第42話 攻めと守り
最初に破られたのは、開戦前の静けさだった。
角笛が鳴り終わるより早く、怒号が前へ走る。
無数の足が土を踏み、槍が揺れ、盾がぶつかる。次の瞬間には、すでに矢が飛んでいた。
盾がぶつかった瞬間、エティは歯を食いしばった。
衝撃が腕から肩へ抜ける。槍の穂先が目の前をかすめ、盾板に嫌な音を立てて食い込んだ。
後ろからは味方に押され、前からは敵に押し返される。すでに立っているだけで精一杯だった。
「うおっ……!」
頭上を矢が飛び抜け、すぐ後ろで短い悲鳴が上がった。
誰かが倒れたのだろう。だが、振り返る余裕はない。
「前だ、前! 押せ!」
下士官の怒鳴り声が飛ぶ。
「押してるだろうが!」
エティも怒鳴り返したが、その声は周囲の怒号に呑まれた。
隣でバートが笑う。
「始まったな!」
「嬉しそうに言うな、この馬鹿!」
「今さらだろ!」
言うが早いか、バートは大盾の脇から棍棒を振り抜いた。
敵兵の顔面に鈍い音が響く。相手がのけぞり、その隙にバートが一歩前へ出る。
しかし、それ以上は進めなかった。
すぐ後ろから別の敵兵が詰める。槍が伸びる。盾がぶつかる。押し戻す。押し返される。
個々の斬り合いではない。塊同士の潰し合いだった。
前にいる一人を倒しても終わらない。後ろに次がいる。さらにその後ろにもいる。こっちが一人倒れれば、また別の誰かが押し出されてくる。
終わりが見えなかった。
「ちっ……!」
エティは差し込まれた槍を盾で弾き、短槍で突き返す。感触はあった。だが浅い。相手は呻きながらも退かず、また別の穂先が突き出される。
押せ。
進め。
潰せ。
そんな命令ばかりが後ろから飛んでくる。
オーランジュ軍は、最初から押し切るつもりで前へ出ていた。削るだけでは足りないと言わんばかりに、息つく間もなく押し込んでくる。
エティですら、それを感じた。
「なんだよこれ……! 今日中に決める気かよ!」
「そうなんだろ!」
バートが怒鳴り返す。
しかし、勢いはあっても敵は崩れない。押しているはずなのに、抜ける気配がない。
右隣の戦奴隷が喉を突かれて倒れた。目を見開いたまま崩れ、すぐにその場所を後ろの男が埋める。
もはや、死ぬ場所すら選べない。
「割れねぇじゃねぇか!」
「押し切るまでやるんだろ!」
「ふざけんな!」
エティは半ば泣きそうな顔で盾を押し返した。
腕はもう痺れ始めていた。
◆◆◆◆
ジルニッツ軍前線。
グスタフ・ノール子爵は、槍を引き戻した拍子に肩へ走る痛みに顔をしかめた。
鎧が合っていない。
こんな時ですら、そんなことを思う。
肩が痛い。脇が擦れる。胸当ては動くたびに上下に揺れるくせに、肩回りだけが窮屈だった。その不快さが癪に障る。
「踏ん張れ! 列を保て!」
誰かが怒鳴っている。たぶん味方の士官だろう。
けれど、声の主を探す余裕はない。前からはオーランジュ兵が押し寄せ、左右では味方が怒鳴り合い、後ろでは伝令が叫びながら走っていく。
グスタフは槍を突き出した。穂先が敵の肩口を掠める。浅い。相手は止まらない。その後ろからまた別の兵が出てくる。
敵の圧が重かった。
ひとりひとりが化け物じみて強いわけではないが、前へ出る勢いが強い。こちらが息をつく間もなく押してくる。
それでも、まだ崩れてはいない。
これは前へ出る戦ではない。
押し込まれ、怯み、それでもその場に立ち続ける。いま必要なのはそれだった。
左では、別家の兵が半ば潰れるように押し込まれていた。鎧も盾もばらばらで、見るからに頼りない。だが、その頼りない連中が、それでも退いていない。
退けば終わる。
誰もがそれだけは知っていた。
盾がぶつかり、槍が鳴り、怒号が飛ぶ。
勝っている実感などない。
だが、負けてもいない。
また命令が飛ぶ。
グスタフは歯を食いしばり、槍を握る手に力を込めた。
華々しい戦ではない。
ただ、みっともなく潰れずにいる。それだけだった。
アルノー・ショルツ男爵は、盾列の少し後ろで怒鳴っていた。
「下がるな! 前を詰めろ! 空けるな!」
声を張ってみても、どこまで届いているのか怪しい。怒号と悲鳴と、ぶつかり合う鉄の音に掻き消され、半分も聞こえていないだろう。
それでも叫ぶしかなかった。
自領から連れてきた兵たちは、領内の見回りや盗賊退治ならともかく、大軍同士の会戦など経験したことがない。それはアルノー自身も同じだ。
どう動くのが最善か、胸を張ってわかる者など誰もいない。
ただ、わからないなりに、ひとつだけははっきりしていることがある。
それは、ここで崩れるわけにはいかないということだ。
前の列では、痩せた若い兵が歯を食いしばって盾を支えている。その隣では、年嵩の兵が槍を脇から突き出していた。
どちらも動きは洗練されていないし、頼もしいとも言い難い。
それでも今のところは持っている。
オーランジュ軍は急いでいる。
それは押し方でわかった。今日のうちに崩したいとでもいうような勢いだ。
ならば、こちらは耐えればいい。
勝つ必要などない。
追い返す必要すらない。
ただ、ここで抜かれず、裂かれず、前を保てばいい。
こっちも苦しい。兵は怯え、列は歪み、ちょっとしたきっかけで崩れそうになる。
それでも、まだ保っている。それで十分だった。
「持て!」
また怒鳴る。
「勝とうとするな! 耐えろ!」
自分でも、ひどい言い草だと思う。
だが、決して嘘ではなかった。
◆◆◆◆
オーランジュ軍指揮所で、ハインツは馬上から戦線を見ていた。
中央で槍列がぶつかり、左右でも押し合いが続いている。土煙が上がり、伝令が前後を走り、旗が揺れ、局地の様子が少しずつ変わっていく。
「中央、なお押しております」
「見ればわかる」
副官マティアスの報告を、ハインツは短く切った。
オーランジュ軍は各所で前へ出ている。勢いもある。兵の質も、寄せ集めの貴族連合より上だ。
だが敵は勝ちに来ていない。守り切れればよいと割り切り、厚く受けている。
面白くない布陣だ、とハインツは思った。
だが、悪くはない。
こちらが短く決めたいことを見抜いた上で、持たせることだけに徹している。華やかさはないが、嫌らしい。
「右翼は」
「なお保っております。ただ、押し込みは浅く――」
「それでいい」
ハインツは視線を前へ戻した。
このまま削り合うだけでは足りない。なにかしらの一手が必要だ。
しかし、まだ早い。
脳裏に、ひとりの男がよぎる。
命令を待つ戦奴隷。泥と血をまとい、黙って立っているだけの男。
エルネスト。
あれを使えば穴は開く。しかし、どこでもいいわけではない。綻びが見えないうちに札を切っても、一時的に前へ出るだけで終わる。厚く受けられれば、単なる浪費だ。
「まだだ」
独り言のように言う。
「ハインツ様?」
「札を切るには早い。敵の踏ん張りが鈍るまで待て」
マティアスはそれ以上言わなかった。
主が見ているのが、目先の押し引きではなく、その先のひと崩れだとわかったからだ。
◆◆◆◆
ジルニッツ軍の指揮所で、ディーターは高みから戦場を見下ろしていた。
遠目には整って見える。旗が立ち、列が動き、兵が押し引きしている。
だが実際には、土煙と怒号と血の塊だ。ひとつひとつの局地で兵が潰れ、また埋まり、踏みとどまっていた。
「中央は」
「なお持っております」
「左翼」
「押されてはおりますが、崩れはありません」
ディーターは小さく頷いた。
良いとは言えない。被害も出ている。兵も疲弊している。寄せ集めの貴族連合軍に精密な連携など望めない以上、どこか一箇所が崩れれば、そのまま雪崩れが起こる危険もある。
それでも、まだ前線は残っている。
それで十分だった。
オーランジュ軍がこの会戦を望んだ理由ははっきりしている。
ここで押し切りたいのだ。長引かせたくない。
ならばこちらは逆に引っ張ればいい。そもそも、勝ちに行く必要などない。
ここで割られさえしなければよいのだ。
「前へ出すな」
ディーターは側近へ言った。
「余計に追うな。崩れた箇所だけ埋めろ」
「はっ」
「無理に押し返す必要はない」
側近が走っていく。
ディーターは再び戦線へ目を向けた。
敵の勢いは強い。だが、その強さは裏を返せば急ぎの表れでもある。急ぐ者は、立ち止まらされることに弱い。
今日もなお立っている。
その事実だけで、意味はあった。
◆◆◆◆
エティは吐き気を堪えながら、盾を押し返していた。
もう何度目の押し合いかすらわからない。前へ出たと思った次の瞬間には押し返され、押し返したと思えばまた槍が降ってくる。
腕は鉛のように重く、喉は土でざらついていた。汗が目に入り、視界が滲む。
「終わる気がしねぇ……!」
「なに言ってやがる! まだ始まったばっかだろ!」
隣でバートが笑うが、その息もさすがに荒い。肩口の傷から流れた血が腕にまで筋を引いていた。
「お前だって、始まったばっかって顔してねぇだろ!」
「この顔は元からだ!」
「知らねぇよ!」
怒鳴った直後に、前の敵兵が槍を繰り出す。エティは反射で身を引き、穂先を盾に滑らせた。すぐ横からバートの棍棒が飛び、相手の腕を叩き折る。
けれど、また後ろから次が出てくる。
どれだけいるのか。
前にいる敵を倒しても、すぐに誰かが埋めて穴が開かない。踏み越え、押し込み、またぶつかるだけだ。
さっき喉を突かれた男のことなど、もう誰も覚えていない。空いた場所には、すでに別の誰かが立っていた。
死はそこら中にある。
なのに、それひとつではなにも変わらない。
「おい!」
バートの怒鳴り声が飛ぶ。
気づいた時には、敵兵が懐へ潜り込んでいた。エティは無理やり盾を当て、相手の顔面を押し潰すように押し返す。
そのまま足を絡め、半ば倒れるようにして短剣を突き立てた。
温い感触が手に伝わる。
「っ、は……!」
息が乱れる。
立ち上がるより早く、後ろから誰かに肩を掴まれ、無理やり引き起こされた。
「寝るな!」
「寝てねぇよ!」
怒鳴り返しながら、また前を見る。
同じだった。
前も、横も、血と泥と盾と槍ばかりだ。
どれだけ殴っても終わらない。終わる気配がない。
ふと、エティは奥歯を噛みしめた。
「……あいつ、まだかよ」
誰に向けたともない呟きだった。
だが、すぐそばのバートには聞こえたらしい。
「まだだろうな」
「なんでだよ……! こういう時こそ出すんじゃねぇのか、普通!」
「こういう時だからだろ」
バートが前を見たまま言う。
「出せば全部ひっくり返るってんなら、とっくに出してる。ってこたぁ、まだその時じゃねぇってことだ」
「なに言ってんのか、わかんねぇよ!」
だが、少しだけ納得もした。
もし本当にそんな役なら、雑に投げ込むものではないのだろう。
とはいえ、納得したところで目の前の槍が消えるわけではなかった。
◆◆◆◆
グスタフは、気づけば膝まで泥を浴びていた。
何度も踏みつけられ、血と土が混じり、地面はすでに柔らかくなっている。そこへさらに死体が倒れ、靴が沈み、踏み外した者から崩れていく。
それは、もはや戦場というより、潰れた肉と泥の上での押し合いだった。
「右を支えろ!」
「旗が下がってるぞ!」
「まだだ、持て!」
命令が飛ぶ。怒声が飛ぶ。悲鳴が飛ぶ。
グスタフはそれらに半ば押されるように槍を突き、引き、また構える。
敵の勢いは弱まらない。
だが、こちらも倒れない。
正直に言えば、勝てる気はしなかった。
目の前のオーランジュ兵の方が、明らかに動きが揃っている。押し込む力も強い。こちらは少しでも乱れれば、そのまま崩れそうだった。
それでも崩れていない。
味方の列は汚く、見苦しく、ところどころ歪みながらも、まだつながっている。
それだけで十分だった。
ふと左を見ると、アルノーが自領の兵を怒鳴りつけていた。泥だらけのまま、盾列の後ろを行き来している。余裕などない顔だが、それでも立っている。
グスタフは荒い息のまま前を睨んだ。
この戦は、武功を立てる場ではない。
生きて持ちこたえる、それだけだ。
そのことが、今は妙にはっきりわかっていた。
日が高くなるにつれ、戦場の熱は増していく。
だが、戦線そのものは大きく動かない。
押す。
受ける。
押し返す。
また押される。
伝令が駆け、旗が動き、どこかで一時的に前へ出る。あるいは引く。
それでも、全体を決める崩れにはならない。
ハインツはそれを見ていた。
ディーターもまた、それを見ていた。
片や、このままでは足りぬと知りながら。
片や、このままなら悪くないと知りながら。
前線ではバートが棍棒を振るい、エティが罵声を吐き、グスタフが歯を食いしばり、アルノーが耐えろと怒鳴り続ける。
誰もが違う場所で戦っているようで、やっていることは同じだった。
死体ばかりが増え、土ばかりが深く抉れ、叫び声ばかりが重なっていく。
両軍はなお正面から食らいつき合い、決定打を与えられぬまま、戦場は重く固まり始めていた。




