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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百八十三話:夫婦夜話

第百八十三話:夫婦夜話


 甲斐国、躑躅ヶ崎館。

 深夜の冷気が、見えない氷の刃となって館の奥深くまで忍び込んでいる。

 冬の夜空には星一つなく、分厚い鉛色の雲が甲府の盆地をすっぽりと覆い隠していた。時折、木枯らしが庭の枯れ木を激しく揺らし、障子をガタガタと鳴らす。その風の音が遠ざかると、後には耳に残るほどの深い静寂だけが残された。


 奥書院には、ただ一つだけ灯明がひっそりと灯されている。

 その頼りない光の輪の中心で、武田家陣代・武田勝頼は、文机の上に広げられた分厚い書状の束を見つめたまま、微動だにしていなかった。

 昼間、この同じ場所で彼が纏っている覇気や冷徹さは、そこには微塵もなかった。ただ、静かに、同じ頁を読み返している。


 灯明の微かな炎に照らされた勝頼の横顔には、濃い隈が張り付いている。

 文机の脇には、いつから置かれたのか分からぬ、冷えた白湯の椀があった。

 それを知っている者は、ほとんどいなかった。

 報告書の文字を、何度も、何度も、確かめるように追っている。


 彼が見つめているのは、東国の商流を記した帳面ではない。

 西の空、畿内から送られてきた、素破たちの最新の諜報報告書であった。


『織田信長、琵琶湖のほとり・安土の地に、巨城を普請するとの噂』

『畿内一帯にて、楽市楽座を敷き、関所を減らすとの風聞』

『指出検地を強めつつある、との報』

『近江・堺にて鉄砲の仕入れが増えている、との報』


 噂であり、風聞である。確定した数字ではない。

 安土の普請は、どの程度まで進んでいるのか。楽市楽座は、どこまで徹底されているのか。指出は、国人衆をどこまで削いだのか。鉄砲の数は、前年に比してどれだけ増えたのか。報告書には、確たる数字が足りない。

「……数が見えぬ」

 勝頼は、低く呟いた。足りないからこそ、頁を離せずにいる。

 勝頼は、隣に積んだ東国の帳面へ、一度だけ視線を移した。青苧。阿賀野川。越後道。相模の市場に流れ始めた札の比率。東国の数字は、動いている。だが、西の数字は、まだ霧の中にある。


 かつて設楽原において、勝頼は信長が仕掛けた鉄砲の陣を崩し、同盟者である徳川家康を討ち取った。歴史の針を大きく狂わせ、織田の東進に打撃を与えたはずであった。あの敗北で、信長の覇業は数年は遅れるはずだと、そう思った。


 だが、信長という男は、敗北によって沈むどころか、より急な速度で動き始めているように見える。

 東国で武田が算盤を弾き、血を流さずに商流を広げている間に、西の空は、また別の理で動き始めている。

 一度目の生で見た歴史の輪郭は、年月とともに薄れ始めている。信長を破り、家康を討ち取ったことで、状況すらも変わってしまった。己に残るのは、炎の感触だけだ。だからこそ、今の自分の知識と胆力で、目の前の敵と戦わねばならない。相手は、過去の記憶に増して強大に見える。


 勝頼は、報告書を閉じた。

 数字が足りぬ。

 足りぬなら集める。

 集まらぬなら、集める仕組みを作る。

 国とは、そういうものだった。

 人は口で誤魔化せる。だが、一月前の帳面と並べれば、誤魔化した箇所だけは残る。数字は黙っている。


 来る。

 あの男は、決して止まらない。

 天下布武という目的を具現化するまで、何度でも、東国へ向けて力を伸ばしてくる。武力と、財力と、新しい法を携えて、必ずやってくるのだ。

 来るなら来るで構わぬ。

 怖くないわけではない。怖いからこそ、考える。

 信長もまた人である。天下布武を掲げようと、大軍を集めようと、米がなければ進めぬ。勝頼は、そう知っていた。


 その脅威を前にすると、いつも、勝頼の脳裏に、夜な夜な彼を苛む光景が、鮮烈によみがえる。

 赤々と燃え上がる炎。

 雨の匂い。

 肌に張り付いた死の感触だけが、今も残っている。


 勝頼は、文机の端を指で一度叩いた。

 あの光景を、二度と繰り返すわけにはいかない。

 絶対にだ。

 そのために、無駄な戦を禁じ、国力を損なわせずに東国を繋ごうとしている。

 蘆名を見捨てずに州牧として残したのも。景虎を生かし、大取次として使いこなしているのも。北条の城下に札を流し込んでいるのも。

 すべては、西から来るものを防ぎ、守り抜くための、切実な算段に過ぎない。


 だが、間に合うのか。

 自分が東国を一つにまとめる速度が先か。それとも、信長が西から雪崩れ込んでくるのが先か。

 信長は恐ろしい。

 だが、それ以上に恐ろしいものがある。


 障子が鳴る。

 勝頼は紙の上の名を見た。指で、四つの名をゆっくりなぞった。

 北条。上杉。蘆名。佐竹。

 どれも信長より近い。

 そして、どれも信長が動くのを待ってはくれない。

 一つが動けば、隣も動く。

 一つが消えれば、その隣が埋まる。

 信長を討っても終わらぬ。

 紙の上の名が、それを知っていた。

 まだ足りぬ。

 だから急ぐ。

 それだけだった。


 勝頼は、報告書の頁を、もう一度めくった。

 灯明の炎が揺れる。手を伸ばして消しかけ、途中で止める。再び報告書へ視線を戻す。眠れない夜が、幾晩も続いている。

 昼は、理の陣代として振る舞わねばならない。怯えを見せてはならない。少しでも弱みを悟られれば、東国の大名たちはすぐに互いの喉首に牙を立てる。だから夜だけ、この部屋で、同じ頁を読み返す。恐怖を測り、速度を測り、次の一手を決める。


 その時。

 微かな衣擦れの音が、静まり返った奥書院の空間に柔らかく響いた。


「……また、帳面ですか」


 鈴を転がすような、静かで、しかしどこまでも深い温もりを帯びた声であった。

 勝頼が顔を上げると、部屋の入り口の障子の前に、一人の女性が立っていた。

 北条夫人であった。小田原の北条氏政の実の妹であり、勝頼の正室。彼女の手には、湯気の立つ白湯の入った漆塗りの盆が乗せられていた。


 夫人は音もなく畳の上を進み、勝頼の傍らにそっと座った。

 白湯を置く。何も言わない。勝頼も何も言わない。湯気だけが静かに立ち上る。

 こうして黙って座る夜が、初めてではない。氏政の妹として小田原で育ち、勝頼の正室として甲府に来てからも、彼女は政の細事には口を出さない。だが、夜のこの部屋に入ることは、何度もあった。勝頼が眠れぬ夜に、白湯だけを持って来る。それだけを、繰り返してきた。

 最初の頃は、勝頼も何か言葉を探した。「まだ起きていたのか」と言えば、夫人は「はい」とだけ答えた。それが幾度か重なるうち、言葉は要らなくなった。白湯を置く。勝頼が受け取る。夫人が傍らに座る。それだけで夜が過ぎるようになった。

 今夜も同じだ。湯気だけが、灯明の光の中で揺れている。庭の松の葉擦れが、遠くで一度だけ聞こえた。


 彼女は、勝頼の前に広げられた畿内からの諜報報告書にも、東国の商流を示す分厚い帳面にも、一切目もくれなかった。

 ただ、目の前で同じ頁を読み返している一人の男の手に、自らの白く細い手をそっと重ね合わせた。勝頼の指は冷たかった。帳面を押さえ続けた指である。夫人は、その冷たさを、何も聞かずに受け止めた。


「……起きていたのか」

 勝頼の声は、掠れてはいたが、崩れてはいなかった。

「お身体が、冷とうございます。……少し、お休みになられてはいかがですか。ここ数日、夜半にうなされてばかりおいでです」

 夫人は、勝頼の手を両手で優しく包み込み、自らの体温を分け与えるようにさすった。

「白湯が冷めます」


 勝頼は、夫人の顔を見つめ返し、ゆっくりと首を振った。

「休んではおられぬ。……時間が、ないのだ」

「西の、織田ですか」


「……信長が、来る」

 勝頼の口から、本音が零れ落ちた。事実を述べる声である。

「あの男が、途方もない力を持って、この東国を丸ごと喰らいにやってくる。どれほど東国の血流を繋ぎ合わせようとも、奴はそれを正面から叩き潰すだけの力を蓄えつつある。……もし、防ぎきれなければ。もし、再びあの炎が我らを包めば……お前も、信勝も。甲斐の民も」

 勝頼の手が、夫人の手の中で、わずかに固くなる。


「勝頼様」

 夫人は、静かに、しかし凛とした声で勝頼の名を呼んだ。

 夫人の視線は、紙から一度も動かなかった勝頼の目元にあった。

「私には帳面は分かりませぬ」

 夫人は、勝頼の手を握ったまま、報告書には目を向けなかった。

「けれど、何をお読みになる時に眠れなくなるのかなら、分かります」

「東国の帳面なら、眉間に皺が寄るだけでございます」

「けれど、西からの文だけは……何度読まれても、同じところへお目が戻る」

「それだけは、分かります」

 彼女の黒く澄んだ瞳が、灯明の炎を映して優しく揺らめいていた。

「皆様は、勝頼様を陣代様と呼び、ある者は畏怖を込めて化物と呼ぶことも聞き及んでおります。ですが、私はそうは呼びませぬ。私にとって、貴方様は天下を統べる覇王でも、恐ろしい神仏でもございませぬ。ただの、私の大切な夫にございます」


 勝頼は返事をしなかった。

 白湯の湯気が、二人の間をゆっくり流れた。

 白湯を持つ手の震えだけが、少し収まった。

 それが返事だった。


 昌幸は理を見ている。景虎は義を見ている。氏政は仕組みを見ている。

 だが今ここにいる夫人だけは、眠れぬ夜を見ていた。


 夫人が差し出した白湯の入った椀を、勝頼は両手で受け取った。

 ゆっくりと口をつけると、白湯の温もりが凍りついていた胃の腑へと落ち、全身にわずかな血の巡りを戻していくのが分かった。

 雨の匂いが、一瞬だけ脳裏をよぎる。

 冷たい雨ではない。今は、温かい。


「……終わったら、勝頼様は何になられるのですか」

 ふと、夫人が静かに問いかけた。

 勝頼は、椀から口を離し、目を瞬かせた。

「終わったら、とは」

「織田の脅威が去り、この東国に、否、日ノ本に本当に戦のない安寧な世が訪れた時……勝頼様は、その巨大な国の頂点で、何になられるのですか」


 その問いに、勝頼は少しだけ言葉に詰まった。

 前世において、彼は中華を統一し、巨大な帝国を治める皇帝となった。国を完成させ、戦のない世を作った。

 だが、皇帝の座に就いた後、国は静かになった。自分の中には、何も残らなかった。

 では、この生において、自分がすべてを成し遂げた後、一体どうなるというのか。

 勝頼は、己の内に「天下を治める」という明確な標がないことに気づいた。彼の目は、あくまで「織田という強国からの攻め込みによる破滅を回避する」という一点に固定されており、その先の人生の形を描くことがなかったのだ。


 勝頼は、伏せていた目をゆっくりと上げ、夫人の顔を見つめた。

 そして、己の手で、逆に夫人の小さな手を強く握り返した。


「……分からぬ」

 勝頼の声には、静かな、しかし決して揺るがぬ熱が宿っていた。

「天下人として君臨する気はない。すべてが終わった後に、私が何になるのか……自分でも、答えは持っていない」

 それは、嘘偽らざる空白であった。

 戦の終わりまでは、いくらでも書ける。誰を動かし、どの道を繋ぎ、どの蔵を満たすか。紙の上にはいくらでも先がある。

 だが、その先だけは、白かった。

「ただ」

 勝頼は、夫人を見た。

「朝まで、眠る。朝になれば帳面を見る。昼になれば人に会う。夜になればまた考える。まずはそれでよい」

「……それだけですか」

「それだけだ」

 夫人が、小さく笑った。

「織田にだけは、絶対に殺させない」

 勝頼の声に、再び強い光が戻った。

「お前も、信勝も、この甲斐の民も。誰一人として、あの炎の中には連れて行かぬ。そのためならば、私は何度でも化物の皮を被り、この手で東国を縛り上げ、歴史そのものをへし折ってやる」


 夫人は、微かに微笑んだ。

 それほど大きなことを言いながら、勝頼の手はまだ冷たかった。

 夫人はその手を両手で包んだまま、離さなかった。

「ええ。信じております。……貴方様が守ってくださることを」

 夫人は、勝頼の手に頬をすり寄せ、静かに目を閉じた。

「どこへ参ろうとも、お側におります」

 夫人が、小さく囁く。

 勝頼は、その夜初めて、わずかに口角を上げた。


 奥書院の静寂は、もはや恐怖ではなく、二人だけの温もりに包まれていた。

 夜の冷気が障子を撫でる音も、時折聞こえる庭の松の葉擦れも、今はもう、勝頼には遠かった。


 その時、障子の向こうから、控えめな足音がした。

「……陣代様。小田原より、帳面が届いております」

 書記官の声である。勝頼は、夫人の手を静かに離し、短く頷いた。

「入れ」

 書記官が、一冊の帳面を差し出す。北条家の印が押されている。

 勝頼は、灯明の下で頁を開いた。

 相模。武蔵。伊豆。上野。

 整った字。揃った数字。無駄のない記載。欄の外に余分な注記はない。誇張もない。抜けもない。

 これまで甲府へ届いた北条の帳面とは、どこか違った。

 以前の帳面にはなかった数字が、いくつか増えている。

 札の流通比率。関銭。検地。

 勝頼は頁を一枚戻した。もう一度見た。そして小さく息を吐いた。


 勝頼の口元が、わずかに動いた。

「……早いな」

 夫人が、静かに顔を上げる。勝頼は、それ以上は語らなかった。


 勝頼の手元には、開かれた帳面がある。

 そのすぐ隣には、まだ温かさの残る白湯の椀があった。


 夜が、少しずつ白み始めていた。

 灯明の炎が細く揺れ、ふっと消えた。

 冬の終わりの長く冷たい夜が、二人の静かな呼吸の音と、帳面の紙の匂いと、白湯の残り香だけを残して、ゆっくりと明けていこうとしていた。

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