第1話 はじめての旅と、最高の寝床
スズハラ カイの世界は、ずっと狭かった。
白い天井。
薬品の匂い。
機械音。
窓から見える、四角く切り取られた空。
それが、彼の“世界の全部”だった。
生まれつき身体が弱かった。
立つことも、走ることもできない。
十七年間、病院のベッドの上だけで生きてきた。
本の中では、冒険者たちが剣を振り、魔法を放ち、自由に世界を旅していた。
だけどカイにとっては、自分の足で歩くことさえ夢だった。
「……あぁ」
ある日の夜。
弱々しかった心電図の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
視界が白く溶けていった。
不思議と恐怖はなかった。
むしろ、長い苦しみが終わる安堵の方が大きかった。
そして次に目を開けた時。
そこもまた、真っ白な空間だった。
「――お疲れ様でした」
優しい声が響く。
振り向くと、白いドレスを纏った美しい女性が立っていた。
どこか温かく、安心する雰囲気を持った人だった。
「あなたは……?」
「私は女神。あなたの魂はこれから、新しい世界へ旅立ちます」
女神が微笑む。
「次の世界には剣と魔法があります。生き抜くため、一つだけ“恩恵”を授けましょう。強力な攻撃魔法、無敵の剣術、あるいは伝説級の才能でも――」
「じゃあ、生活魔法で」
「……はい?」
女神が目をぱちくりさせた。
「いや、僕、戦いたいわけじゃないんです」
カイは少し困ったように笑った。
「ただ歩きたいんです」
「歩く?」
「自分の足で外を歩いて、風を感じて、いろんな景色を見てみたい。雨の冷たさとか、焼きたてのパンの匂いとか……普通のことを、普通に体験してみたいんです」
十七年間できなかったことを。
ただ、それだけを望んだ。
女神はしばらく黙っていたが、やがて優しく目を細めた。
「……そうですか」
彼女はそっと指を掲げる。
小さな光がカイの身体へ吸い込まれていった。
「これは“生活魔法”。火を点け、水を出し、汚れを落とし、暮らしを便利にする魔法です。あなたの旅を、少しだけ快適にしてくれるでしょう」
「ありがとうございます!」
カイは心から嬉しそうに頭を下げた。
そんな彼を見て、女神はくすりと笑う。
「行ってらっしゃい、カイ。今度こそ、自由な人生を」
意識が光に包まれる。
そして。
(……少しだけ、サービスしておきましょうか)
女神の小さな独り言は、カイには聞こえなかった。
◆ ◆ ◆
「――あ……」
目を開ける。
最初に見えたのは、どこまでも広い青空だった。
草の匂い。
土の感触。
頬を撫でる風。
病室にはなかったものが、そこには全部あった。
カイはゆっくり身体を起こす。
そして恐る恐る、自分の足に力を込めた。
「っ……!」
立てた。
自分の力で。
震えながら、一歩踏み出す。
ざくっ、と草を踏む感触がした。
「歩ける……」
涙が滲む。
一歩。
また一歩。
それだけで嬉しくて仕方なかった。
その時だった。
――ズシン。
地面が揺れた。
「え?」
ガサガサガサッ!!
巨大な茂みを突き破り、黒い巨体が現れる。
三メートルを超える巨大な熊。
全身を泥で覆い、赤い目を光らせていた。
その前脚が木を軽く薙ぐだけで、幹がバキッとへし折れる。
「――ちょっとあんた!! 逃げなさい!!」
少女の声が飛ぶ。
斜面の上から駆け下りてきたのは、革鎧を着た黒髪の少女だった。
手斧を構えながら、必死な顔で叫ぶ。
「そいつマッドベアよ!! 泥鎧のせいで武器も通らないんだから!!」
だがカイは、別のことが気になっていた。
(うわぁ……すごく不衛生だなぁ)
泥まみれ。
湿った毛。
雑菌が多そう。
病院育ちの感覚が、そちらを優先してしまう。
かわいそうなので綺麗にしてあげることにした。
「【清浄】」
ぱきぃんっ!!
白い光が森を包む。
次の瞬間。
マッドベアを覆っていた泥が、一粒残らず消滅した。
さらにゴワゴワだった毛並みが、ふわふわで艶々に変わる。
牙は真っ白。
爪はピカピカ。
森の主は、突然“超清潔な熊”になった。
「…………」
熊は自分の身体を見下ろした。
そして。
「キュゥゥゥゥン!!」
真っ赤になって森の奥へ逃走した。
「……綺麗になった」
「よくないわよ!!」
少女が叫んだ。
「何今の!? なんでマッドベアが泣きながら逃げてるの!?」
「生活魔法だけど?」
「生活魔法で森の主を撃退しないで!!」
ものすごく怒られた。
しかし少女はすぐ空を見上げ、顔色を変える。
夕日が沈みかけていた。
「まずい、もう夜になる! こんな場所にいたら危険よ! 村まで走るから!」
「えっ、走るの!?」
「走るの!!」
少女はカイの腕を掴み、半ば強引に引っ張っていく。
人生で初めて走る森の中。
それすらカイには新鮮だった。
◆ ◆ ◆
「はぁ……着いた……」
森を抜けた先には、小さな村があった。
「私はリナ。あんたは?」
「カイ。助けてくれてありがとう」
「いや、助けられたの私な気がするけど……」
リナは疲れた顔をした。
どう考えても、意味不明な魔法で熊を追い払ったのはカイである。
「今日は空き小屋を貸してあげる。ボロいけどね」
案内された小屋は、かなり古かった。
壁には隙間。
床にはホコリ。
カビ臭い。
ベッドは硬い木板そのものだ。
「毛布持ってくるから待ってて」
リナが出ていく。
一人になったカイは、部屋を見回した。
(泊めてもらうんだし、綺麗にしよう)
「【一斉清浄】」
光が部屋を包む。
瞬間、ホコリも汚れも完全消滅した。
空気まで澄み切る。
「壁も直そう」
【修復】。
ボロボロだった壁が新品みたいに戻った。
さらに。
「【着火】」
暖炉に火が灯る。
「ベッド硬いなぁ」
【柔軟】。
木のベッドが高級マットレスみたいにふかふかになる。
最後に。
「【温度調整・防虫結界】」
部屋全体が春みたいな快適空間になった。
完璧である。
数分後。
「毛布持ってき――……え?」
戻ってきたリナが固まった。
そこにあったのは、もはや別の建物だった。
「……ここ、うちのボロ小屋だよね?」
「うん。掃除しただけ」
「掃除で高級宿になるわけないでしょ!!」
リナの叫びが響く。
だが彼女は、ふかふかベッドに座った瞬間、真顔になった。
「……なにこれ」
「?」
「最高なんだけど」
そのまま数秒沈黙したあと。
リナは勢いよく立ち上がった。
「決めた!」
「?」
「私も旅に行く!!」
「えっ」
「こんな快適な旅できるなら絶対行く!!」
そこだった。
「私、ずっと村の外に憧れてたの。でも怖くて出られなかった」
リナは少しだけ照れ臭そうに笑う。
「でも、あんたとなら楽しそう」
その言葉に、カイは少し目を丸くした。
十七年間、病室で一人だった。
そんな自分に、“一緒に行きたい”と言ってくれる人ができたのだ。
「……よろしく、リナ」
「うん、よろしく!」
こうして。
“規格外の生活魔法使い”カイと、
村娘リナの旅が始まった。
なお本人だけは、自分が規格外だとまだ気づいていない。




