第百八十話:不知之鎖
第百八十話:不知之鎖
常陸国、太田城。
空を切り裂くような乾いた轟音が、冬晴れの冷たく澄み切った大気に幾重にも重なって響き渡り、太田城の練兵場を震わせていた。
ズドン、ズドンという腹の底に響く爆音と共に、白く濃い硝煙がもうもうと立ち込める。火縄の焦げる匂いと、硝石の香りが入り交じる。
硝煙の向こう側では、三百を数える鉄砲隊が三段に構え、次々と火蓋を切っていた。前の列が撃つ。次が構える。後ろが火を継ぐ。終わらない。その循環は、鎖の輪のように途切れなかった。義重には、それが無敵の鎖に見えた。
「見事だ! 放て、撃ち続けよ!」
練兵場の高台に設えられた床几にどっかりと腰を下ろし、その光景を満足げに見下ろしているのは、佐竹家当主・佐竹義重である。
厳寒の空風が吹きすさぶ中であるというのに、義重は重厚な黒糸威の甲冑を身に纏い、その巨躯から発せられる闘争心で周囲の空気を焦がすようであった。彼の顔には、自らが築き上げた関東の軍備に対する、一点の曇りもない自信が張り付いている。
鬼義重。
戦場に立てば鬼神のごとき武勇を誇り、反北条連合の盟主として宇都宮や結城、那須といった諸将を束ね上げるこの男は、今まさに自らの武将としての絶頂を迎えようとしていた。
「どうだ、昭為。上方から取り寄せた筒の威力は。これならば、小田原の堅城の城門とて、容易く粉砕できようぞ」
義重が豪快に笑いながら振り返ると、背後に控えていた宿老の和田昭為が、深く頭を下げて応じた。
「御屋形様の御威光、まさに天を衝く勢いにございます。結城殿や宇都宮殿からも、佐竹軍の先陣に期待する旨の書状が次々と届いております。これほどの軍備が整いましたのも、すべては御屋形様が金山の富を用い、果断なる買い付けを行われた賜物にございます」
「ふん。北条氏政め、今頃小田原の奥深くで震え上がっておろうわ。奴らが検地や貫高制の整備に精を出している間に、俺は甲府の武田が作った『札』という便利な仕組みを使って、上方から力をごっそりと買い占めてやったのだ」
義重は、腰の太刀の柄を叩きながら、上機嫌で立ち上がった。
重く嵩張る黄金を直接運ぶ手間を省き、甲府の信用を借りた紙切れ――札を用いて、鉄砲や硝石、鉛といった軍需物資を、かつてない速度で佐竹の領内へと吸い寄せた。蘆名盛氏が自滅したのは、あの札の波に乗れず、甲府に無謀な逆らい方をしたからに過ぎない。武田の札で買った鉄砲が、やがて小田原を焼く。愉快な話ではないか。
「昭為。春になれば、いよいよ陣触れを出す。関東平野を五万を号する連合軍で埋め尽くし、小田原を灰燼に帰してやるわ。……そのためには、まだ筒も弾も足りぬ。札で、さらに鉄砲を百挺、いや二百挺買い付けよ! 硝石も上方からあるだけ掻き集めろ!」
「はっ。直ちに、御用商人たちに手配いたしまする」
昭為は迷いなく頷き、手元の野帳に買い付けの指示を書き込んだ。
義重は硝煙の匂いを胸いっぱいに吸い込み、冬の空に向かって高らかに笑い声を上げた。その笑い声は、己が関東の覇者となる未来を微塵も疑っていない、純粋で無邪気な武将の咆哮であった。
それから、さらにひと月が経過した。
季節は厳冬の底を抜け、微かに春の気配を含んだ風が常陸の大地を吹き始める頃であった。
佐竹義重は、太田城の奥書院において、勘定方の重臣たちや、出入りしている数名の大商人たちを集め、春の出陣に向けた最終的な軍資金と兵糧の確認を行っていた。
部屋の中央には、各地から買い集められた兵糧の目録や、武器弾薬の納品書がうず高く積まれている。その数字の膨大さは、佐竹家がかつて経験したことのない規模の戦を仕掛けようとしている証であった。
「……兵糧米五万石、すでに城下および各拠点の蔵に搬入済み。鉄砲の弾薬となる鉛と硝石も、向こう半年間、撃ちっ放しにしても枯渇せぬ量が揃っております」
勘定奉行が、誇らしげな声で報告を締めくくった。義重は腕を組み、満足げに幾度も頷いた。
「見事だ。これで憂いなく小田原を叩き潰せる。……して、陣中の諸将や兵たちに恩賞として振る舞い、士気を鼓舞するための黄金や銭の用意はどうなっておる」
義重がふと口にしたその問いに。
奥書院の空気が、ほんの一瞬だけ、ピクリと凍りついた。
勘定奉行は、野帳をめくる手を止め、隣に控える御用商人たちと顔を見合わせた。商人たちは皆、一様に気まずそうに視線をそらし、薄く脂汗を浮かべている。
「どうした。金山の上がりは十分にあろう。明銭や京銭、あるいは砂金でもよい。荷車何台分になるか、兵を安心させるために実物を見せてみよ」
義重は、何も気づかぬまま鷹揚に急かした。武士にとって、出陣前の景気付けとして山積みの黄金や銭の山を見ることは、勝利の確信を得るための重要な儀式の一つであった。
だが、勘定奉行は額を畳に擦りつけ、ひどく重い口を開いた。
「……御屋形様。誠に申し上げにくきことにございますが……現在、当家の金蔵に、お見せできるような『現物の銭』や『金粒』は……ほとんど残っておりませぬ」
「……何だと?」
義重の太い眉が、不快げにピクリと動いた。
「莫鹿なことを申すな。先月も金山からは大量の金が上がってきたはずだ。領内の年貢も納めさせた。それがなぜ空になる。誰かが横領でもしたというのか!」
義重の怒声が響き、広間に張り詰めた空気が走る。だが、勘定奉行は必死に首を振った。
「違いまする! 決して横領などではございませぬ。当家の蔵にあるのは……すべて、これでございます」
勘定奉行が震える手で差し出したのは、重厚な漆塗りの木箱であった。
蓋を開けると、そこには黄金の輝きも、明銭の山もなかった。
あるのは、甲府の印が押された、分厚い紙の束――札だけであった。
「……ただの紙切れではないか。俺は現物の銭を見せよと言ったのだぞ」
義重は不機嫌に鼻を鳴らした。
「殿……近頃、当家の商いや決済は、金山の上がりも含め、すべてこの札を介して行われております。上方から大量の鉄砲や硝石を買い付ける際、商人たちが実物の金銀を受け取らなくなったため、我らはいったんすべての富を札に替えて商いを行ってまいりました。ゆえに、当家の莫大な富は、すべてこの札の数字として存在しておりますが、蔵の中に実体としての銭や金は……すでに一握りも残っていないのでございます」
義重は、呆れたようにため息をついた。
「馬鹿馬鹿しい。まあ状況は分かった。何を深刻な顔をしているのだ。すべて札で回しているのであれば、蔵に銭がないのは当たり前なのであろう。それがどうしたというのだ」
義重は木箱の中の札を無造作に掴み上げ、商人たちに向かって放り投げた。
「この札は、我が佐竹の莫大な黄金を担保にしたものだ! 甲府の印があろうが、実質は俺の金だ。これを持って商人のところへ行けば、米でも鉄砲でも、いくらでも実物に替わるのであろう。ならば、銭が蔵になくとも何の問題もない、と言えば良いではないか。いちいち気にしなくてもよい!」
義重の豪快な笑い声が、奥書院に響き渡った。
広間のどこからも、笑い声は返ってこなかった。火鉢の炭が、小さく爆ぜる。商人の一人が、畳の目を見つめている。別の者は、袖の端を握ったまま動かない。
だが。
義重の笑い声に同調する者は、広間の中に誰一人としていなかった。
それどころか、投げ出された札を拾い上げた大商人の一人が、青ざめた顔でゆっくりと進み出て、床に両手をついたのである。
「……御屋形様」
商人の声は、微かに震えていた。
「去年は、銭で買えました。今は、札でしか買えませぬ」
部屋が静まる。
「逆らった者には、荷が参りませぬ。……蘆名家がそうでした」
「莫鹿な!」
義重は怒号を上げ、立ち上がった。巨体が放つ圧迫感で、部屋の空気がビリビリと震える。
「それであれば、俺が直接金山から掘り出した黄金を払って、弾や米を買えば済む話であろうが! 甲府がどう喚こうと、商人は金に群がるものだ!」
「買えませぬ」
商人は、悲痛な声で断言した。
義重の呼吸が、不自然に止まった。
「……それは……」
「殿。つまり……」
勘定奉行が、絶望に満ちた声で商人の言葉を引き継いだ。
「当家は現在、関東最強の軍備と兵糧を誇っております。ですが……もし我らが小田原に向けて陣触れを出した時、甲府が『私戦を禁ずる』として当家の商流を止めれば。……当家は、鉄砲の弾一発、兵糧米一俵すら、新たに買い足すことができなくなるのでございます。当家の経済は、甲府の機嫌一つで明日にも完全に死にまする」
義重は、一瞬だけ言葉を失った。
「……金蔵を見せよ」
勘定奉行が先導し、奥書院から金蔵へと向かった。廊下を歩く。家臣たちの足音が、短く続く。誰も、口を開かない。誰も、義重の背中を見ようとしない。壁に掛かる槍の穂先が、灯明の光を細く受けているだけである。廊下の冷えが、甲冑の下に染み込む。蔵の戸が開く。冷気が流れ出る。義重は当然のように金の山を探した。だが見えたのは棚だった。棚。棚。そこに並んでいるのは木箱ばかりである。
義重は奥の箱へ手を伸ばした。これならある。これなら。
一箱目を開ける。紙だった。
二箱目を開ける。紙だった。
三箱目を開ける。紙だった。
隣の棚へ移る。箱を開ける。また紙だった。四箱目。紙。五箱目。紙。札をめくる音がする。箱に戻す音がする。束ね直す音がする。それだけだった。紙を擦る音。紙を重ねる音。紙を箱へ落とす音。金属の音は、一度もしなかった。
蔵の中は静かだった。昔なら銭を数える音がした。箱を運ぶ音がした。金を量る音がした。天秤の皿が揺れる音がした。今は紙の擦れる音しかしない。金属の匂いがしない。銭が擦れる音もしない。ただ乾いた紙の音だけが蔵に響いた。義重は、箱の底まで手を入れた。指先に触れるのは、冷たい金属ではなく、薄い紙の感触だけであった。奥の棚まで歩く。足の裏に、畳ではなく冷たい板が当たる。そこにも箱。そこにも紙。金蔵と呼ばれていた場所に、金はなかった。
商人たちは、誰も義重を見なかった。畳を見ている。手を見ている。札を見ている。義重だけが商人を見ていた。誰一人として視線を合わせない。それが答えだった。商人の一人の喉が、小さく鳴った。別の者は、袖の端を握りしめている。額に脂汗が光る者もいる。誰も、言い訳をしなかった。誰も、慰めを口にしなかった。広間に戻っても、視線は畳の目の上を這うばかりであった。勘定奉行すら、義重の顔を上げて見ることができなかった。
義重は黙った。
木箱の中には札しかない。金はない。銀もない。ただ紙だけが積まれている。
義重は札を一枚抜き取った。軽かった。指で弾けば揺れる。火を近づければ燃えるだろう。こんなもののために、佐竹の金山も、年貢米も、鉄砲も動いているというのか。義重は紙を見た。それから商人を見た。最後に窓の外を見た。試射場から銃声が聞こえた。乾いた音だった。硝煙の残り香が、わずかに風に乗って届く。その音を聞いて、義重は安心した。
「……なるほど。つまり甲府は、戦をするなと言っておるのだな?」
義重の顔から、一瞬だけ表情が消えた。
商人たちは、関東の覇者がついに絶望し、膝を折るものとばかり思っていた。
だが。
数秒の不気味な沈黙の後、義重の喉の奥から、低く、押し殺したような笑い声が漏れた。
「……くくく……ははははははっ!!」
義重は、天を仰いで豪快に笑い飛ばした。その笑い声には、絶望の欠片もなかった。
「面白い! 実に面白いぞ! 甲府の小僧は、小賢しい算盤でこの鬼義重の首根っこを握り、飼い慣らしたつもりでおるか!」
「お、御屋形様……?」
勘定奉行と商人たちは、狂ったように笑う義重を恐る恐る見上げた。
誰も笑わなかった。
昭為は、軍配ではなく、床に落ちた札を見ていた。兵を集める命令よりも、一枚の紙の方が恐ろしく見えた。家臣の一人が、喉を鳴らす。別の者が、無意識に刀の柄へ手をやり、すぐ離した。勘定奉行は、野帳を閉じたまま、頁を開こうとしない。広間の空気は、義重の笑い声とは別に、凍ったままだった。笑いの余韻が消えても、誰も最初に口を開こうとしなかった。
「聞け、昭為! 商人ども!」
義重は、ギラギラと燃えるような眼光で広間を見回した。彼の中に芽生えかけた一抹の不安と冷気は、鬼神の如き強烈な闘争心と覇気によって、瞬時に塗り潰されていた。
「札が止まれば我が軍が干上がるだと? 鎖に繋がれているだと? 馬鹿め! ならば、甲府が横槍を入れてその鎖を引く前に、力で引きちぎって暴れ回ってやればよいだけのことだ!」
練兵場で見た、途切れぬ鉄砲の列が、脳裏をよぎる。鎖の輪のように続いたあの列を、義重は力だと信じていた。
義重は床に落ちていた札を踏みつけ、ニヤリと好戦的に笑った。
「我らにはすでに、小田原を灰燼に帰すだけの十分な弾も米もある! 甲府が『札を止めるぞ』と脅しをかけてくる前に、怒涛の勢いで北条を叩き潰し、関東の覇権を完全に握ってしまえばよいのだ!」
「しかし殿! もし長引けば……!」
「長引かせぬ! 圧倒的な武力で、一気呵成に揉み潰す! 我らが関東の支配者となれば、甲府とて我らを無視することはできまい。むしろ、あちらから『商いをさせてくれ』と泣きついてくるわ! 算盤で戦が決まるなどというふざけた理屈、この鬼義重が武力で木っ端微塵に砕いてやるわ!」
義重の怒号が、奥書院の障子をビリビリと震わせた。
家臣たちの顔に、不安の色が残っている。商人は、相変わらず視線を下ろしたままである。義重だけが、軍配を握りしめ、広間の中央に立っていた。甲冑の隙間から、冬の冷気が入り込む。義重は、それを意に介さなかった。
「聞け、皆の者! 陣触れを早めるぞ! 春を待つ必要はない!」
義重は、意気揚々と軍配を突き上げた。
「いますぐ宇都宮、結城、那須に使いを走らせよ! 佐竹軍、五万を号して小田原へ向け、関東平野を蹂躙する! 甲府の算盤が弾き終わる前に、北条氏政の首をこの俺の前に持てぇい!!」
「おおおおぉぉぉっ!!」
義重の凄まじい覇気に当てられ、家臣たちもまた不安を忘れ、一斉にときの声を上げた。ときの声が、練兵場の方まで届く。銃声が、それに重なる。紙の音は、どこからも聞こえてこない。
城下では、旅の商人が札を受け取り、米問屋へ渡していた。米問屋はそれを塩問屋へ回した。塩問屋は荷札を書き直した。荷を負った馬が、石畳の上で乾いた音を立てる。誰も甲府を見ていない。誰も札を恐れていない。それでも荷は動く。市は立つ。蔵は満ちる。戦だけが始まらない。
帳場では筆が走る。問屋では札が渡る。蔵では荷が積まれる。誰も止めない。誰も逆らわない。大路では、まだ商人の掛け声が続いている。紙の擦れる音が、掛け声の合間に混じる。誰もその音を気にしなかった。紙だけが、止まらなかった。




