八十八話:高天神城
第八十八話:高天神城
遠江の山々は、春を越えた湿気を孕みながら、重く沈んだ緑を幾重にも連ねていた。
その山塊の一角に、巨大な獣のように尾根へ食らいつく城がある。
高天神城。
天然の断崖を幾重にも重ねた遠江屈指の要害を前にしても、武田勝頼の眼差しには、攻め落とす高揚感や感慨より先に、氷のように冷たい計算だけが浮かんでいた。
馬を止めた勝頼は、険しい城郭を見上げたまま静かに口を開く。
「……見えるか、昌幸」
背後の真田昌幸は、静かに頭を垂れた。
「はっ。いかにも攻めあぐねる難所にございます」
「一度目の生のわしは、この城を正面からの力で無理やりに噛み砕いた」
勝頼の声は、まるで他人の古傷を語るように淡々としていた。
「数多の兵をあの崖へ張りつかせ、おびただしい血を流し、猛将たちに武勇を競わせ、ようやく奪い取った。……家中は熱狂し、湧きに沸いたよ。信玄公が落とせなかった城を若殿が落とした、武田はなお強しとな」
だが、と勝頼は言葉を継いだ。
「その勝利の熱狂こそが、武田を殺したのだ」
昌幸は黙って聞き入っている。
勝頼の視線は、すでに目の前の高天神城ではなく、そのさらに遥か先、西の地平へと向かっていた。
「長篠と設楽原で武田が壊滅したのは、騎馬の突撃が通用しなかったからではない。驕りだ。この高天神城で得た熱狂が、わしと家中の目を完全に曇らせた。武田は己の武威の強さを少しも疑わなくなり、結果として、織田は己の新しさを信じ切って完成させてしまった」
風が低く吹き抜け、武田の旗指物が音を立てて鳴った。
「されど今回は違う。武田の戦はすでに根底から変わった。……だが、織田信長はまだ、己の戦の形を完成させてはおらぬ」
その言葉に、昌幸の目が鋭く細まった。
「完成、にございますか」
「そうだ」
勝頼は即答した。
「信長の真の恐ろしさは、兵の数が多いことではない。鉄砲という武器そのものでもない。あの男は、自らの戦のやり方を、次の時代の絶対的な常識へと作り変えようとしている」
勝頼は、西の空を扇子で静かに指し示した。
「設楽原とは、奴にとって自らの革新を天下へ示すための最大の大舞台なのだ。鉄砲の組織運用、馬防柵という絶対防御、そして圧倒的な大軍勢。古き武士の世を終わらせる象徴として、奴は必ずあの地で、武田という旧時代の怪物を血祭りに上げて勝たねばならぬ」
昌幸はそこで、ようやく主君の深遠な意図を完全に理解した。
なるほど、と胸中で深く呟く。
避けるのではない。信長が最も己の戦法に自信を持ち、完成に近づくその絶頂の瞬間を、正面から完全に叩き潰すのだ。
「……されど勝頼様」
昌幸はあえて軍師としての見地から言った。
「ならば尚更、設楽原という敵の死地を避ける道もございましょう。長篠の城など捨て置き、三河の領内を深く荒らし回り、尾張の流通を経済で断つ。今の武田であれば、無理に設楽原へ赴かずとも、時をかけて徳川を削り潰せましょう。そうして、決戦そのものをこちらから消し去ってしまえば、信長の革新が天下に広まることはありますまい」
それは理で動く者として、至極当然の進言だった。勝頼もまた、その案を否定しなかった。
「うむ。わしも単に一度負けたという記憶だけを持っていたのであれば、間違いなくそうしただろう」
その言葉に、昌幸は僅かに顔を上げた。
「だが、それでは駄目なのだ」
勝頼は設楽原を指でなぞる。
「あの戦は、ただの合戦ではない」
「信長はここで、“新しい時代”そのものを天下へ見せつけようとしておる」
「三千挺の鉄砲。三重の馬防柵。組織化された殺戮。……奴は武田を倒したいのではない。武田を踏み台にして、己こそが新時代の支配者だと、この世に刻みたいのだ」
勝頼の眼が冷たく細まる。
「ゆえに、ここを避けても意味はない」
そして、続けた。
「信長の革新がこのまま“無敵”として語られる限り、天下の心は必ず織田へ流れる。ならば設楽原とは、戦場ではない」
昌幸がその真意を見極めようと勝頼を凝視する。
「歴史そのものを奪い合う場所だ」
ようやく昌幸は、勝頼の意図を捉えた。
戦国時代は実際、
「誰が天下人に見えるか」
「誰が天命を持つか」
が国衆の離反を左右する。
つまり一度の大会戦は、実利以上に「政治的象徴性」が大きい。
おそらくは、勝頼が一度目の生で敗北したという長篠で、まさにそれが行われたのであろう。
だから、勝頼はその象徴性を理解した上で、今回は「長篠へ行く」のではなく、「信長が狙う歴史神話を処刑しに行く」という構造へ能動的に変えるということなのだ。
そして、勝頼は断言した。
「今ならばまだ、確実に狩れる」
その声には、一度敗北し、その絶望の底から這い上がった者だけが持つ、凄惨な確信があった。
勝頼は、かつての致命的な敗北の記憶を静かに呼び起こしていた。
強固な馬防柵へ無策のまま突っ込み、轟音と共に崩れ落ち、次々と撃ち倒され、泥と血に塗れて死んでいった武田の騎馬と猛将たち。銃声。絶叫。冷たい雨。崩れていく家中の結束。そして、設楽原で生じたその致命的な綻びが、七年後の天目山の炎へと確実に繋がっていったあの地獄の道程。
「信長は、自らが最も得意とし、最も絶対的だと信じてこの舞台へ上がってくる。ならば、その舞台ごと、奴の自尊心のど真ん中を完全に粉砕すればよい」
昌幸の口元に、ゆっくりと狂気じみた笑みが浮かんだ。
「……なるほど。敵の土俵を避けることなく、その土俵ごと殺す、にございますか」
「そうだ」
勝頼は深く頷いた。
「わしはもう、天の運や敵の不備などに、武田の命運を委ねるつもりはない」
その瞬間、山の向こうから陣太鼓が低く響き渡った。
高天神城包囲の準備が完全に整った合図である。
今回の武田軍の動きは、一度目の生で力押しした時とはまるで違っていた。兵たちは無意味に怒号を上げず、功名心で勝手に突出する者もいない。隊ごとに役割が明確に分けられ、荷駄、工兵、火縄の射撃組、警戒の監視組が一糸乱れず整然と動く。だが、それは武士としての気概を失った弱々しい姿では決してない。
むしろ逆だった。誰もが、自らの淡々とした働きが軍という巨大な組織全体を支えていることを、完全に理解して機能していたのである。
勝頼は武勇を完全に否定しているのではない。武勇を、無駄な命の浪費として使わせなくなったのだ。
「城へ引き込む水の手は」
勝頼が静かに問う。
「すでにすべて押さえております」
昌幸が即答した。
「城の奥の沢へ通じる谷筋を完全に封鎖。夜陰に紛れて水を汲みに出た者も数名、音もなく討ち取りました。城内ではすでに深刻な水不足が始まっておりまする」
「後詰めの兵糧路は」
「周辺の村落へ武田金と米を大量に流しております。徳川へ荷を通せば大損をすると、地元の商人どもが完全に理解し、自ら徳川への道を塞ぎ始めました」
勝頼は小さく息を吐いた。
戦とは、高い城壁を力で壊すことではない。敵が立っている秩序そのものを内側から壊すことだ。二度目の人生で学んだ冷徹な統治と兵站の理が、今、この戦国の山野で完璧な形になり始めていた。
その頃、高天神城内では、水と希望を絶たれた重苦しい空気が限界まで満ちていた。
「また撃たれたか……」
城将・小笠原長忠が、運ばれてきた兵の遺体を見て絶望に呻いた。
物見櫓へ立った兵が、はるか遠くから正確に眉間を撃ち抜かれたのである。従来の火縄銃では到底届かぬはずの距離。だが武田軍が火工廠で造り上げた新銃は、銃身の長さを統一し、内部に螺旋を刻み込むことで、これまでの常識を完全に凌駕する精度と射程を得ていた。
遠くから正確に狙われる。常に見られている。その見えない死の恐怖が、城兵の心を夜も昼も静かに削り取っていく。
さらに彼らを追い詰めたのは、絶対的な水と食糧の不足だった。
「井戸の水がもう底を突きそうです」
「沢へ出た者が誰一人として戻りませぬ」
怒声と不安が城内を幽鬼のように駆け巡る。
武田軍は一向に押し寄せてこない。鬨の声も上げない。名乗りも上げない。ただ、静かに、そして確実に城の首を真綿で締め上げている。
「……まるで巨大な蛇だな」
長忠は、乾ききった唇で低く呟いた。
「獲物が勝手に弱り果て、死を待つまで、ただじっと待っている」
その血の通わぬ光景に、城内の将兵たちは皆、深い戦慄を覚えていた。これはかつて彼らが知る、猛将たちが槍を振るう武田ではない。もっと冷酷で、異質な別の何かだ。
やがて数日後。
限界に達した高天神城は、ついに一兵も交えることなく城門を開き、降伏した。
勝頼は降将たちを前にしても、大将として勝ち誇る様子など微塵も見せなかった。ただ、一人の官僚のように事務的に命じる。
「降った兵へ米と水を与えよ。傷病人は即座に治療せよ」
さらに勝頼は、降伏した将兵たち一人一人へ、新しく鋳造した武田金を与えた。
「徳川の領地へ戻れ。この銭で飯を食い、家族を養うが良い」
将兵たちはあまりの処遇に戸惑い、絶句した。
敵から与えられた圧倒的な価値を持つ銭で、己の命と生活を生き延びる。それは戦場での敗北以上に、武田という国の存在の巨大さと絶対的な理を、彼らの骨の髄まで思い知らせる残酷な行為であった。
その様子を背後で見つめながら、昌幸が静かに笑う。
「これで、家康殿の領民の胃袋を、我ら武田の経済が直接支える形になりますな」
「飢えから救われた民は、その恩と銭の価値を生涯忘れることはない」
勝頼は短く答えた。
そして彼は、背後を振り返ることなく、遥か西の空を真っ直ぐに見据えた。
設楽原。
織田信長が、自らの新しき戦の革新を完成させるために、必ず全軍を率いて現れるであろう運命の場所。
だが、今の勝頼にとってそこは、かつて絶望と共に敗れた悲劇の戦場ではなくなっていた。




