ。この屈辱を耐え凌げ。
『……見せたがりがほざくな――――――――――――――ッ!!』
無理だった。
実際HUDの左下にこの周辺のミニマップまで出していたのにも関わらず、愚かにも先輩の、その尻と脚の上下に動く様を直視して惚けていたのだからもうたまらない。
『ハッハッハ、らしくなってきたなこのド変態野郎!どうした?変態らしく俺を捕まえてみせろよ!』
ああ、せっかく平穏な日常を得られたと思っていたのに。
『アンタが悪いんだ!アンタが俺を怒らせたんだ!』
何に苦しむ必要も無い世界に逃げることが出来たと思っていたのに。
『貴様は俺の尻でも胸でも股間でもなんでも写真に写してベロベロ舐めてるのがお似合いだな!アーッハッハッハ!』
またこの人が、何もかも全部台無しにする――!
白熱する勝負を鼓舞するかのように、吹き抜けた青空は涼やかな風を運んでいた。
午前九時過ぎ。新地球、T県Y市会見町入口へと至る車道。二人の激走は、その横を何も知らない自動車が一台、また一台と過ぎていくうちに鎮火した。




