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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第六十四話:特権去勢

第六十四話:特権去勢


 躑躅ヶ崎館の奥深く、新設された政務の座敷を支配していたのは、耳の奥が痛むほどの重苦しくも規律立った静寂であった。

 上座に座す陣代・武田四郎勝頼の前には、跡部右衛門尉勝資をはじめとする若き文官たちが、算盤や新たな検地帳を抱えて無言で控えている。彼らは勝頼が授けた理法を、私情を交えずにただ忠実に執行するためだけに集められた、国の冷徹な手足であった。


 三方ヶ原の凱旋から一年近くが経過し、武田の領内は勝頼の敷いた新たな経済と法度によって、かつてないほどの富と安定を享受していた。その目に見える恩恵にあずかっていたため、旧来の特権を持つ御一門衆や国人衆たちも、表立っては勝頼の施策に異を唱えることができずにいた。


 だが、先日政務局から領内に発せられた一つの布告が、ついに彼らの我慢の限界を突破させた。

 それは、勝頼が先だって宣言した「安堵状の白紙化」を、実効力あるものにするための決定打であった。すなわち、各地の領主がこれまで代々有してきた「独自の徴税権」と「領民の裁判権」を完全に没収し、すべて勝頼直轄の政務官へと移譲させるという、事実上の領主権剥奪の宣言であった。


 この布告に対し、武士の誇りと格式を重んじた山県昌景ら宿老たちはすでに勝頼の圧倒的な覇気の前に沈黙させられていた。だが、己の懐と権力を何よりも第一とする者たちは黙っていられなかった。


 張り詰めた静寂を切り裂くように、荒々しい足音が廊下から響き渡った。

「陣代様。人払いなど無用、至急お耳に入れたき儀がござる」

 制止を振り切って広間へ踏み込んできたのは、武田家の御一門衆筆頭である穴山信君、郡内地方を治める小山田信茂、そして信濃木曽谷の領主である木曽義昌であった。彼らは皆、武田の血縁に連なる親族衆として強大な特権を貪ってきた重臣たちである。


 彼らの顔にあるのは、戦場での猛々しさではない。自らが先祖代々長年築き上げてきた特権的な立脚点が、音を立てて崩れ去っていくことへの、見苦しいまでの焦燥であった。

 これまで彼らが口を閉ざしていたのは、三方ヶ原での大勝の余韻と、新たに流通した武田金の利便性に甘んじていたからに他ならない。だが、土地の支配権とそこから上がる富そのものを奪われるとなれば話は別である。


 穴山信君が勝頼の数歩手前で歩みを止め、強い力で拳を畳に叩きつけた。

「陣代様。このたび政務局から発せられた布告、いかなる冗談にござるか。我ら親族衆や国人衆から徴税と裁きの権を奪うなど、我らの所領を没収するものではありませぬか」

 小山田信茂もまた、血走った目で勝頼を睨みつけた。

「我らはこれまで、御館様のご病状の回復を祈り、陣代様の政を静観してまいりました。だが、こればかりは看過できませぬ。武田の真の強さは、我ら一門が土地を介して主君と深い血の絆で結ばれているところにございます。このような国を根腐れさせる布告、御館様が決して許されるはずがない。若殿が御館様のご病に乗じ、専横を振るっておられるのではないか」

 木曽義昌も同調し、「我らの訴え、御館様に直にお耳に入れたく存じます」と低く凄んだ。


 彼らは、武田信玄がいまだ病床で生きていると固く信じ込んでいる。だからこそ、陣代に過ぎない勝頼が勝手に権力を暴走させていると解釈し、信玄の威光を盾にして強気に出たのである。

 彼らの低く凄絶な声は、中世という時代において己の既得権益にしがみつく者の、醜悪な執念そのものであった。


 だが、勝頼は手にしていた筆を静かに置くと、ゆっくりと顔を上げた。

 その深く昏い瞳には、かつて中原の地で、家柄を盾に国の改革を阻もうとした名門貴族たちを冷酷に組み伏せた時と全く同じ、絶対零度の静寂が宿っていた。

 勝頼の脳裏には、一度目の生で見た、あの忌まわしい天目山の燃え盛る炎の記憶が冷たく蘇っている。織田や徳川の大軍が迫る中、武田の不利を悟るや否や真っ先に裏切り、勝頼を死地へと追い詰めた決定的な裏切り者。それが他ならぬ、目の前にいる穴山信君、小山田信茂、木曽義昌の三人であった。

 武田が富み栄えている時はその甘い汁を啜り、国が傾けば己の保身のために主君を容易く売り渡す。そんな己の利でしか動かぬ者たちである。


「穴山殿、小山田殿、木曽殿」

 勝頼の声は、広間の隅々にまで氷の刃を突き刺すように冷たく響いた。

「そなたたちは根本的な勘違いをしておる。先に定めた通り、土地はそなたたち個人の持ち物ではない。武田という国のものであり、そなたらはそれを国から預かって管理しているに過ぎぬという真実を、法度として明文化し、執行したまでのことよ」


「なっ……。我ら親族を蔑ろになさるか。我らが兵を出さねば、武田の軍は成り立ちませぬぞ。御館様にお目通りを願う」

 穴山信君が声を荒らげるが、勝頼は瞬き一つせずに信君の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「父上は静養中であり、全権はこの陣代たるわしに委ねられておる。それに……兵を出す、だと。そなたらは一体、誰の銭で兵を養っているつもりだ」

 勝頼の冷酷な問いに、三人は言葉に詰まった。

「すでに領内の物の巡りは、わしが発行する純度の高い金と手形によって完全に支配されておる。そなたらが領地の米をいくら集めようとも、わしの印がなければ他国の商人には一粒たりとも換金できぬ。武具を買い揃えようにも、流通はすべてわしの直轄だ。……そなたらの足元には、すでに軍を興す力など残されておらぬのだ」


 勝頼は、懐から一枚の書状を取り出し、それを畳の上に放り投げた。

「おまけに、そなたらの領地にいる兵となりうる若者たちは、すでにわしが直轄の常備兵として銭で雇い入れた。彼らの家族の暮らしは、そなたらのような領主の気まぐれではなく、武田の国が法によって手厚く保障している。今、そなたらがわしに叛旗を翻せば、そなたらの兵は恩賞目当てに、真っ先にそなたら自身の首をわしの元へ持ってくるだろうよ」


 広間を支配したのは、もはや対話などではなかった。

 穴山、小山田、木曽の三人は、己の顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。彼らは己の兵力と土地を誇っていたが、その実態はすでに勝頼の経済と軍制の改革によって、根こそぎ空洞化させられていたのである。牙を抜かれたことにすら気づかず、ただ大声で吠えていただけの滑稽な老犬。それが彼らの現在の姿であった。


「わ、我らを……我ら一門を、潰すおつもりか……」

 小山田信茂が、床に両手をつき、震える声で呻いた。

 一度目の生であれば、勝頼は彼らを激しく憎悪し、この場で首を刎ねていたかもしれない。だが、今生において彼らはまだ裏切りを犯したわけではない。有能とは言い難いが、殺して家中に波風を立てるほどの手間をかける価値もない。


「潰すのではない。適材適所に置き換えるだけだ」

 勝頼から放たれた覇気が、広間を完全に支配した。

「これより、そなたらの領地における徴税と裁判の実務はすべて政務局が行う。そなたらには、地方で泥にまみれて税を取り立てる苦労から解放してやるのだ。これよりは甲府に立派な屋敷を構え、御一門衆として国政の評定や、他国との外交を担う名誉ある役目を与えよう。もちろん、これまで通りの高禄は武田金にて生涯保証する」


 三人は絶句した。

 それは、彼らから兵と土地という武力を完全に抜き取り、代わりに金と地位という名の首輪をつけて甲府に飼い殺すという、徹底した去勢の宣告であった。

 反乱を起こす物理的な力を奪い、さらに高禄と名誉を与えることで、不満を抱いて裏切る理由すらも奪い去る。それは、武将としての生き殺しであると同時に、これ以上ないほど残酷で安全な処理であった。


「……ありがたき、幸せに存じまする……」

 穴山信君は、血の滲むような悔しさを押し殺し、深く畳に額をすりつけた。隣の小山田と木曽も、ただ無言で目を閉じ、屈辱に震えながら耐え忍ぶしかなかった。

 彼らにはもはや、戦う力も、逃げ出す理由すらも残されていなかった。自ら進んで金と名誉の籠に入るしか道は残されていなかったのである。


 その光景を、勝頼の後方の暗がりから静かに見つめていた真田源太左衛門尉昌幸は、己の背筋に冷たい戦慄と、狂おしいほどの歓喜が駆け上がるのを感じていた。

(なんと見事な、そして容赦のない手口か。勝頼様は、この武田に害をなすであろう不穏な種を、すぐさま金と名誉で絡め取り、一切の血を流さずに完全に無力化してしまわれた)


 昌幸の目には、勝頼が、神仏の如き絶対者に見えた。

 山県や馬場のような純粋な武勇を持つ宿老たちは、三方ヶ原で死の淵を見せて屈服させ、その武勇を国の矛として再利用する。一方で、己の利でしか動かぬ親族衆は、兵と土地を奪い、名誉という名の檻に隔離する。

 この冷酷な頭脳の片鱗に触れることができる光栄。昌幸は、あらためて己がこの途方もない怪物に仕えることができることに深い陶酔を感じていた。


「……昌幸、勝資。内側の目障りな障壁は今と同じように、すべて形を変え、毒を抜いていけ。政務局の権限をさらに拡大し、領内の富の巡りを一刻も早く我が手に完全に集中させよ」

「はっ。見事な手腕、参考にさせていただきまする」

 昌幸は深く平伏しながらも、その口元には狂気じみた笑みが刻まれていた。


 勝頼は、うなだれる親族たちを一瞥することもなく、静かに立ち上がった。

 彼の瞳には、肉親の権力を削いだという罪悪感も達成感もなく、情の揺らぎすら微塵もなかった。


 再び夜の冷気が、躑躅ヶ崎館の回廊を吹き抜けていく。

 旧き武士の特権がまた一つ、音を立てて崩れ去ったのであった。

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