第百八十二話:遣使確認
第百八十二話:遣使確認
相模国、小田原城。
冬の冷たい海風が本丸の松の枝を大きく揺らし、相模湾から打ち寄せる波の音が、石垣を越えて奥深くにまで低く重く響いてくる。
北条家第四代当主・北条氏政は、文机の上に広げられた風魔からの報告書を前に、深い沈思の海に沈んでいた。
蘆名盛氏が戦わずして武田に降った。そして、その使者が、越後で敗れた弟・上杉景虎であった。
その事実は、氏政の政治家としての理性を激しく揺さぶっていた。だが、氏政は決して一つの忍びの報告だけで国の命運を左右するような真似はしない。風魔の諜報能力は東国一と自負しているが、忍びが物理的に見る「事実」と、為政者が見抜くべき「真意」は往々にして異なるものだ。
勝頼は本当に景虎を生かし、大取次として使いこなしているのか。武田は本当に北条を滅ぼす気がないのか。そして、甲府が構築しつつあるという算盤と札の網は、果たしてどれほどの強度で関東を縛り上げようとしているのか。
「……江雪斎はおるか」
氏政が短く声を掛けると、廊下に控えていた一人の僧体の男が、音もなく襖を開けて進み出た。
板部岡江雪斎。北条家の外交と内政の双方に深く通じ、氏政が最も信頼を置く重臣の一人である。卓越した交渉術と、物事の裏の裏までを見通す冷徹な眼力を持つこの男こそ、真実を確かめる使者として最も相応しかった。
「お召しにございますか、御屋形様」
「直ちに甲府へ向かえ。表向きは、我が妹が勝頼の正室として息災であるかを問う見舞いの使者でよい」
氏政は、鋭い眼光で江雪斎を見据えた。
「景虎を見てこい。甲府を見てこい。そして、勝頼が何をしているかは聞くな。お前が見たものから考えろ」
「ハッ。……景虎様が存命であり、さらに武田の重役にあるという風魔の報告、まことであるとお考えで」
「だからこそ、お前に見に行かせるのだ」
氏政は文机を指で叩いた。
「ただの傀儡として祭り上げられているのであれば、武田の狙いは北条への牽制に過ぎぬ。だが、もし景虎が自らの意志で動き、本当に蘆名を屈服させたのだとすれば……勝頼という男の底知れなさは、我らの想像を遥かに超えている。己の目で、確かめてこい」
「風魔にもう一度聞けばよろしいのでは」
江雪斎が静かに口を挟む。
「風魔は見たものを持ってくる」
氏政は報告書から目を上げなかった。
「だが、商人が札を受け取った理由までは書けぬ。景虎が生きていることも同じだ。生きている。それだけなら、報告で足りる」
氏政は札の写しを一枚、江雪斎の前へ押し出した。
「だが、何を考えているかは、忍びには見えぬ」
「……それで、私を」
「お前は人の顔を見る。商人の顔も、役人の顔も見る。帳面の数字だけでなく、数字を見た者が何を恐れているかを見る」
江雪斎は札を取り上げた。
「……随分と難しい御用を仰せになりますな」
「簡単な用なら、お前を呼ばぬ」
氏政は文机の端を、指で一度叩いた。
「己の目で、武田の深淵を覗いてこい」
江雪斎は深く平伏した。
「承知仕りました。この江雪斎の目をもって、しかと見届けて参ります」
数日後。
峻険な山々を越え、甲府盆地へ向かう道中。江雪斎は関所ごとに馬を止め、荷を見た。
一つ目の関所。
徴収の額は定まっている。値切りの余地はない。だが、不当な取り立てもない。荷札を確認し、銭を払う者は通される。以前と大きくは変わらない。
二つ目の関所。
札を持つ商人が先に通される。銭を積んだ荷は後ろに並ぶ。役人が武田の家臣の指図を受けている様子はない。帳面と荷札だけを見ている。
三つ目の関所。
札を持たぬ商人が、銭を積んで通ろうとした。役人は首を横に振った。
「その荷は、甲府で受けられませぬ」
「銭を払う」
「受けられませぬ」
威圧はない。勝頼様の命、とも言わない。ただ、受けられない、と言う。商人は口を開きかけ、やがて荷を積み直し、別の道へ回った。
江雪斎は一言も聞かずに、ただ目で追った。関所は門を閉じているわけではない。商人自身が、門の向こうへ行けなくなっている。
甲府へ向かう荷だけが、異様に多い。上方から来る米。信濃から来る塩。越後から来る青苧。空荷で帰る荷車もある。積んだまま戻る荷車もある。商人が何を受け取っているか。手形を誰が保証しているか。関所の役人が、武田の家臣の指図を受けているのか、それとも帳面だけを見ているのか。江雪斎は、目で追った。
甲府盆地に足を踏み入れた江雪斎を待っていたのは、彼の予想を根底から覆す光景であった。
かつて武田信玄が存命であった頃の甲府は、血の気にあふれた屈強な騎馬武者たちが闊歩し、武具を打ち据える音が絶えない、荒々しい軍都であった。江雪斎も過去に何度か甲府を訪れたことがあったが、当時の記憶と目の前の現実はあまりにもかけ離れていた。
大路を埋め尽くしているのは、槍を持った兵ではない。見渡す限り、延々と続く荷車の列であった。上方、越後、信濃、そして奥州から。米、塩、青苧、鉄砲、硝石。それらが問屋の蔵へと次々に運び込まれ、代わりに商人たちの懐には、武田の菱紋が押された札が束になって吸い込まれていく。
町には威勢の良い商人たちの怒号が飛び交い、どこを歩いても算盤の玉を弾くパチパチという乾いた音が、途切れることなく響いていた。
「……これが、甲府か」
江雪斎は馬を歩ませながら、周囲の光景に息を呑んだ。
市場の片隅で、三人の商人が短い会話を交わしていた。越後の商人、信濃の商人、上方の商人である。言葉のなまりは違う。扱う荷も違う。だが、懐に同じ札を持っている。
「誰に命じられた」
江雪斎が近づき、静かに問う。商人は首を横に振った。
「誰にも」
「では、なぜ札を使う」
「その方が荷が早い」
「銭を数える手間がない」
「向こうが受け取らぬ。札がなければ、荷が動かぬ」
江雪斎は足を止めなかった。だが、その声は耳に残った。甲府の商人だけが利益を得ているのではない。他国の商人も、甲府の札を欲しがっている。武田の家臣が商人に直接口を出している様子もない。関所で確認しているのは、荷札と数字だけである。強制ではない。利便が、商人を動かしている。
躑躅ヶ崎館に到着した江雪斎は、武田側の取次役の案内を受け、客館の一角へと通された。
北条夫人への見舞いの品を献上し、形式上の口上を終えた後、江雪斎は案内役の役人に静かに切り出した。
「実は、もう一方……お目にかかりたき御仁がおるのですが」
「大取次様でございますね。話は通っております」
役人は驚く様子もなく、ごく自然に頷いた。まるで、北条からの使者が景虎に面会を求めてくることなど、最初から織り込み済みであったと言わんばかりの態度であった。
案内されたのは、客館の奥にある広々とした執務室であった。
襖が開かれた瞬間、江雪斎は思わず目を瞠った。
部屋の壁際という壁際には、天井に届くほどの高さで、無数の帳面と木簡がうず高く積み上げられていた。沈香の匂いなど欠片もなく、ひたすらに墨と古い紙の匂いが充満している。
その中央の文机に座り、手元の目録に朱筆を入れている男。
「……景虎様」
江雪斎が声を絞り出すと、その男は筆をピタリと止め、ゆっくりと顔を上げた。
紛れもなく、氏政の実弟・上杉景虎その人であった。
だが、江雪斎の知る景虎とは、纏う空気が違っていた。越後で家督争いに敗れ、絶望の淵に突き落とされたはずの敗軍の将の顔ではない。武士としての虚勢も、復讐の念も、一切の未練も薄い。
ただし、別人ではなかった。言葉数は少ない。相変わらず頑固そうな眉の寄せ方。商談の途中で誰かが妥協を勧めても、首を横に振る気配がある。ただ、守っているものが違うようだ。昔なら面子を守ったのだが。
「……江雪斎か。久しいな。小田原の兄上は息災か」
景虎は、書記官たちを下がらせると、江雪斎に座るよう促した。
「生きておいででしたか……。争乱の果てに自刃なされたか、甲府で幽閉の身となられているものとばかり」
「死にかけたのは事実だ。武将としての私は、越後の雪の中で一度死んだ」
景虎は、手元の帳面を静かに閉じた。
「だが、勝頼様が私を拾い上げた。誇りや面子のために民を飢えさせる愚かさを、骨の髄まで思い知った。この手にある帳面の重みが、誰よりも理解できると」
「……蘆名を、言葉一つで降したというのは、まことにございますか」
「言葉一つではない。商流の理を突きつけ、自滅の淵にある彼らに、生き残るための道を示しただけだ」
その時、執務室の入口から、若い役人が慌ただしく入ってきた。荷が一日遅れた、という報告である。景虎の眉が寄る。昔なら、使者の無礼を叱っただろう。今は違う。
「荷が遅れた理由を聞け。面子ではない。数字だ。一日遅れれば、先の市が崩れる」
役人が平伏して退がる。
別の役人が、帳面の数字を読み上げる。景虎は「違う」とだけ言った。役人が訂正する。江雪斎は、その光景を黙って見ていた。以前なら、もっと強い言葉を使われたのでは、と思う。ところが景虎は、
「怒っても荷は早くならぬ」
とだけ返した。景虎は変わった。だが、頑固さは残っている。守る対象が、面子から帳面へ移っただけのようにも見える。
「兄上にも伝えよ。武田に、北条の家を滅ぼす意思は微塵もない、と」
景虎は、文机の上に広げられた東国の絵図面を指し示した。
「蘆名が落ちた。越後も従っている。東国から血で引かれた国境線は消え、すべてが武田の商流で一つに繋がる」
江雪斎は、景虎の顔を食い入るように見つめた。
言葉には理がある。だが、江雪斎は外交の酸いも甘いも噛み分けてきた老獪な僧である。かつての血の気の多かった武将が、こうもあっさりと武田の政策を語っている姿に、強い違和感を覚えずにはいられなかった。
(……操られているのではないか。あるいは、生かされる代償として、武田の都合の良いように言わされているだけに過ぎぬのではないか。我が北条を油断させるための罠だとしたら……)
江雪斎の胸に、拭いがたい疑念が渦巻く。
「景虎様」
江雪斎は、声音を一段低くした。
「お言葉ですが、にわかには信じがたきことにございます。あの武田が、我が北条の百年の歴史を滅ぼさず、ただ生かすなどと。貴方様は、武田の甘言に誑かされているのではございませぬか。誇りを捨ててまで、敵の走狗と成り下がるおつもりか」
江雪斎の鋭い追及に、景虎の眉が微かに動いた。
「もし、北条が武田に従わぬとしたら」
江雪斎が探るように問う。景虎はすぐには答えなかった。
「兄上なら、従う必要がないと思えば従わぬだろう」
「では、貴方様は」
「私は私で決める」
景虎の声は、用意された台詞には聞こえなかった。頑固なままの、短い返しである。江雪斎は、かえって分からなくなった。この男は、本当に操られているのか。それとも、自ら選んでいるのか。
「それほど武田を信じておいでなら、なぜ御自分の兄君に直接伝えぬのです」
「伝えるだけなら、手紙で済む」
「ならば、なぜ」
景虎は帳面を見た。
「兄上が必要としているのは、私の言葉ではない」
「……見たもの、ですか」
景虎は答えなかった。
部屋の奥、薄暗い障子の陰から、音もなく一人の男が進み出てきた。
小柄だが、その全身から得体の知れない気配を漂わせる男。勝頼が信頼する軍師、真田昌幸であった。
江雪斎の背筋に、ピリッとした悪寒が走る。
昌幸は、景虎の隣に静かに腰を下ろすと、懐から一冊の薄い帳面を取り出し、江雪斎の目の前に滑らせた。
「北条の知恵袋たる江雪斎殿が、大取次殿のお言葉だけでは納得できぬのも道理。……ならば、これでいかがですかな」
江雪斎がその帳面を開くと、そこには常陸の佐竹家に関する物資の買い付け記録と、武田の札の流通額が克明に記されていた。
「これは……佐竹の」
「今、常陸の佐竹義重は、当家の札を用いて上方から鉄砲を買い付け、軍備を拡張しております。遠からず、反北条連合の盟主として、小田原へ向けて陣触れを出すやもしれませぬ」
昌幸は、口元に薄い笑みを浮かべた。
「鬼義重は、自らが圧倒的な武力を手に入れたと信じて疑っておりませぬ。……危険でしょうな」
「危険、と」
「札で買った軍備は、札が止まれば補充が止まる。相場が跳ね、米の買い付けができなくなり、弾薬の追加調達ができなくなる。軍勢を長く維持できなくなる。出陣そのものが、政治的に難しくなる。……さて。これを見て、北条ならどうなされますかな」
江雪斎は、帳面の数字を見つめたまま絶句した。
佐竹の軍備拡張の裏で、武田がその命根の一部を握っている。だが、昌幸は断定しなかった。ただ、数字を見せ、問いを投げた。
「札を止めれば、佐竹も別の札を探すだけでは」
「探すでしょうな」
「ならば、武田の札が絶対とは限らぬ」
「その通り」
「……」
「だから、止めるのではなく、止められることが効くのです」
江雪斎の喉が、小さく鳴った。唯一の通貨だから強いのではない。商流を握っているから、停止の可能性そのものが抑止力になる。
「武田は、北条を滅ぼす気はないと申したな。ならば、なぜ佐竹の軍備増強を許しているのだ」
「止めれば、佐竹は武田を疑いましょう。使わせておけば、いざという時に止められる」
昌幸の目が、冬の星のように冷たく光った。
「小田原を焼けば、誰が得をしますかな」
江雪斎は、一瞬だけ言葉を失った。
「……織田、か」
「なら、焼かぬ理由はそれで十分でしょう」
昌幸はそれ以上、語らなかった。大きな理屈は出てこない。江雪斎は、自分で考えるしかなかった。織田が怖い。だから北条を残す。それだけではない気がする。だが、何が違うのかは分からなかった。引っかかりだけが、胸に残った。
「……もし、我が北条がその理への参加を拒み、抗えばどうなる」
江雪斎の問いに、昌幸はフッと笑った。
「手形の流れを止めて干上がらせるまで。北条の行政網がいかに強固であろうと、銭が紙切れになれば国は回らぬ。……氏政殿ほどの御仁が、その理屈を理解できぬはずがございませぬな?」
江雪斎は返す言葉を失った。
抗えば干上がる。だが、従えば生き残れる、とも言われている。どちらも嘘ではない。だからこそ、恐ろしかった。
江雪斎は、景虎と昌幸の顔を交互に見つめ、深く頭を下げた。
「……しかと、承り申した。この江雪斎の目と耳に刻み込んだもの、我が主君にお伝えいたしましょう」
帰路。
行きには、札を持つ商人を見ていた。帰りには、札を持たない商人を見た。
同じ街道なのに、札を持つ荷車は止まらない。札を持たない荷車は、別の道へ回る。荷を積み直す。待つ。銭を積む。それでも通れないことがある。
江雪斎は馬上で、目を細めた。これは関所ではない。関所なら門を閉じればいい。これは、商人自身が、門を開けてほしいと思う仕組みになっている。門番が刀を抜いているわけではない。商人が、自ら札を求める。その方が荷が早いから。その方が荷が動くから。行きに見たものと、帰りに見たものが、同じ結論を指していた。
数日後。
冬晴れの小田原城、本丸の奥書院。
甲府から帰還した板部岡江雪斎は、北条氏政の御前で平伏し、甲府での見聞を報告した。
「景虎様は、生きておりました」
「それだけか?」
「……それ以上に、仕事をしておりました」
江雪斎の声には、甲府で味わった戦慄の余韻が残っていた。
「帳面を見、荷札を見、役人の報告を受けておりました。昔と同じ頑固さは残っております。ただし、守っているものが違います。面子ではなく、数字でございます。操られている、とは言い切れませぬ。自らの意志で動いているように見えました」
「甲府は」
「軍都ではございませんでした。荷車が満ち、札が渡り、算盤が鳴っておりました。関所では荷札を確認し、札を持つ者が通されておりました。他国の商人も、甲府の札を欲しがっておりました。甲府の経済の網は、本物でございます」
「佐竹のことは、確かなのか」
「帳面を見せられました」
「武田の帳面を信用するのか」
「信用してはおりませぬ。ただ、佐竹が武田の札を使っていることだけは、別の商人の口からも聞きましたゆえ」
氏政が、一瞬だけ止まる。
「勝頼は、北条を滅ぼすつもりか」
「……直接攻める準備は、見えませなんだ。小田原を焼く理由もない、と真田は申しました。佐竹の帳面も見せられました。札で軍備を拡張し、依存が深まっている。止めれば疑われ、使わせておけば、いざという時に止められる、と。……ですが、殿。勝頼様が何を成し遂げようとしているのかまでは、分かりませなんだ」
氏政は、無言のまま江雪斎の報告に耳を傾けていた。
手元の白磁の湯呑みが、微かに冷え切っている。
景虎は生きている。景虎は仕事をしている。甲府の経済圏は本物である。武田は北条を直接攻撃する準備をしていない。しかし、北条を武田の商流から外すこともできる。そこまで分かった。
だが、勝頼が何を見ているのか。対織田なのか。東国の統合なのか。北条を盾にするのか。檻にするのか。まだ、分からぬ。
「……分からぬ。だが、分からぬままではいられぬ」
氏政は振り返り、江雪斎を真っ直ぐに見据えた。
「武田は、北条を滅ぼさぬように見える。検地と貫高で築いた我が北条の行政力と、必要とあれば数万を動かせる動員力を、無傷のまま欲しがっているようにも見える。……ならば、抗うだけが道ではない」
氏政の口元に、ゆっくりと、深い凄みを帯びた笑みが浮かんだ。
「勝頼が東国を一つの仕組みにするというのなら……その仕組みの中に、自ら一歩入る。中に入ってから、北条がどこまで重みを持てるかを見極める。乗っ取るとまでは言わぬ。まずは、入る」
江雪斎は、氏政の言葉に息を呑んだ。
「仕組みの中へ、と仰いますか」
「そうだ。妹は勝頼の正室、弟は大取次。我が北条が武田の仕組みにいち早く入れば、外戚としても、行政の担い手としても、重みを持てる。勝頼が何を見ているか、まだ分からぬ。分からぬまま、外にいて干上がるより、中に入って数字を握る方が、北条は生き残れる」
氏政は机へ戻った。
貫高帳を開く。相模。武蔵。伊豆。上野。数字は昨日と変わらない。だが、机の端に積まれた札の写しを、改めて手に取る。相模の市場にも、すでに武田の札が入り込んでいる。会津の話を聞く前から、戦場はもう始まっていた。
景虎の名を、もう一度反芻する。会津で筆を執らせたという弟の名を。兄として知っていた顔と、報告の中の姿が、なお重ならない。終わったはずの名が、まだ終わっていない。
氏政は貫高帳を閉じた。
「この帳面を写せ」
江雪斎が顔を上げる。
「甲府へ?」
「ああ」
氏政はそれ以上言わなかった。
相模、武蔵、伊豆、上野。北条が何を持っているのか。それを、まず甲府に見せる。その一冊が、北条にとって初めての返事になるだろう。




