第75話 快適性と、理解不能の天秤
「申し遅れました」
副学院長は静かに一歩前へ出て、カイへ向き直った。
「私は王都魔導院副学院長、セレスティア=ヴァルハインです」
そして一拍置いて、淡々と続ける。
「この国における魔法体系の管理・研究統括、及び魔導技術の運用監督を担当しています」
その言葉に、空気がわずかに変わった。
ただの“学院の副学院長”という響きではない。
国の魔法そのものに関わる立場だと、自然に伝わる重みだった。
「え……それって」
リナが小さく声を漏らす。
「かなり上の人じゃない?」
ティアも目を丸くしている。
「王国全体の魔法の管理って……そんな方が直接……」
エルミナが静かに頷く。
「実務の中枢の一人ですね」
ベルクは腕を組んだまま短く言う。
「上の中の上じゃな」
セレスティアはそれらの反応を気にした様子もなく、視線をカイへ戻す。
「カイ君」
「はい」
「もう一度聞きます」
静かな声。
だが、その場の空気がわずかに重くなる。
「あなたにとって、“魔法”とは何ですか?」
リナが横で小さく息を呑む。
(またその系統の質問……)
ティアはただ真剣に聞いている。
エルミナも黙って成り行きを見守っていた。
ベルクは腕を組んだまま、少しだけ目を細める。
カイは少し考えた。
数秒後。
「……便利なもの?」
「便利?」
セレスティアが静かに繰り返す。
「うん」
カイは頷いた。
「汚れを取ったり、空気を整えたり、危ないのを減らしたり」
「それは結果です」
「そうなの?」
カイは首を傾げる。
セレスティアは一歩だけ近づいた。
距離が詰まると、彼女の存在感がよりはっきりする。
それでもカイは動じない。
「では質問を変えます」
「はい」
「あなたは“魔法を学んでいる”のですか?」
「たぶん違う」
「では、誰に教わったのですか?」
「教わってない」
即答だった。
リナが目を丸くする。
「えっ?」
エルミナが慎重に続ける。
「では……独学、ということですか?」
「うん。でも“考えたらそうなる”感じ」
沈黙。
セレスティアの瞳が、わずかに揺れた。
「……考えたら、そうなる?」
「こうしたらこうなるって分かるから」
「魔法式は?」
「見えてない」
「使っていない、ということですか?」
「たぶん要らない」
その一言で、空気が変わる。
エルミナが息を呑む。
「……魔法式なしで現象を成立させている?」
ベルクが小さく呟く。
「やっぱりそこか……」
リナは頭を抱える。
「もう完全に常識の外側じゃない……」
ティアは少し嬉しそうだった。
「でも、すごく分かりやすい気もします」
セレスティアはその言葉を一瞬だけ受け取り、カイへ視線を戻す。
「あなたの魔法は、既存の理論体系には属しません」
「そうなの?」
「はい」
断言だった。
「少なくとも、私の知る限りでは“分類不能”です」
ベルクが苦笑する。
「分類したがると頭痛くなるぞ」
「既にしています」
即答だった。
だがその目は冷静だった。
観察者の目に戻っている。
「一つだけ確認させてください」
「はい」
「あなたはその力を、“意図的に制御”していますか?」
カイは少し考える。
「汚れないようにはしてる」
「それは制御ではなく“基準”です」
「基準?」
「あなたの中に“これ以上はやらない線”があるかどうかです」
カイは少しだけ沈黙した。
そして素直に答える。
「……あると思う」
「それは?」
「床が壊れるのは嫌」
セレスティアの表情がわずかに変わる。
驚きではない。
理解しきれないものを再計算する静かな動きだった。
「……なるほど」
小さく息を吐く。
「本部へ報告します」
ベルクは肩をすくめる。
「好きにせい。ただし騒ぎは起こすなよ」
セレスティアは一度だけカイを見て、静かに言った。
「――この人の扱いは、私たちの常識の外にあります」
その言葉は、確信に近かった。




