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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第百二十四話:春日安住

第百二十四話:春日安住


 春日山城の西の廓に割り当てられた景虎の居館は、今夜も遅くまで灯りが消えなかった。


 上杉景虎は、文机の前に座り、小田原からの書状を読み返していた。

 兄、北条氏政からの書状だ。封を切ってすでに半刻が過ぎているが、何度読んでも、同じ場所で手が止まる。


 表向きの文面は、越後が準備する遠征への激励と、関東方面の近況報告だ。北条の水軍が相模湾の警戒を強化したこと、下野の国人衆との関係が安定していること、武田との国境が今冬も概ね平穏であること。どれも、遠く越後にいる弟への気遣いを込めた近況だ。しかしその言葉の一つひとつが、丁寧に選ばれすぎているように景虎には感じられた。


 兄も色々心配しているのだろう。


 景虎は書状を静かに折り、文机の端に置いた。

 火鉢の炭が爆ぜる音がした。外では風が唸っている。


 自分がこの城に来て、もう数年が経つ。

 相模の小田原で生まれ、北条氏康の子として育った。父の死後、兄の氏政が家督を継ぎ、上杉謙信との関係を修復するための橋渡しとして、自分はこの雪深い北の国へ来た。政治の道具という言葉は誰も使わなかった。養子という言葉が使われた。しかし最初の数年、自分がここで何であるかは、自分自身が一番よく分かっていた。


 最初の冬のことを、景虎は今でも鮮明に覚えている。

 小田原にも冬はある。しかし越後の冬は別の生き物だ。城下の街道が雪に埋もれ、大人の腰まで積もった白い塊が、どこまでも続く。空から降る雪は絶え間なく、気づけば昨日まで見えていた山の輪郭が消えている。最初の数日は、これが本当に春になるのかと、密かに疑った。

 越後の武士たちも、小田原とは違った。関東の武士は、礼儀と格式をよく知っている。言葉が洗練されており、所作が整っている。しかし越後の武士たちは、そういう表面の滑らかさよりも、もっと別の何かを持っていた。骨の太さ、とでも言うべきか。言葉は少なく、飾りがなく、しかしその一言一言に重みがある。景虎が最初に違和感を覚えたその感覚は、数年経った今、ある種の羨望に変わっていた。


 だが、謙信は違った。

 あの人は、景虎を養子として扱った。本当の意味で。政治的な算段のために手元に置くのではなく、自分の後継者候補の一人として、正面から向き合った。その目に嘘はなかった。景虎はそれを、肌で感じていた。


 だからこそ、この城への愛着が、景虎の中に育っていた。

 北条の城では、全てが計算の上に成り立っている。誰が誰と組み、誰が何を求め、どの利害が一致するか。それが政治であり、戦であり、外交だった。しかし春日山城では、そういう計算より先に、大将への純粋な信仰がある。謙信がそれを作り上げてきた。謙信がいる限り、その信仰は揺るがない。それが景虎には、小田原では感じたことのない、不思議な安堵をもたらしていた。


 文机の上に、越後の地図が広げてある。

 飯山。海津。善光寺平。春日山。そして能登、越中、加賀へと続く遠征路。景虎はその地図を眺めながら、三月半ばの出陣のことを考えた。


 出陣すれば、自分も従軍する。越後の将として、上杉の旗の下で戦う。それは当然のことだ。しかし、それは同時に、小田原からさらに遠くなることを意味する。兄との距離が、また少し開く。兄は心配しているのだろう。越後に深く根を張りすぎることを。しかし今の景虎には、その心配が少し遠いものに感じられた。御屋形様がいる。春日山城がある。遠征がある。やるべきことは目の前に山積みだ。小田原のことは、遠征が終わってから考えればよい。


 景虎は立ち上がり、居館の廊下へ出た。

 夜の春日山城は、昼の喧騒とは別の顔を持つ。出陣準備に追われる日中の熱気が引いた後、城は静かな暗がりの中に沈む。しかし完全には静まらない。遠くで夜番の足音がする。厩から馬の気配がする。どこかで遅くまで仕事をしている者の灯りが、廊下の先の暗がりを微かに照らしている。


 廊下を歩きながら、景虎は今日の一日を思い返した。

 午前は遠征に向けた陣立ての最終確認をした。自陣営の将たちを集め、越中口での布陣と、能登方面での動き方について話し合った。関東から従ってきた将兵たちの中には、越後の雪と寒さに慣れていない者も多い。体調の管理から、雪道での行軍の心得まで、細かいことを一つひとつ確認した。

 その中に、北条の家中から景虎に付き従ってきた者が数人いた。一人は景虎が小田原にいた頃から知っている顔だ。父の代からの古参で、越後へ来た当初は何かと心細そうにしていた男だが、今ではすっかり春日山の空気に馴染んでいる。今日も確認の後で、その男が景虎に短く言った。

「越後の冬も、慣れるものでございますな」

「そうだな」

「最初の年は、雪が嫌でたまりませんでしたが」

 景虎は少し笑った。「私もそう思った」

 男も笑った。短い会話だったが、景虎には心地よかった。この城が、この者たちにとっても、いつの間にか当たり前の場所になっている。


 午後は御屋形様の軍議に列席した。

 広間には越後の重臣たちが揃い、謙信が上座からこの遠征の全体像を説明した。越中、能登、加賀の順に手を入れていく方針。各方面の担当と、兵糧の配分。信長との最終決戦を見据えた長期の構想。その声は大きくも小さくもなく、しかし広間の隅々まで届いた。誰も口を挟まなかった。謙信が話す間、広間はただ静かに、その言葉を受け取っていた。

 景虎は自分に割り当てられた役割を確認し、疑問点を一つ問い返した。謙信は短く、しかし的確に答えた。それで全て分かった。

 軍議の場でこういう時、景虎はいつも同じことを思う。あの人の言葉には、余分なものがない。説得しようとしていない。ただ、事実と判断だけがある。だから誰もが動く。異論を挟む余地がないのではなく、異論を挟む必要がないのだ。


 軍議の後、河田長親と短い言葉を交わし、越中口の細かい段取りを確認した。河田は寡黙だが、話せば必要なことだけを言う。景虎はその簡潔さを、今では好んでいた。

 夕刻には景勝と廊下で行き合い、遠征の段取りについての実務的なやり取りをした。景勝は相変わらず言葉数が少なく、しかし要点だけを正確に言う。最初の頃は、あの寡黙さが少し掴みにくかった。しかし今は、あれが景勝という人間の誠実さの形だと分かる。


 廊下の突き当たりで、景虎は立ち止まった。

 遠くに、二ノ丸の方角の灯りが見える。あの灯りは、おそらく景勝の陣営のものだ。この時刻まで政務をしているのか、あるいは軍議をしているのか。景勝はいつもそういう男だ。遅くまで仕事をし、早く起き、城内のどこかで常に何かをしている。


 景虎は、景勝のことが嫌いではなかった。

 好きかと問われれば、返答に困る。しかし嫌いではない。あの男の実直さと、城内の者への静かな求心力は、本物だと思っていた。全く自分とは違う種類の人間だが、それはむしろ面白いと思っている。自分が得意なことと、景勝が得意なことは、重ならない。両方あって、上杉は成り立っている。そういうものだろう、と景虎は思っていた。


 正月の宴で、座の輪が自然に分かれたことがあった。しかしそれは宴の席でよくあることだ。気の合う者が近くに集まる。それだけのことだ。深く考えるようなことではない。景勝の周りには越後の生え抜きが集まり、自分の周りには関東から来た者たちが集まる。当たり前のことだ。それぞれが慣れ親しんだ言葉や習慣を持つ者同士で話が弾む。それだけのことだ。


 景虎は廊下を戻り始めた。

 出陣の準備が全てだ。今は、それだけを考えればよい。御屋形様の指揮の下で戦う。それが今の自分の役割だ。後継者がどうとか、そういう話は今考えることではない。御屋形様が健在である限り、その問いに答えを出す必要はない。


 居館に戻り、景虎は文机の前に再び座った。

 兄への返書を書かなければならない。激励への礼。越後の近況。遠征の準備が整っていること。

 筆を取り、墨を含ませる。


 兄上、越後は今、出陣の準備で満ちております。御屋形様は健在であらせられ、軍勢の士気も高く、三月の出陣に向けて着々と整っております。私も従軍いたします。どうかご心配なく——。


 書きながら、景虎は思った。これは本当のことだ。嘘は一行も書いていない。御屋形様は健在だ。軍勢の士気は高い。出陣の準備は進んでいる。何も変わっていない。

 筆を置いた。内容に不足はない。兄も安心するだろう。


 返書を乾かしながら、景虎はもう一度、地図を眺めた。

 越後。能登。越中。加賀。広い道だ。しかし謙信が先頭に立てば、その道は拓ける。いつもそうだった。これからもそうだ。


 景虎は返書を折り、封じた。明日の朝、早馬に持たせる。小田原まで届くのに、いつもなら十日ほどかかる。しかし三月半ばには出陣なので、返書が届く頃には自分はもう越後を出ているかもしれない。

 兄は心配するだろう。しかし心配には及ばない。自分はここにいる。御屋形様がいる。春日山城がある。それで十分だ。


 外では風が、春日山城の石垣を低く唸らせていた。

 景虎は行灯の芯を短く整え、静かに灯りを落とした。

 明日も、出陣の準備が続く。何も変わっていない。それで十分だった。

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