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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第九十八話:魔王決断

第九十八話:魔王決断


 織田信長は、無言のまま遠眼鏡を静かに閉じた。

 ただそれだけのことであった。だが、極楽寺山の本陣に控えていた重臣たちは、その小さな動作だけで、この大戦の終焉を悟ってしまった。


 谷を覆い尽くした濁りは、なおも晴れる気配を見せない。

 朝陽はとっくに東の稜線を越え、空へ昇り始めている。にもかかわらず、設楽原の低地には重苦しい暗さが深く沈み込み、五月雨の湿った空気の中へ、大量の火薬が燃え尽きたむせ返るような臭気がべったりと滞留していた。

 風が吹かぬ。

 いや、微かに吹いているのかもしれぬ。だが、三千挺の火縄銃が絶え間なく吐き出し続けた煤と熱と煙が、谷そのものを巨大な蓋のように完全に覆い隠し、将兵たちの呼吸を容赦なく押し潰していた。


 視界の奥底で、なおも断続的に銃声が鳴り響いている。

 だが、それは開戦直後のような、天下を震わせる圧倒的な轟音とは明らかに違っていた。

 音に勢いが無い。まばらだった。どこかで撃ち、どこかで止まり、次の発砲まで妙な、そして致命的な間が空く。

 織田軍が誇った三千挺の鉄砲隊は、一つの巨大な死の律動を保てなくなっていた。


 代わりに白煙の奥から目立ち始めているのは、人の声だった。

 悲鳴。怒号。助けを求める血を吐くような声。泥濘へ倒れ込んだ味方を容赦なく踏み越える音。馬のいななき。そして、木製の馬防柵が根本からへし折れる鈍い響き。

 眼下の光景は、もはや戦のために統制された軍勢というより、恐怖に駆られて行き場を失った、ただの人間たちの醜い濁流へと成り果てていた。


 信長は、一切の表情を交えずにその戦場を見下ろしていた。

 煙の裂け目から、ときおり軍旗が垣間見える。

 織田の木瓜紋。徳川の三つ葉葵。

 そのどちらもが、確実に、そして無惨に後ろへ向かって押し込まれ始めていた。


 信長は、わずかに目を細めた。

(……見えておったか。小倅め)

 誰にも聞こえぬよう、胸の内でだけ呟いた。


 三段撃ち。火器の大量運用。火薬の力による圧倒的な面の制圧。

 己が人生を懸けて築き上げ、この設楽原で完成させたはずの、誰も見たことのない新しい戦。武勇や血気に頼るのではなく、規律と集団運用によって敵を完全に圧殺する戦場。それは確かに、日ノ本の歴史を塗り替える絶対の力であるはずだった。だからこそ信長は、誰よりも早くそれへ辿り着いたという強烈な自負があった。


 だが。

 武田勝頼という若き怪物は、その「新しさ」の奥底にある致命的な欠陥そのものを、最初から完璧に見抜いていたのだ。

 火力が増せば、それに比例して煙も増える。煙が増せば、視界が完全に死ぬ。視界が死ねば、巨大な組織であるほど、大将の命令を末端へ伝える伝令の系統に必ず綻びが生まれる。そして一度綻びが生まれれば、人はその見えない暗闇の中で勝手に恐怖を増幅させ、自壊していく。


 武田のあの見えざる狙撃手たちは、織田の兵を無闇に殺していたのではない。軍を動かしている「命令の繋ぎ目」を、硝煙の向こうから切断していたのだ。それだけで、三万の巨大な軍勢は、自らの重みと混乱によって勝手に崩れ去っていく。


 信長の口元が、わずかに吊り上がった。

 怒りではなかった。悔しさや絶望とも違う。もっと別の、ひどく純粋な熱だった。

「……面白い」

 吐き捨てるように漏れたその低い声を、すぐ近くに控えていた羽柴秀吉だけが聞いた。

 そして秀吉は、その言葉を聞いて背筋に強烈な寒気を覚えた。

 敗けている。完全に敗けつつある。一歩間違えば天下を失うこの絶体絶命の窮地にあって、それでもなお、主君は戦の理そのものに心を奪われている。己の理解を超える化け物を前にした時だけ見せる、あの特有の笑みだった。


 その時、右翼方面から濁流に流されるようにして伝令が駆け込んできた。

「申し上げます。徳川勢が下がっております」

「右翼が、もう保ちませぬッ」

 泥と血にまみれた伝令が悲鳴のように叫ぶ。だが、報せを持ってきた彼ら自身でさえ、軍がどこまで崩れているのか正確には分かっていない顔だった。

 煙のせいで見えぬ。見えぬからこそ、崩壊の恐怖は事実以上に膨れ上がる。誰かが「囲まれる」と叫べば、それだけで百人が恐れをなして退く。百人が退けば、その動きに引きずられてさらに千人が揺らぐ。今の織田の戦場は、すでにその致命的な段階へと足を踏み入れていた。


 丹羽長秀が、苦渋に満ちた顔で進み出た。

「上様」

 低い声だった。

「左翼も、完全に押し返されました。馬防柵の継ぎ目を無惨に破られ、赤備えが内側へと入り込んでおります」

 続いて秀吉が、震える声で口を開く。

「退路も詰まり始めておりまする。このままでは、本陣そのものが完全に呑まれます」


 信長はすぐには答えなかった。

 再び戦場へ視線を向ける。煙の向こう。崩れた柵の隙間から、赤い甲冑の波が音もなく流れ込んでいる。

 誰も叫ばぬ。誰も突出せぬ。ただ一定の歩幅で、槍だけが揃って前へ出る。

 それが、信長にはかえって底知れぬ不気味さに思えた。


 武田の騎馬軍団。かつては個人の武名と一番槍を競い合い、鬨の声を上げて敵陣へ雪崩れ込む荒々しい軍であったはずだ。あの三方ヶ原で家康を完膚なきまでに蹂躙した時も、獣じみた猛々しさがあったと聞く。

 だが今、目の前にある軍勢は全く違う。

 熱を完全に押し殺している。功を焦らぬ。勝ち戦の熱狂すら見せぬ。軍の全体が、一つの巨大な器械として機能していた。


 信長はそこで、ふと口元の笑みを消した。

 器械。その言葉が脳裏を過った瞬間、妙に冷たい感覚が胸を掠めたのである。

 違う。器械ではない。もし本当にただの器械であるならば、ここまで恐ろしくはないはずだ。

 あれは、人だ。

 人の欲も、誇りも、死への恐怖も。人間の持つすべての弱さを知り尽くした上で、それを理の型の中に押し込み、一つの強大な意志へと束ねて完成されている。だからこそ不気味なのだ。

 信長もこの戦場でやろうとしていたことの根源は同じだった。兵を器械のように動かし、鉄砲を撃ち続ける。しかし、武田勝頼は、兵を動かしているのではなく、人間そのものを、戦の理へと完全に組み替え始めている。


 信長は、ゆっくりと長く息を吐いた。

 胸の内へ、ようやくはっきりとした形を持った一つの事実が沈んでいく。


 敗北だった。

 もはやここは、戦場の一部ではない。この設楽原という土地そのものが、すでに武田勝頼の支配するものへと変わってしまっている。

 ここで意地を張って戦を続ければ、織田は死ぬ。徳川も死ぬ。そして、己の天下への野望も終わる。

 ここで自分が死ねば、それで何もかもが終わってしまうのだ。

 尾張。美濃。近江。畿内。ようやくその手に掴みかけた天下布武という夢そのものが、この泥の中で瓦解する。


 信長は、自分がここで討たれ、首を獲られる姿を一瞬だけ思い描いた。

 武士として、悪くはない最期だとも思った。天下へ届くと思われたところで、己を超える新たな化物に出会い、討ち果たされる。いかにも己らしい狂い咲きではある。

 だが、その虚像はすぐに強い意志によって霧散した。

 違う。まだ終われぬ。

 あの武田勝頼という若き怪物を見た以上、ここで終わることだけは絶対に許されない。


 信長は顔を上げた。

「……光秀」

「はっ」

 明智光秀が静かに進み出る。その秀麗な表情には、すでにすべてを悟った深い覚悟があった。

 信長は短く、冷徹に告げた。

「退く」


 空気が完全に凍りついた。

 本陣にいた幾多の諸将が、誰一人としてすぐには反応できない。

 織田信長。比叡山を焼き、足利将軍を京から追い落とし、天下布武を掲げて日の出の勢いでここまで来た男。その絶対的な覇王が、まだ余力を残しているにもかかわらず、自ら完全な退却を命じたのである。

 だが光秀だけは、顔色一つ変えずに即座に深く頭を垂れた。

「御意」

 迷いが無い。信長が生き残る限り、織田の天下は終わらぬ。彼らにはそれだけが共通の真理であった。


「猿」

「は、はっ」

「退路を繋げ。決して陣を崩すな」

「承知つかまつりました」

「長秀」

「はっ」

「殿を保て。兵を潰走へ変えるな」

「お任せ下され」


 命令は極めて短かった。だが、その短さこそが、今の織田軍が置かれた絶体絶命の重さを際立たせていた。

 その直後。

 極楽寺山にそびえ立っていた織田木瓜の本陣旗が、わずかに後ろへと動いた。

 本当に、わずかな動きだった。だが合戦において、総大将の馬印の後退は、死を意味する絶対の合図であった。


「……退くぞ。上様がお退きになられるぞ」

 最前線で誰かが悲痛な声で叫んだ。それだけで十分だった。

 死の恐怖に辛うじて耐え、揺らいでいた兵たちの心の糸が、一斉にぷつりと切れる。

「終わった。陣が崩れたぞ」

「武田が来る。殺されるッ」


 恐慌が爆発した。

 もはや命令など誰も聞かない。押し合い。転倒。泥へ倒れた者の上へ、逃げ惑う兵が次々と雪崩れる。逃げようとする者と、まだ前へ出ようとする者が正面から激しくぶつかり合う。槍が絡み、馬が暴れ、人が無惨に潰されていく。

 そこへ、武田の赤備えが容赦なく入り込む。

 赤、黒、紺。風林火山の旗が、濁った硝煙の奥から次々と浮かび上がる。

 だが、ここに至っても彼らは勝鬨を上げない。名乗りも無い。武功を叫ぶ声すら無い。ただ槍の穂先だけが、乱れぬ歩幅で確実な死を運んでくる。

 その様は、もはや合戦ではなかった。巨大な濁流だった。一度呑み込まれれば、人も旗も秩序も、そのまま血の海へと押し流されていく。


 極楽寺山の本陣が本格的に動き始める。

 戦場全体の均衡は完全に崩壊した。織田勢が雪崩を打って後ろへ下がり始める。

 信長は馬上で、ふと右側へ冷ややかな視線を流した。

 徳川勢だった。

 崩れ、下がりつつあるとは言え、それでも彼らはまだ、必死に踏み止まっている。本多忠勝の鹿角脇立。榊原康政の旗。三河武士たちは泥と血に塗れながら、なおも武田の凄まじい圧力を受け止めていた。

 その中心。徳川家康の馬印が、孤立しながらも辛うじて倒れず残っている。


 家康もまた、絶望の瞳でこちらを見ていた。

 煙の向こう。互いの顔までははっきりと見えぬ。だが、視線の意味だけは痛いほどに分かった。

 信長は何も言わない。同盟者への励ましも、見捨てることへの詫びも、命令も無い。

 ただ、己の軍を退かせる。それだけだった。

 合理だった。被害を最小限に抑える、極めて正しい判断だった。だが、その正しさこそが、家康にとっては最高に残酷な裏切りであった。


 家康は理解した。自分はここへ、同盟主の捨て石として置き去りにされるのだと。

 織田勢が退けば、武田の圧力はそのまま自分たち徳川勢の正面へと一気に集中する。三方ヶ原で味わったあの絶対的な絶望が、再び腹の底から黒々と這い上がってくる。


 信長は冷酷に本陣を退かせていく。織田木瓜の旗が遠ざかる。それに引きずられるように、織田勢の濁流が徳川勢の横を崩れながら後退していく。

「織田が退いたぞ」

「見捨てられた。我らは囮にされたのだ」

「囲まれる。退路が断たれるぞ」


 徳川兵の顔から完全に血の気が消える。

 退こうにも、すでに道は塞がっていた。潰走する織田勢。前から迫る武田勢。その絶望の狭間で、三河の将兵と馬が泥濘へ次々と折り重なっていく。

「殿をお守りせよ。こちらも退け」

 本多忠勝が血を吐くように絶叫した。だが、その声にも隠しきれない焦りが滲んでいる。


 家康は動かなかった。いや、絶望のあまり動けなかった。

 遠ざかる織田木瓜の旗を、ただ虚ろな目で見ていた。

 三河を守るため。武田の脅威を退けるため。信長と共に戦えば道は開けると、そう信じて疑いながらも、ここまで耐え忍んできた。だが今、信長は己だけが生き残るために、あっさりと同盟の絆を切り捨てて退いた。それは大将として間違いなく正しい。だからこそ苦しかった。信義も義理も、この戦場では最後に冷徹な合理へと敗れ去る。その現実が、家康の胸の奥で武士としての誇りを音もなく粉々に砕いていくのだった。

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