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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第六十六話:法治君臨

第六十六話:法治君臨


 三方ヶ原の死闘と、それに続く武田信玄の秘匿された死から、およそ一年の月日が流れた。

 甲斐の国、躑躅ヶ崎館の眼下に広がる城下町は、この一年の間に全く別の血脈の鼓動を響かせるようになっていた。特権を持つ古い商人の座は解体され、勝頼が純度と重さを厳格に統一して発行した新たな武田金が隅々まで流通している。甲府は今や日ノ本有数の巨大な市場として活気に満ち、諸国からの富と物資が絶え間なく集まり続けている。


 だが、その繁栄の喧騒とは対極に、躑躅ヶ崎館の大広間は、息を吸う音すら憚られるほどの重苦しく冷え切った静寂に支配されていた。

 この日、勝頼の命により、武田家に仕えるすべての重臣や有力な国人衆が広間に召集されていた。


 大広間の最奥、一段高い上座には、深く重厚な御簾が幾重にも下ろされている。

 その薄暗い奥には、病により長らく政務から離れて静養中とされる武田信玄の影が、微動だにせず座していた。時折、御簾の奥から漏れ聞こえる低く苦しげな咳払いが、甲斐の虎がいまだ生き、奥座敷から天下の情勢を睨み据えているという強烈な事実を、下座に控える多くの国人衆たちに固く信じ込ませている。


 しかし、最前列に平伏する山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信の四人の宿老たちだけは、その真実を知っていた。

 あの御簾の奥で咳払いをしているのは、真田源太左衛門尉昌幸が見つけ出し、入念に仕込んだ素性の知れぬ影武者である。彼らが生涯を懸けて命を捧げた真の主君は、一年前に信濃の山中で息を引き取り、すでにこの世のどこにも存在しない。


 その御簾のすぐ手前、大将の威光を直接背負う位置に、白木でしつらえられた座が設けられていた。

 そこに静かに端座しているのが、陣代たる武田四郎勝頼である。信玄という絶対的な幻影を背後に置いたその席は、もはや単なる名代の座ではなく、この一年で武田の全権を完全に掌握した若き絶対者の、実質的な主座に他ならなかった。


「皆の者、面を上げよ」

 勝頼の低く、静かな声が、広間の隅々にまで氷の針のように浸透した。

 居並ぶ家臣たちが一斉に顔を上げる中、最前列の四人の宿老たちの瞳には、声に出すことの許されない深い絶望と、逃げ場のない屈従の色が濃く張り付いていた。


「三方ヶ原での大勝より一年。父上は激闘の疲れにより奥で静養されておられるが、その間、陣代であるわしが父上の御意思を代行し、国を整えてきた。……皆もその身で感じておろう。領内の検地を正し、新たな銭を巡らせ、国人衆の兵を国の金で雇う常備兵へと改めつつある。この一年で武田の蔵はかつてなく潤い、兵の規律は鋼のように固まってきている」


 勝頼の言葉に、後方に控える国人衆たちは深く頷いた。事実、彼らは勝頼の新たな法度によって長年持っていた独自の権益を削られたものの、代わりに与えられた絶対的な金貨の力と、領地の安定という恩恵に甘んじていた。己の懐が潤い、国が外敵から守られている限り、彼らは目の前で政務を執る陣代のやり方を否定する理由を持たなかったのである。


 勝頼は、手元に置かれた分厚い法度の書状を扇子の先で示した。

「これより、向こう数年の国の大方針を、父上の厳命として申し渡す」

 勝頼の眼光が、一切の感情を排した冷たさで広間を見渡した。


「これより、武田はただの武士の寄り合いであることを完全にやめる。わしの言葉はすなわち父上の下知と同義であり、法となる。土地や家柄という古い誇りにしがみつき、この法に逆らう者は、血縁であろうと長年の功臣であろうと、武田そのものへの反逆とみなし即座に排除する。だが、私情を捨ててこの武田が敷く法の一部となり、完璧に従う者には、末永く繁栄と安寧を約束しよう。……甘い情緒に彩られた古き歴史は、父上の御名において、今日を以て完全に終わらせる」


 それは、武士が先祖代々血を流して守ってきた土地への執着と、個人の武勇を尊ぶ価値観をすべて否定し、法と掟によってのみ統べていくという、新しい国家誕生の宣言であった。


 後方の国人衆たちが、そのあまりにも巨大な変革の宣告に驚愕し、ざわめきかける。

 だが、勝頼はその後方のざわめきを一切無視し、最前列で固く唇を噛み締めている山県昌景へと、ゆっくりと冷酷な視線を向けた。


「……山県殿、馬場殿。そなたたち四人は、病床の父上より直接、わしを助けよとの御言葉を賜ったはずだな。この新しき法と国造りは、武田の家を永遠に強固にするための、父上の深く大いなる御意思の表れである。……違うか」


 完璧にして、あまりにも残酷な問いかけであった。

 勝頼は、宿老たちが一年前、信玄の死の床で「三年の秘匿」と「陣代への絶対服従」を血を吐く思いで誓わされたことを利用していた。もしここで彼らが勝頼の法度に異を唱えれば、御簾の奥の影武者の正体を自ら暴くことになり、主君の死を隠し通すという大将との最後の約束を自らの手で破ることになる。

 彼らは、武士としての誇りが踏みにじられることよりも、死にゆく信玄と交わした最後の誓いを破る不忠を何よりも恐れる男たちなのだ。勝頼は、彼らのその高潔で不器用な忠誠心を、己の統治の道具として使い倒すのである。


 山県昌景の太い拳が、畳にめり込むほどに強く握りしめられ、その肩が微かに震えた。

 大広間に集まった全家臣の視線が、武田の筆頭宿老である昌景の口元に注がれている。

 昌景は、血の滲むような思いで喉の奥の嗚咽を飲み込み、そして、深く、深く畳に額をすりつけた。


「……はっ。陣代様の仰せられる通り、これらすべては、御館様の深く大いなる御意思に相違ございませぬ。我ら宿老一同、この新しき法度に、命に代えましても従い抜く所存にございまする」

 隣で平伏する馬場信春も、ただ無言のまま目を閉じ、すべてを腹の底に飲み込んだ。


 その言葉を聞いた瞬間、後方で不満を抱きかけていた国人衆たちは一気に静まり返った。武田の象徴たる山県や馬場が、これほどまでに完全に平伏し、絶対の支持を表明しているのだ。もはや誰一人として、勝頼の法度に逆らうことは許されなかった。


 勝頼は、宿老たちの悲壮な服従を、一切の同情を交えずに冷徹に見下ろしていた。

 広間に満ちたのは、誰一人として咳をすることすら許されぬほどの、凄絶な沈黙であった。


 宣言の儀式が終わった深夜。

 勝頼は真田昌幸だけを伴い、館の裏手に位置する、真の信玄を密かに荼毘に付した小さな木立の祠を再び訪れた。

「昌幸。これで内側の骨組みは完全に整った。……だが、この盤石な土台を外部に拡張し、尾張の信長を完全に屈服させるには、今の武力だけではまだ足りぬ」


 勝頼の視線は、国内の政務から、西の敵へと向けられていた。

「信長の恐ろしさは、古い権威を壊す以上に、銭の力で大量の鉄砲という新兵器を揃えたことにある。奴が推し進めるあの暴力的な物量を、戦場で正面から受け止めれば、いかに我が常備軍が統制されていようとも、無用な血が流れるだろう。我らが今後求めるのは、敵の物量を根本から抑え込み、そして物量など苦にならない圧倒的な武の質の向上だ」


 勝頼は、中原の天子として君臨していた時代、異民族を討伐するために自ら技術者を集めて兵器の改良に没頭した記憶を呼び起こしていた。この日ノ本に伝来している鉄砲は、火縄を使い、雨に弱く、一発撃つごとに長い隙が生まれる極めて原始的な道具に過ぎないことも完全に理解している。

 組織という強固な骨組みは完成した。次は、その骨組みに装着させるための、いかなる英雄の突撃をも許さぬ、誰にも侵せぬ力を鍛え上げねばならない。


「御意。……政務局の地下に密かに設けました工房より、例の南蛮の筒についての詳細な分解と、各地の鍛冶衆からの報告が届いておりまする。……勝頼様の描かれた新しい筒の図面、あれはもはや、日ノ本の筒とは構造が根底から異なりますからな」

 昌幸の声には、恐怖と狂喜が入り混じっていた。


「うむ。明日からは、あの筒を完全に解体し、わしの描いた機構へと再構築する。信長が天下布武の切り札と信じて疑わぬあの道具が、わしの前ではいかに未熟で滑稽な武器に過ぎぬか。……いずれ訪れる決戦の地で、奴の自信ごと木端微塵に思い知らせてやるのだ」


 夜明けの青白い光が、躑躅ヶ崎館の黒い石垣を照らし始める。

 情と武勇で結ばれた古い武田は、信玄という巨大な幻影に蓋をされたまま、今、完全に脱ぎ捨てられた。

 冷徹なる法の支配と、新たな兵器の図面を前に、天下を呑み込むための圧倒的な力の創造が、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。

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