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懇願

王都アルデンシュタット。


カートライト商会の会議室は、磨き上げられた長机が「コ」の字に並び、窓からは石畳の大通りが見下ろせた。私の隣にはニッキーが座り、向かいには商会の幹部が五人。ベルリア支社を支える顔ぶれが、揃っていた。


「――というわけで、ガブリエル商会に入会した、マリアさんとロザリーさんです」


二人を紹介すると、幹部たちが目を見開いた。


貿易部門部長のマルコス・ガレア。経営戦略部長のカレン・ローズウッド。文化事業部長のアリア・ホークス。流通部部長のジュリアン・フェリックス。十五人規模の支社を実質的に動かす、四本の柱だ。


「カートライト商会の皆様にも、ぜひご挨拶させたくて、本日は王都までお越しいただきました」


私は、順に説明した。


「マリアには、王都店を見てもらいます。ロザリーには、ブレンナールの工場を引き続き見てもらいます」


幹部たちが、静かに頷く。


「ただ、工場の労働条件を見直したいと考えていて――そこで、カートライト商会の皆さんのお力をお借りしたいんです」


「ガブリエルさん」


口を開いたのは、マルコスだった。少し、怒っているように見えた。


「我々は、本当に心配したんだぞ。あなたがクレシェント夫人と交渉するんだと飛び出していってから、何の連絡もなくて……」


「心配をおかけして、本当にごめんなさい」


私が頭を下げても、マルコスはなお食い下がろうとした。


「ガブリエルさん、しかしですね――」


「マルコス!」


ニッキーが、それを制した。


「……ニッキー」


「ガブリエルさんが決めたことだ。ぜひ、手伝ってやってくれ」


マルコスが、口をつぐむ。ニッキーは、それからこちらを向いた。いつもの柔らかい表情が、少しだけ硬い。


「ただ、ガブリエルさん」


「は、はい」


「積もる話もあるので――僕の部屋に、来てくれますか」


威圧されるような響きが、わずかにあった。私は背筋を伸ばして、立ち上がった。


「じゃあ、マリアとロザリーは、先に帰っておいて」


「私達は、ママのところに顔を出すわ」


「うん。後で私も顔を出すから、よろしく言っておいて」


努めて笑顔を作ったけれど、頬が少しこわばっているのが、自分でもわかった。




社長室の扉が閉まると、世界から音が消えたようだった。


ニッキーは、ガブリエルに椅子を勧めたまま、自分は窓の方を向いて立っていた。何も言わない。言葉を探しているふうでもなく、ただ、外を見ている。


背中で、彼女の気配を感じていた。緊張しているのが、痛いほど伝わってくる。膝の上で、手を組んだり解いたりしているのだろう。


口を開けば、たやすく言える言葉はあった。よくやった。素晴らしい結果だ。そう言ってやればいい。それが正しい。


なのに、声が出なかった。


「あの……」


ガブリエルの方が、先に耐えかねた。


「やっぱり、怒っていますよね」


違う、とニッキーは思った。怒ってなどいない。むしろ逆だ。


「御社にお金を借りている身で、勝手に買収なんかして……ごめんなさい」


身振り手振りを交えて、彼女は必死に弁明を続けた。


「でも、これでうちは大きくなりますし、御社に卸す商品も増やせるんです。クレシェント夫人は、カトリーヌさんの基金設立にも協力してくれることになりました。これでベルモンド行政官も動いてくれるでしょうし、ブレンナールでも商売がしやすくなる――」


一息に、彼女はそこまで言った。


「だから、私……勝手に急いじゃって、すみませんでした」


「ガブリエルさん」


ニッキーは、ようやく振り返った。前を向いて、笑ってみせた。


「あなたは、何も間違っていない。素晴らしい結果ですよ」


ガブリエルが、ほっとしたように肩を落とす。


その安堵の表情を見ながら、ニッキーの胸の内は、複雑に渦巻いていた。


今回――思いを寄せる女性のために、彼はあらゆる手を尽くすつもりだった。クレシェント夫人という闇社会の女帝の前に、自分が盾になって立つ。そういう自分を、どこかで思い描いていた。


だが、彼女は、自分の力を借りずとも、すべてを一人でやり遂げてしまった。


マリアとロザリーを従えて戻ってきた彼女を見たとき、ニッキーは祝福と同時に、足元が崩れるような感覚を覚えたのだ。


それまで、ニッキーは自分のことを、それなりに優秀だと思っていた。


優秀な成績で大学を卒業し、任されたベルリア支社の設立も順調そのもの。部下からの信頼も厚く、いずれカートライト商会を率いる、頼もしい次代のリーダー――周囲は、彼をそう見ていた。


だが、それは。


偉大な父が引いてくれたレールの上を、ただ真っ直ぐに歩いてきた結果に、すぎないのではないか。


ガブリエルのように、己の手で何かを掴み取るほどの才覚が、自分にあるのだろうか。たった一人で、闇社会のボスと渡り合うほどの胆力が、あるだろうか。


そのどちらも、自分は彼女には及ばないだろう。


――だが、と彼は思い直す。ガブリエルのような人間が、この世にどれほどいる。彼女こそが、卓越した力を持つ傑物なのであって、自分が劣っているわけではないのかもしれない。


そう自分を慰めかけて、ニッキーは苦く笑った。慰めを探している時点で、答えは出ている。


元々、彼はガブリエルに惚れてもらおうと思っていた。優れた男だと、彼女に認めさせるつもりだった。だが今となっては、それはずいぶんとおこがましい望みに思える。


しかも厄介なことに、信義として「妻だけを愛する」と決めているニッキーには、女性経験というものがまるでなかった。男女の駆け引きなど、見当もつかない。


どうしたら、彼女は振り向いてくれるのだろう。


「あ、そうだ、ニッキーさん」


物思いに沈むニッキーの様子に気づきもせず、ガブリエルが声を弾ませた。


「デパート用地の、駅前の土地なんですけど。ニッキーさん、買収が進んでいない部分があるって、おっしゃってましたよね」


「……」


「良ければ、クレシェント夫人と、私が交渉してみましょうか?」


その瞬間――何かが、決壊した。


「ガブリエルさん!!!」


「は、はいっ!?」


大声に、ガブリエルが飛び上がる。


自分でも、抑えがきかなかった。彼女がまた一つ、自分の領分を軽々と越えていこうとする。手を貸す前に、すべてを片付けてしまう。このままでは、いつまでたっても、自分は彼女の隣に並べない。


「わ、私の父と、会ってくれませんか」


「……お父様?」


ガブリエルが、戸惑った顔をした。


「アルビオンにいるという、カートライト商会の会長……」


「ええ」


「もちろん、お会いできるのは光栄ですが――どうして、突然」


自分は、どうするべきなのか。


優れた男になってから、告げるべきなのか。それとも。


考えても、答えは出なかった。出ないまま、言葉が口をついて出た。


「私は」


ニッキーは、彼女を見た。


「私は――ガブリエルさんを、妻にもらいたいのです」


もはや、懇願するしか、なかった。

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