第1話 今日からお前がリオンだ
「リリアーナ。お前、今日からリオンになれ」
ローゼンフェルト伯爵家の当主であるお父様が、重々しい声でそう言い放った。
私が待ちに待った、社交界に向けた最初の宮廷茶会の前夜。
明日のために用意された淡い菫色のドレスを広げ、侍女のミレーヌと一緒にうっとりと眺めていた、まさにその瞬間のことだった。
「……はい?」
私は、自分の耳を疑った。
ドレスのレースに触れていた手を止め、ゆっくりとお父様を振り返る。
「あの、お父様。冗談にしても笑えません。私は明日、ついに社交界に向けた最初のお披露目に出るのです。このドレスを着て、令嬢として華々しく皆様の前に立つ。そのために、幼い頃からどれほどマナーやダンスの厳しいレッスンに耐えてきたことか……」
「わかっている。だが、緊急事態なのだ。リオンが……お前の双子の兄が、いなくなった」
お父様の顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいた。
「いなくなったって……お兄様は明日から、王宮へ出仕するはずですよね?」
「そうだ。王宮で働き、ローゼンフェルト家の跡取りとして人脈を築く。そのための初出仕だ。だが、あいつは部屋に手紙だけを残して姿を消した。『急用ができた。しばらく探さないでくれ』とだけな!」
私は絶句した。
急用って何。王宮への初出仕をすっぽかすほどの急用って。
うちの兄は確かに飄々としているけれど、そこまで無責任な性格ではなかったはずだ。
「今回の出仕は、ただの勤めではない。王命による王太子殿下付きの初出仕だ。ここで嫡男が王宮に現れず、しかも姿を消したと知られれば、政敵に『王命拒否』の口実を与える。王家への反逆、あるいは職務放棄とみなされ、我がローゼンフェルト家は取り潰しになるかもしれない。それだけは絶対に避けねばならん!」
お父様の悲痛な叫びが、執務室に響く。
言いたいことはわかる。
だからといって、その解決策が「双子で顔がそっくりな妹を男装させて身代わりにする」というのは、あまりにも短絡的すぎやしないだろうか。
「無理です。絶対にお断りします」
私は即座に、そしてきっぱりと言い切った。
「頼む、リリアーナ! お前しかいないんだ!」
「嫌です! 私は明日、ドレスを着るんです! 王子様に手を取られて、エスコートされるんです!」
ただの我が儘ではない。
私には、どうしても「可憐な令嬢」にならなければならない理由があった。
私、リリアーナ・ローゼンフェルトには前世の記憶がある。
前世の私は、女性だけで構成される世界的な劇団――星都歌劇団の、男役スターだった。
舞台の上で照明を浴び、マントを翻し、剣を振るう。
私のウインク一つで客席からは悲鳴のような歓声が上がり、何千人ものファンが拍手を送ってくれた。
あの熱狂、あの舞台。
男役としての誇りと情熱は、今でも私の魂に深く刻み込まれている。
けれど……本当は。
私は、一度でいいから、あのフリルとレースがたっぷりとあしらわれた可憐なドレスを着てみたかった。
自分から手を差し出すのではなく、誰かに手を取られる「娘役」になってみたかったのだ。
だが、私の高身長と恵まれた骨格、そして中性的な顔立ちが、私を「理想の王子様」の枠に縛り付けた。
ファンの夢を壊すわけにはいかない。私は完璧な王子様を演じ続け、そしてその願いを口にすることすらできないまま、前世の命を終えた。
だからこそ、異世界の伯爵令嬢として生まれ変わった時、私は心の中で歓喜の舞を踊ったのだ。
今世こそ、姫になれる!
理想の令嬢として、フリフリのドレスを着て、可愛いお茶会をして、素敵な王子様に溺愛される人生を送るのだと!
その悲願が達成される記念すべき第一歩が、明日の宮廷茶会だった。
それを、兄の身代わりで男装しろだなんて。
冗談じゃない。絶対に嫌だ。
「頼む、リリアーナ……。このままでは路頭に迷う。我が家が潰れれば、お前だってドレスどころではなくなるんだぞ」
お父様が、ついに床に膝をついて頭を下げてきた。
伯爵家の当主が、実の娘に対して土下座である。
私は大きくため息をついた。
確かに、家が没落してしまえば、令嬢としての優雅な生活は終わる。美味しい紅茶も、新作のドレスも、すべては伯爵家という地盤があってこそだ。
……それに、あの不器用だけれど妹思いの兄が、ただ逃げ出すとはどうしても思えない。何かよほどの事情があったのではないか。
私はゆっくりと目を閉じ、そしてカッと見開いてお父様を見下ろした。
「……引き受けましょう。ですが、条件があります」
ただ家のために自己犠牲になるつもりはない。
これは、私の夢を守るための「契約」だ。
「じょ、条件とはなんだ?」
「一つ。期限は三か月です」
「なっ、たったの三か月!?」
「二つ。その間に兄が見つかり次第、身代わりは即終了です。探す手立ては全力で講じてください」
「わ、わかった」
「三つ。この国で令嬢が正式に社交界へ出る特別な舞台……数ヶ月後の白薔薇舞踏会には、必ず『リリアーナ』として出ます。これは絶対に譲れません」
白薔薇舞踏会。
お母様と一緒にドレスを選び、「この夜だけは、お前が主役よ」と言ってくれた、私にとって一番大切な夜。
それだけは、何があっても奪わせない。
「四つ。任務後の結婚、進路、生き方はすべて私が自分で選びます。家のために好きでもない相手と政略結婚しろ、などという命には従いません。五つ、お父様はその自由を正式に認めること。……いかがですか?」
私の突きつけた五つの条件に、お父様は口をパクパクとさせた後、力なく頷いた。
「……よかろう。約束する」
「交渉成立ですね」
私はにっこりと微笑んだ。
内心では血涙を流しているが、伯爵令嬢たるもの、外面だけは優雅に保たなければならない。これも前世の男役時代に培ったポーカーフェイスの賜物である。
「ミレーヌ。お兄様の礼服を持ってきてちょうだい」
部屋の隅で静かに控えていた侍女のミレーヌが、恭しく一礼する。
「かしこまりました、お嬢様。……いえ、『坊ちゃま』」
少しだけ面白がっているような声色のミレーヌから、漆黒の王宮用礼服を受け取る。
そして、胸を潰し、髪を整え、その礼服に袖を通した。
姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、華奢で可憐なリリアーナではなかった。
背筋を伸ばし、肩幅を広く見せる立ち方。
相手を射抜くような強い目線。
中性的でありながら、どこか危険な香りを漂わせる完成された貴公子。
……前世で嫌というほど見慣れた、「理想の王子様」そのものが、そこにいた。
「お嬢様、その顔、その姿勢……。男装が似合わない要素を探す方が難しゅうございます」
ミレーヌの冷ややかな称賛に、私はギリッと奥歯を噛み締めた。
「……わかっているわよ。似合いすぎているのが、最高に腹立たしいわ」
明日から三か月。
私は「リオン・ローゼンフェルト」として、あの伏魔殿のような王宮へ出仕しなければならない。
どうか、誰にもバレずに平穏無事にやり過ごせますように。
私は深く、深くため息をついた。




