第百二十三話:静中異変
第百二十三話:静中異変
春日山城の三ノ丸、荷駄奉行所の土間は、今日も朝から人の出入りが絶えなかった。
直江家家老の勝久は、分厚い軍役帳を脇に抱えたまま、その混雑の中をゆっくりと歩いていた。
確認すべき事柄は多い。越中口へ回す荷駄の再配分。飯山方面の中継拠点への塩の手配。遠征に同行する鍛冶衆への鉄材の割り当て。直江信綱から昨夜預かったそれらの確認事項を、一つひとつ潰していく。地味な仕事だ。しかし、数万の兵が動く時、この地味な仕事の精度が、百里先の戦場の勝敗を左右する。勝久はそれを、この四年で体に刻んでいた。
土間の外に出ると、二月の空気が鋭く頬を刺した。 荷駄の列が、城の搦手から三ノ丸へと続いている。俵を高く積んだ大八車、雪道に備えて藁沓を何重にも履かせた荷馬、息を白くしながら荷を肩に担いだ人足たち。その列は途切れることなく続いており、勝久がこの場所に立って眺め始めてから、すでに半刻近くが過ぎていた。
軍役帳に視線を落とす。数は合っている。むしろ例年の遠征よりも、準備の速度は明らかに上だ。三月半ばの出陣まで、まだ三週間ほどある。この調子なら、遅れは出ない。
しかし勝久は、軍役帳から目を上げて、もう一度その列を眺めた。
米俵を積んだ車が通る。塩の樽を乗せた馬が続く。干し飯の袋を担いだ人足が列を作る。数えれば全て揃っている。不足はない。しかし、この列の中を歩いている人間一人ひとりの顔を見ていると、何かが以前と違う気がした。
気が急いている、というのではない。むしろ逆だ。皆、黙々と働いている。声を上げることも少なく、互いに余計な言葉を交わさず、ただ与えられた仕事を黙々とこなしている。出陣前の城というのは、本来もう少し熱を帯びているものではなかったか。
勝久は若い頃に見た出陣前の城下の空気を、ぼんやりと思い浮かべた。あの頃の城は、もう少し騒がしかった気がする。今もその熱気はある。ある、はずだ。ただ——。
出陣を目前に控えた城内の空気は、どこか普段と違って見えた。
荷駄を引く人足の歩幅が、平時とは違う。槍を研ぐ音の調子が、違う。城全体が、目に見えない力に引っ張られるようにして動いている。その力の源が何かは、誰に聞くまでもない。春日山城はいつも、出陣が近づくたびに変わるのだ。
そうだ。熱気はある。準備は万全だ。数字は合っている。
勝久は軍役帳を閉じ、次の確認場所へ向かった。
武具蔵に立ち寄り、槍の穂先の仕上がりを確認する。鎧の金具の点検状況を問い、草摺の修繕が終わっているかを確かめる。蔵番の老爺が几帳面な字で書いた台帳を受け取り、信綱から預かった軍役帳と数字を突き合わせる。一致している。蔵番が誇らしげに胸を張った。
「今年は例年より二割方、仕上がりが早うございます」
勝久は頷き、礼を言って蔵を出た。
続いて兵糧蔵へ回った。
奉行の黒沢与左衛門が、行灯の下で帳面を広げていた。勝久が入ってきたのに気づくと、与左衛門は顔を上げ、黙って帳面を差し出した。勝久は受け取り、目を通した。
米の備蓄量、塩の残高、干し飯と味噌の袋数、越中口と飯山方面それぞれへの配分の内訳。数字が几帳面に並んでいる。勝久は一列一列を指で辿り、軍役帳の数字と照合した。
合っている。
「荷の出し方の順序は」
「明後日から三日かけて、越中口へ先に。飯山は五日後に始めます」
「遅延の懸念は」
「今のところございません。雪の状態が続けば、予定通りに動かせます」
勝久は帳面を返し、礼を言って兵糧蔵を出た。与左衛門が再び行灯の下で帳面に向かう気配が、背後から伝わってきた。
厩を回り、軍馬の仕上がりを馬丁頭に確かめた。馬丁頭は額に深い皺を寄せながら、一頭一頭の状態を丁寧に説明した。寒さで脚を傷めた馬が三頭あるが、出陣までには完治する見込みだという。代替の馬の手配は済んでいるか。済んでいます。飼料の備蓄は。十分でございます。
こちらも、数字は合っていた。
鍛冶場にも立ち寄った。
火の粉を散らしながら、職人たちが槍の鑿を打ち、刀の焼き入れを続けている。人足頭が勝久の顔を見ると、手元の覚書を広げた。仕上がった武具の数と、残りの作業量が書いてある。出陣までに間に合うか。間に合います、と人足頭は力強く言った。三日あれば全て片付けます、と。
勝久は覚書を一通り確かめ、問題がないことを確認した。
どこへ回っても、数字は合っていた。 仕事は進んでいた。
誰もが、与えられた持ち場で全力を出していた。
午前の仕事を終えて、直江家家老の勝久は二ノ丸へ向かった。
直江信綱への中間報告のためだ。信綱は今日、御屋形様の政務に付き添っている。二ノ丸の政務所へ足を運ぶと、廊下に近習が数人立っていた。
「お取り込み中か」
「はい」
近習の一人が答えた。
「越中の使者が参っておりまして」
勝久は廊下の端で待った。
廊下の窓から、中庭の雪が見える。二月も下旬になると、雪の重みが変わる。表面が微かに光を持ち始め、溶け始める前の予感が漂う。去年も、一昨年も、その前の年も、同じ季節にここで同じ雪を見た。何も変わっていない。この廊下も、この雪も、この城も。
政務所の扉が開き、越中の使者が頭を下げながら退いていった。続いて、直江信綱が廊下に出てきた。
三十に届かぬ若き当主は、勝久の顔を見ると短く頷いた。
「待たせたか」
「いいえ」
「報告を聞こう。歩きながらでよい」
二人は廊下を歩きながら、越中口の荷駄の状況、飯山方面の遅れ、鍛冶衆の要望について、手短に言葉を交わした。信綱は聞きながら時折頷き、二か所ほど指示を加えた。それだけだった。いつも通りのやり取りだ。
勝久は報告を終えながら、信綱の横顔をさりげなく観察した。当主の顔は今日も引き締まっており、余計なものを一切見せない。この男が感情を表に出すのは、よほど特別な場面に限られる。普段は実務の顔だけがある。今日もその顔だった。
報告を終え、信綱が政務所へ戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、勝久はふと、正月の宴のことを思い出した。
あの夜から、何かが引っかかっている。何が引っかかっているのかは、今もうまく言葉にできない。ただ、片付けを終えた後で空の杯を重ねながら感じたあの感覚が、まだ胸の奥に薄く残っている。
その数は変わらぬのに、何かが足りなかった。あの夜そう感じた。しかし今の信綱の顔には、何も異常はなかった。実務の男が実務をこなしている、それだけの顔だった。
(気のせいだ。あの宴から二月近く経った。何も起きていない)
勝久は軍役帳を開き直し、廊下を歩き始めた。
昼を少し過ぎた頃、家老の勝久は城の西廊下を通りかかった。
そこで、謙信と行き違った。
御屋形様は、側近を数名だけ連れて歩いていた。遠征のための最終確認か、あるいは別の政務か、勝久には分からない。ただ、その気配を感じた瞬間、勝久は反射的にその場に膝をつき、深く頭を下げた。
謙信の足音が近づき、通り過ぎた。
勝久はしばらくそのまま待ち、やがて顔を上げた。
謙信の背中が、廊下の先に遠ざかっていく。
いつも通りの足取りだった。歩幅は大きく、迷いがなく、廊下の石畳を深く踏みしめるようにして歩く。四十九という年齢を感じさせない。勝久自身が見てきた限りでも、あの足取りは変わっていない。
変わっていない——はずだった。
勝久は、自分でも気づかないうちに、謙信の後ろ姿を見続けていた。
何かを確かめようとしているわけではない。ただ、目が離せない。何かが引っかかっているが、それが何なのかが言葉にならない。
正月の宴の夜に感じた、あの漠然とした感覚に似ている。数が変わらぬのに何かが足りない、あの感覚に。
謙信の背中が、廊下の角を曲がって消えた。その瞬間、勝久はようやく目を逸らした。
何かが違う。だが、それが歩調なのか、背筋の張りなのか、自分でも分からなかった。あの足取りを見慣れているつもりで、実は比べるだけの記憶が自分にはないのかもしれない。末席の家老が廊下の端から遠目に見かける程度で、御屋形様の日常の歩き方を正確に知っているはずがない。
(気のせいだ)
勝久はまた、そう己に言い聞かせた。今度は、少し強く。
ただの疲れだろう。出陣前のこの時期、御屋形様も多忙を極めている。政務に軍議に使者の応対、そして遠征に向けた最終準備。それだけの重荷を背負えば、歩調の一つや二つが変わっても当然だ。それを末席の家老が廊下の端から眺めて、勝手に何かを感じ取ったつもりになっているだけだ。
夕方近く、勝久が武具蔵の前を通りかかった時、景勝と景虎の家臣たちが荷馬の割り当てを巡って押し問答をしている場面に出くわした。
大きな争いではない。どちらの組が先に荷馬を使うか、という実務上のやり取りだ。どこの陣営でも起きる。珍しいことではない。
ただ、その場にいた双方の顔つきが、やり取りの規模に似合わない険しさを持っていた気がした。言葉は抑えられているが、目の底に抑えきれない何かがある。そういう顔だった。蔵番の老爺が間に入って宥めようとしているが、双方とも引こうとしない。
勝久は足を止めず、その脇を通り過ぎた。自分の関与すべき場面ではない。直江家の家老として口を挟む事柄でもない。
しかし、三歩ほど歩いてから、ふと足が鈍った。
正月の宴の夜も、あの二つの輪は混ざり合わなかった。景勝の陣営と、景虎の陣営。同じ城に暮らし、同じ大将に仕え、同じ遠征に向けて動いているのに、その笑い声は空中で混ざり合わなかった。そしてあの夜から今日まで、何も起きていない。ただ、荷馬の割り当てを巡る押し問答の底に、何か別のものが潜んでいるように見えた。
何でもない。出陣前の緊張が、実務上のやり取りを少し尖らせただけだ。それだけのことだ。
勝久は再び歩き始めた。
夕暮れ時、勝久は自分の部屋に戻り、今日一日の確認事項を軍役帳に書き留めた。
武具蔵の仕上がり。兵糧蔵の配分。厩の馬の状態。鍛冶場の進捗。信綱からの指示。どれも数字は合っている。荷駄の遅れもない。何も問題はない。
外では相変わらず、出陣の準備に追われる兵たちの足音と、武具を打ち合わせる硬質な音が響き続けている。誰もが、来たるべき遠征に向けて己の役目を果たしていた。
城はいつも通りに動いている。
春になれば、大軍が動く。
勝久は筆を置き、窓の外の暗がりを見た。
今夜も、何も起きなかった。正月の宴から今日まで、何も起きていない。荷駄の数字は合い、武具の仕上がりは例年以上で、馬は揃っている。御屋形様はいつも通りに歩いていた。自分が感じているものは、きっと場慣れしていない者の的外れな感受性だ。古参の家臣たちは何も気にしていない。信綱も何も言わない。
勝久は目を閉じた。
正月の宴の最後、広間を一人で片付けながら眺めた光景が浮かんだ。空になった無数の杯。消えかけた火鉢の炭。天井の梁の遠い影。そして、盆の上に並んだ空の杯が月明かりを反射して鈍く光る、あの静けさ。 その数は変わらぬのに、何かが足りなかった。 今日も同じだ。荷駄も武具も兵も馬も、全て揃っている。数字は合っている。しかし。
(何も変わっていないはずだ)
勝久は軍役帳を閉じた。
しかし今夜も、その結論が腹の底にうまく腑に落ちなかった。
正月の宴の夜と同じように。
外で風が鳴った。
春日山城は、今夜も静かに冬の闇に沈んでいた。
何も変わっていないはずだった。




