第百七十九話:鬼将算盤
第百七十九話:鬼将算盤
関東平野を北から南へと吹き抜ける空風が、常陸国・太田城の土塁を叩きつけていた。
初冬の冷気は容赦がない。土塁の上の欅は、すでにほとんどの葉を落とし、裸の枝を灰色の空へ突き上げている。枝の先が、風に小さく揺れる。堀の水面には、朝方張った薄氷の残骸が、風に揺れて小さく音を立てていた。氷の破片が、岸辺に寄せられ、また離れる。
城下から聞こえてくる商人の掛け声は、この時期にしては妙に活気がある。荷を負った馬の足音が、石畳の上で乾いて響く。人夫の息が白く立ち、問屋の暖簾が風に煽られて翻る。縄の軋む音、荷を下ろす時の短い掛け声、蔵の戸が開く音が、大路に重なる。
大路を歩く者たちの懐には、菱紋の押された札がすでに通っている。米を買うにも、塩を買うにも、同じ紙が出される。掛け声の合間に、札の相場の話が混じる。常陸の決済の半分は、すでにその紙で動いていた。噂ではなく、城下の日常であった。
その冷え切った大気の中にあって、佐竹家当主・佐竹義重の居室だけは、異様な熱気に満ちていた。
火鉢には、赤く熾った炭が盛られ、パチパチと火の粉を散らしている。炭の爆ぜる音が、時折、部屋の静けさを裂く。だが、この部屋を熱くさせているのは、炭火だけではない。部屋の中央に胡座をかき、絵図面を睨みつける男――鬼義重と恐れられる男が発する、覇気と闘争心そのものであった。義重が座しているだけで、控える家臣たちの誰もが、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。壁に掛かる槍の穂先が、火鉢の光を細く受けている。
傍らには、黒糸威の甲冑が置かれている。実戦で打ち傷のついた兜が、灯明の光を鈍く返す。手の中には、油で黒光りする鉄砲が握られている。義重は、節くれ立った指で銃身を撫で、火蓋を開いては閉じた。金属の冷たさが、指の腹に残る。
「鉄砲も槍も、同じ道具よ。使えるなら使う」
義重は、誰に言うでもなく呟いた。
「……蘆名の老いぼれめが。ついに甲府の理に入ったか」
義重は、銃身から目を離さぬまま、低い声で吐き捨てた。侮蔑と、それを上回るほどのかすかな苛立ちが混じっている。
数日前、奥州から届いた報せは、常陸の佐竹家中にも衝撃を与えた。あの老獪な蘆名盛氏が、戦わずして武田の理に入ったというのだ。城も領地も残し、私戦だけを捨てた。伊達や最上が戦慄している、という報告も続いた。使者の顔は一様に青ざめ、言葉すらどこか要領を得なかった。報告の紙は、まだ指の油で少し湿っている。
下座に控える宿老の和田昭為が、渋面を作って頷いた。長年、佐竹の外交と内政を支えてきた老臣である。
「はっ。領地も城も安堵されたとのことですが、もはや他国へ兵を出すことは叶わず、甲府の定めた札の網の中にございます。……御屋形様。我らも、蘆名殿から救援の要請があった折に兵を出していれば、あるいは……」
昭為の声は、最後まで言い切られなかった。言えば逆鱗に触れると分かっていた。それでも、言わずにはいられなかった。
「馬鹿を申すな!」
義重の一喝が、火鉢の炎を揺らした。炭の上で、小さな火の粉が跳ねる。
「あの時、我らが迂闊に兵を動かして国境へ向かっていれば、どうなっていた。手薄になった南から、宿敵・北条の大軍が常陸へ攻め込んできたはずだ! 蘆名の老いぼれは、己の身の丈に合わぬ欲をかいて火事場泥棒に走り、勝手に自滅したのだ。我らが共倒れになってやる義理など、どこにもないわ!」
昭為は、何も言わなかった。火鉢の炭が、小さく爆ぜた。壁の槍が、光を細く受けたまま動かない。義重は、銃身に再び指を戻した。
「盛氏は、負けた」
義重は鉄砲を畳に置いた。銃身が、畳の上で小さく音を立てる。
――札を使い始めたのは、半年ほど前のことであった。
金山から上がる金を、鉄砲に替える。その商いの場で、商人どもが初めて札の話を持ち出した。重い金を運ぶ手間を省き、堺や上方の鍛冶との決済を円滑にするための道具だ、と。昭為は猛反対した。武田の紙切れに金を替えるなど、依存の入り口だと。だが義重は、構わん、とだけ言った。金は払っている。借りなどない。街道がある。札がある。鉄砲が届く。それで十分だ、と。
重そうな木箱が、次々と運び込まれた日のことを、義重は今も覚えていた。畳が沈み、部屋の空気がわずかに変わった。蓋が開くたび、灯明の光が跳ねた。箱の中には金が詰まっていた。誰も口を開かなかった。
「見よ。これが我が佐竹の力よ」
その時も、義重はそう言った。蘆名は銭が尽きて死ぬだろうが、常陸には金山がある。掘れる限りは掘る。武田が札を回そうが、街道を繋ごうが、結局は銭である。銭が尽きれば終わる。ならば尽きぬ銭を持つ者が勝つ。紙より金、金より鉄砲。勝負を決めるのは、いつの世も実体のあるものだ、と。
金は甲府へ送られた。向こうの商人が受け取り、札が渡された。その札で、鉄砲と硝石が届き始めた。城下の決済にも、同じ札が少しずつ入り始めた。米屋で、塩問屋で、普請場で。誰かが止めようとしたわけではない。便利だから、使われた。半年が過ぎ、常陸の決済の半分は、すでにその紙で動いていた。鉄砲の数も、硝石の量も、噂になるほどに増えていた。
――そして今、義重は、その道具をさらに加速させようとしていた。
「入れよ」
義重が声をかけると、廊下に控えていた数人の男たちが、重そうに木箱を抱えて入ってきた。
最初の一箱が、敷居を越える。木箱の底が畳を擦る音が、鈍く響く。足の運びが重い。箱の中身の重さが、そのまま床に伝わる。続いて二箱目。三箱目。廊下の陰から、さらに四箱目が現れる。五箱目。六箱目。荷担ぎの者の肩が沈み、額に汗が光る。冬の部屋なのに、運ぶ者たちの息は白い。箱を置くたびに、畳が小さく軋む。軋みの音が、部屋の端まで届く。家臣の一人が、無意識に一歩後ろへ下がった。隣の者が、目を見合わせる。誰も口を開かない。壁の槍が、箱の列を静かに見下ろしている。
彼らは甲冑を着た武士ではない。上等な絹の着物を羽織った、上方や甲府から出入りする大商人たちであった。平伏すると、木箱の蓋に手をかける。指が、わずかに震えている。蓋を開ける音が、次々と部屋に落ちる。カチリ、という小さな音が、箱の数だけ続く。
箱の中には、金が詰まっていた。灯明の光を受けて、粒の一つ一つが小さく煌めいた。箱の縁に当たった光が、家臣の足元まで伸びる。粒が動くたびに、光の筋がわずかに揺れる。誰も、しばらくは口を開かなかった。商人の一人が、袖で額の汗を拭う。別の者が、箱の角を直し、手を離すのをためらう。義重は、箱を見下ろしたまま、動かなかった。指が、膝の上で一度、動いただけだった。火鉢の炭が、小さく爆ぜる。その音だけが、部屋に残った。
「此度の追加は、鉄砲三百挺。硝石と鉛も、これまで以上に揃えよ」
義重は、箱を見下ろして言った。
「北条を叩くための軍備だ。金山はまだ掘れる。金は甲府へ送れ。向こうが受け取れば札が来る。その札で、掻き集めてこい」
商人の一人が、頭を下げたまま答えた。
「……はっ。佐竹様の金の量、申し分ございませぬ。札での大口の決済も、これまで通り進めさせていただきとうございます」
和田昭為が、渋面のまま口を開いた。
「御屋形様。札を増やすのはよろしゅうございますが……蘆名の二の舞にならぬよう、量を見定めた方が」
「金は払っておる。ただで貰っておるわけではない。借りなど、ない」
義重は、短く切った。
「街道がある。札がある。鉄砲が届く。それで十分だ。最後に物を言うのは鉄砲よ。我らは武田の札を使って、北条を叩き潰すだけの鉄砲と火薬を蓄える。関東の覇権を握った後は、甲府の商流も、俺が使う」
商人は深く平伏し、荷担ぎの者たちに金の入った木箱を慎重に運び出させた。箱の角が、扉の框に小さく当たる音がした。廊下の冷えが、室内へわずかに流れ込む。運ばれていく箱の列が、廊下の闇に消えていく。家臣の誰も、その背中を見送る者はいなかった。
それから幾日か。
太田城下の活気は、さらに増した。荷駄の列は、日を追うごとに長くなっていく。朝のうちから、門前に列が伸びる。馬が荷を負い、人夫が担ぎ、問屋街は連日賑わい、商人の掛け声と、汗の匂いが、冬の冷気の中に立ち込めていた。縄の軋む音、馬の鼻息、荷を下ろす時の短い掛け声が、大路に重なる。問屋の暖簾が、次々と上がる。蔵の前には、待つ者が並び、順番を待つ息が白い。夕方になっても、列は途切れない。夜の灯りが点く頃、ようやく門が閉じる。翌日の朝には、また同じ列が門前にできている。
蔵の戸が開くたび、鉄砲が増えた。すでに並んでいた銃身の列に、新たな荷が加わる。硝石が積まれ、鉛が運び込まれる。蔵番の帳面の数字は、日ごとに膨らんでいった。城外では試射の音が響く。乾いた音が、冬の空に消える。煙が薄く立ち、風に流れる。義重は、その音を聞くたびに頷いた。
「殿。追加で届いた鉄砲、すでに二百挺を数えまする。蔵の合計は、さらに増えております」
「上方の硝石も、相当量が届いております」
家臣たちの報告のたびに、義重は満足げに頷いた。太田の町では、銃声が、日常の一部として溶け込みつつあった。
銃身は嘘をつかない。一挺は一挺である。百挺あれば百挺だ。札の値打ちは人が決める。だが鉄砲の数は変わらない。義重はそう考えていた。紙の相場がどう動こうと、蔵の中の鉄砲の数は動かない。北条を押し返すのは、紙ではない。鉄である。常陸の蔵に並ぶ銃身の列を見るたび、義重の胸の奥で、何かが静かに納得していた。半年前に札を使い始めてから、鉄砲は増え続けている。銭は金山から出る。札は道具に過ぎない。道具を使い、実体を蓄える。それが、常陸の勝ち筋だと思っていた。
彼は、北条に対抗する諸将をまとめ、近隣の国々へと働きかけを始めた。下野の宇都宮国綱、下総の結城晴朝、那須資胤。北条氏政の圧力に押されていた彼らの陣営へ、使者を送り、鉄砲を見せ、札を回した。すでに常陸で使い慣れた道具を、同盟の者どもにも渡す。兵を養わせ、城を固めさせる。北条を囲むための算段であった。
諸将を集めた軍議の席で、黒光りする鉄砲が並べられた。灯明の光が、銃身の油を細く反射する。
宇都宮や結城の当主たちは、その数に目を丸くした。
「これほどの鉄砲……いかにして」
「佐竹殿の財力、底知れず」
義重は短く言った。
「兵が腹を空かせていては戦にはならぬ。……これを使え」
机の上に、札の分厚い束が置かれた。紙の端が、火鉢の明かりを受けて白い。束は、幾重にも重ねられている。紙の厚みが、机の上でわずかに影を落としている。義重は、束に手を触れなかった。ただ、そこに置いた。
「これは……甲府の札ではありませぬか」
「そうだ。使え。兵を養え。常陸では、すでに半分がこれで動いておる」
宇都宮国綱が最初に札へ手を伸ばした。それを見た結城と那須も続く。誰一人として返そうとはしなかった。束を懐に収める音が、静かに重なる。互いに顔を見合わせる。誰も、言葉を継がない。机の上には、もう札の束は残っていない。空になった机の木目だけが、火鉢の光を受けている。
広間の外で、問屋の者が注文を書き付けている。筆が走る。頁の端に、数字が並ぶ。米俵が、廊下の隅に積まれていく。縄の音が、短く鳴る。俵を担ぐ者の息が、白い。別の者が、塩の樽を運ぶ。樽の底が、床を擦る。普請場では、木槌が規則正しく響いていた。槌の音が、間を置いて続く。木材を運ぶ者が、足を止め、札の束を懐に入れた諸将の背中を、一瞬だけ見た。背中は、すでに広間を出ていた。
「……見たか、昭為」
太田城の本丸の高みから、城下を見下ろしながら、義重は傍らの家臣に語りかけた。大路には、荷を負った馬が今も続いている。煙が立ち、掛け声が上がる。
「便利なものよ」
義重は、腰の太刀の柄に手を置いた。柄の革が、指の腹に馴染んでいる。
「鉄砲は、すでに来ておる。札も、すでに使っておる。この強大な軍備で北条を叩いた暁には、甲府の商流も、俺が使う」
昭為は、その横顔を見つめた。何かを言いかけて、口をつぐんだ。冬の風が、本丸の縁を掠めていく。
大路を歩く者たちが口にするのは、札の相場の話ばかりであった。
「札の相場が上がった」
「甲府の札が足りぬ」
「今のうちに替えておけ」
米屋の前でも、塩問屋の前でも、同じ紙の話が聞こえる。掛け声の合間に、数字が混じる。義重は聞いていた。だが興味を持たなかった。相場より兵。紙より鉄。勝負を決めるのは、いつの世も武士だと思っていた。
初冬の冷たい風が、太田城の本丸を吹き抜けていく。土塁の上の欅が、また小さく揺れる。
義重は、遠く小田原の空を睨みつけていた。空の向こうに、北条の城がある。そこだけを見ていた。
足元の帳場では、問屋の者が、今日も札の額を書き込んでいる。筆が走り、墨が乾く。頁の端に、数字が並ぶ。義重の目は、その帳場には向いていなかった。




