第百十話:相場転移
第百十話:相場転移
京の都の冬は、骨の芯まで底冷えする。
山城の空を覆う鈍色の雲は重く低く垂れ込め、賀茂川の方角から吹き上がる湿った北風が、軒を連ねる町家の隙間という隙間へ音もなく入り込んでいた。
それでも都の通りは、行き交う人でごった返している。
東国でどれほど血生臭い大戦が起ころうとも、公家は歌を詠み、寺は権勢のために鐘を鳴らし、町人は日々の銭を勘定する。
京とは、古くからそういう強かで図太い場所だった。
西洞院通に大店を構える油商人、伊庭屋惣右衛門は、薄暗い帳場で算盤を弾く手を止め、分厚い大福帳を見つめながら深く眉を寄せていた。
「……おかしい」
惣右衛門の目の前に広げられた帳簿には、このひと月に入荷した炭、菜種油、灯明油、蝋、和紙の仕入れ値が細かく書き並べられている。
毎年、冬が本格化するこの時期には必ず物の値が跳ね上がる。寒さが深まれば灯火の油は売れ、身を切る冷気の中で炭は商人の間で奪い合いになる。さらにどこかの国で戦でも起これば、街道の関所が閉ざされ、荷駄が止まり、相場は天井知らずに荒れるのだ。
まして今年は、東国で日ノ本の歴史を揺るがす大戦があった。
織田と徳川の連合軍が設楽原で武田に大敗を喫し、三河は主を失って大きく荒れ、東海道の物流は大混乱に陥り、商いは長期間にわたって滞るはずだった。
本来ならば、京の相場は大きく乱高下し、商人たちが生き残りを懸けて暗躍していなければならなかった。
だが。
「相場が、全く崩れておらぬ……」
惣右衛門は、誰に聞かせるでもなく低く呟いた。
炭の値は、例年よりほんの少し高い程度で推移している。油も多少は上がっているが、天下を分かつ大戦があった年とは思えぬほどに、不気味なほど安定しているのだ。
おかしい。
戦が起これば、必ず値は乱れる。それが、この乱世を生き抜いてきた商人たちの絶対の常識だった。
戦とは、ただ兵同士が殺し合うだけのものではない。道を殺す。荷の流れを殺す。そして、相場という名の血流を殺す。
だからこそ商人は、戦の噂を聞けばまず相場を見る。相場こそが、国の血の巡りそのものを表す鏡だからだ。
惣右衛門は算盤を置き、帳場の隅の長持に積まれた過去の帳簿を引きずり出した。
二年前。三年前。四年前。
小競り合い程度の戦があった年でさえ、必ず炭と油の値は大きく乱れている。ある年は仕入れ値が二割も跳ね上がり、ある年は野盗の跳梁で荷そのものが完全に途絶えた。
だが、今年の数字は、まるで波一つない湖面のように妙に凪いでいる。
惣右衛門は帳簿を幾重にも重ね、目を皿にして見比べた。
動員された兵の数、戦の規模で言えば、今年の設楽原は過去最大に近い。なのに相場の乱れは、地方の小競り合いの年よりもはるかに小さかった。
どう考えても理屈が合わない。
「旦那」
番頭の彦七が、寒空の中から戻り、帳場へ顔を出した。
「近江の炭問屋、宗兵衛殿が参っております」
「通せ」
やがて、厚手の羽織を着込み、鼻の頭を赤くした男が店へ上がり込んできた。長年の商いの付き合いがある近江商人の宗兵衛だった。
「冷えますな、旦那」
「今年は特にな。道中は難儀であったろう」
軽く時候の挨拶を交わした後、宗兵衛は茶を一口すすり、すぐさま本題へ入った。
「炭の仕入れ、もう二割ほど増やせますぜ」
惣右衛門は、思わず顔を上げた。
「増やせるだと。この時期にか」
「ええ。量も揃う。遅れも少ねえ」
「……何故だ」
宗兵衛は少し黙り込んだ後、周囲を気にするように小さく息を吐いた。
「武田筋を通すのです」
その一言で、帳場の空気がぴたりと止まった。
惣右衛門は静かに目を細める。
「甲斐の武田か」
「駿河から東海道を抜け、美濃をかすめて近江へ入れる裏の道筋にございます」
「馬鹿を言え。今、あの辺りは設楽原の大戦の直後だぞ。血生臭い敗残兵がうろつき、村が焼かれ、道は完全に死んでいるはずだ」
「ええ、だから手前も最初は半信半疑で、全く信用しておりませんでした」
宗兵衛は、ひどく苦い顔で力なく笑った。
「秋口に、試しに捨てる覚悟で小さい荷駄を一本だけ、武田の支配下に入った東海道を通してみたのです」
「それで」
「……予定の刻限より、半日も早く無事に着きやがった」
惣右衛門は黙った。
「武田の関所は、直轄の蔵が発行した手形一枚だけでそのまま通りました。番兵に袖の下の銭を握らせる必要もなかった。夜盗に襲われることもなく、荷は一つも消えていなかった。戦のすぐ後だというのに、宿場も普通に動いてたんです」
宗兵衛は、信じられないものを見たというように言葉を継いだ。
「どうしても信用できんかったから、もう一本、今度は炭を多めに積んで通してみた」
「結果は」
「全く同じでした」
宗兵衛のその声は、商いに勝った感心でも歓喜でもなかった。どこか、理解の及ばない事象に直面し、腑に落ちない者の怯えた声だった。
「それが三度、四度と続いた。荷が遅れたことがただの一度もねえ。夜盗や野武士に遭ったことも一度もねえ」
「……」
「だから今は、大口の荷は全部、安全な武田筋へ回しております」
惣右衛門は返事ができなかった。
京や近江を手広く行き来する宗兵衛ほどの熟練の商人が、全部、と言い切った。
それが何よりも重い事実であった。
「しかも、旦那。あそこの道は、値が完全に読める」
その言葉に、惣右衛門の算盤に乗せていた指先がぴくりと止まった。
値が読める。それは戦国の商人にとって、魔法のような、あまりにも大きすぎる言葉である。
「今年みてえな大戦の年は、本来なら炭の仕入れ値はもっと跳ね上がる」
宗兵衛は身を乗り出して続けた。
「だが武田筋だけは、荷が途中で落ちねえ。道が死なねえからだ」
「……」
「だから畿内の商人どもも皆、こぞって武田側へ荷を回し始めているのです」
惣右衛門は、ゆっくりと手元の大福帳へ目を落とした。
数字を追う。
去年。一昨年。今年。
通常なら戦のある年は、道中での損耗分を最初から見越して、問屋は値を大きく吊り上げる。
夜盗による略奪。大名による理不尽な徴発。関所でふんだくられる関銭。天候や陣触れによる遅延。長雨による荷の腐敗。積荷の消失。
だから商人は、最初からその損を売値に織り込んで商いをする。
例えば百貫の炭を仕入れたとする。そのうち十貫は夜盗に消えるかもしれない。五貫は大名に徴発されるかもしれない。関銭でさらに数貫取られる。遅延で売り物にならなくなるものも出る。
商人とは、利益を売るのではない。損を売り、危険を銭で買う商売なのだ。
だが。
「……減っているのだな」
惣右衛門は、重い声で呟いた。
「何がでございますか」
「道中での損耗だ」
宗兵衛は無言で頷いた。
「馬の消失が極端に減っている。関銭も公式の額で一定。到着の日数も正確に読める。途中で足止めを食らわず、荷が腐らん」
惣右衛門の声が、次第に低く、震えを帯びていく。
「だから、問屋も値を余分に上げずに済む。京の相場が荒れなかったのは、武田が東海道の物の流れを、一寸の狂いもなく完全に保っていたからか」
「そういうことにございます」
帳場の奥で、囲炉裏の炭がぱちりと鳴った。
惣右衛門は、そこでようやく己の背筋に冷たい氷柱が突き立てられるような戦慄を感じた。
武田の商いが安いのではない。違う。
武田は、天下の相場を強引に安定させている。
それが何よりも恐ろしかった。
乱世の相場とは、本来荒れるものだ。
戦が起これば乱れ、民が飢えれば跳ね上がり、道が死ねば完全に崩れる。だからこそ、その乱高下を読む者だけが莫大な利を儲ける。それが戦国の商人という生き物だった。
だが武田は、その乱世の商いの前提そのものを、根本から完全に壊し始めている。
「……おかしい」
惣右衛門は再び、誰にともなく呟いた。
「ええ。だから皆、口を揃えてそう言います」
宗兵衛は力なく苦笑した。
「だがな、旦那。もっとおかしいことがあるのです」
「何だ」
「武田は、織田と徳川を破る大勝を得たというのに、一切騒いでねえ」
惣右衛門は弾かれたように顔を上げた。
「普通、あれだけの大勝をした国は、浮かれて狂喜乱舞するものです」
宗兵衛は言う。
「兵は恩賞を求めて騒ぎ、町は勝利の熱に浮かされる。だから、勝った国であっても必ず物の流れが一時的に乱れる」
だが、武田は全く違った。
「何も変わらねえのです」
「戦の前と全く同じ速度で、同じように荷が静かに流れてる」
宗兵衛の顔には、商人特有の理詰めの計算が行き着いた先にある、底知れぬ恐怖が浮かんでいた。
「まるで……あの巨大な戦そのものが、最初から勘定帳の数字の中に組み込まれていたみてえなんだ」
惣右衛門は、背筋が粟立つのを感じて返事ができなかった。
その時、店の表から若い手代が慌ただしく駆け込んできた。
「旦那。伊勢の油問屋から、急ぎの書状が届きましてございます」
受け取った書状を急いで開き、惣右衛門は文面に目を走らせ、そして動きを止めた。
油の追加注文の依頼。しかも、その末尾にはこう書き添えられていた。
『荷の差配は、すべて武田筋へ回されたし』
惣右衛門はゆっくりと、震える手で書状を畳んだ。
「……始まったな」
「何がでございますか」
「天下の流れが、完全に変わる」
宗兵衛は黙った。
惣右衛門は立ち上がり、店の格子窓から外を見た。
京の町は変わらない。人が歩き、荷が流れ、寺の鐘が鳴る。だが、その見えぬ大地の底では、確実に、そして取り返しのつかないほどの何かが変わり始めていた。
「相場ってのはな」
惣右衛門はぽつりと言った。
「ただの銭儲けの博打じゃねえ」
宗兵衛が怪訝そうに目を向ける。
「塩が止まれば人が死ぬ。炭が止まれば冬を越せん。油が止まれば夜が完全に闇に消える」
惣右衛門の視線は、遠く東、甲斐の山々を向いていた。
「つまり、相場の安定を完全に握るってことは、この日ノ本の民の喉元を、武力ではなく真綿で完全に握り潰すってことだ」
店の空気が、凍りついたように静まり返る。
数日後。
京や堺の商人たちの間では、まるで示し合わせたかのように、自然と同じ言葉が密語のように使われ始めた。
「武田筋で運べ」
誰が権力で命じたわけでもない。武田が兵を差し向けて支配したわけでもない。
ただ、その道を通る方が損が圧倒的に少なかった。その道の方が命が安全だった。その道の方が、確実に儲かった。
だから皆、水が低い方へ流れるように、自ら進んでその流れへと身を投じていく。
油問屋が武田筋へ荷を回した。
炭問屋が武田筋へ完全に切り替えた。
紙の仲買が重い銭を捨て、武田手形を信用して受け取り始めた。
薬種商が、中継ぎを飛ばして駿河の直轄問屋と直に繋がり始めた。
武力で脅して命じた者は誰もいない。
ただ絶対的な「利」と「安全」が、天下の血流を強引に書き換えていった。
惣右衛門は、夜更けの帳場で独り、冷え切った指先で算盤を弾いていた。
ぱちり。ぱちり。
乾いた音が静かな店へ響く。
道中の損耗。遅延。関銭。荷駄賃。夜盗の被害。
すべての不確定な数字を帳簿から抜き取り、入れ直す。そして最後に、武田筋を通した場合の勘定を見る。
手元に残る利益が、これまでの商いとは完全に一段違っていた。
惣右衛門は、算盤からゆっくりと手を離した。
「……そういうことか。戦をせずに天下を獲るとは」
その畏怖に満ちた呟きだけが、静かな帳場に重く落ちた。
外では、京の夜の深まりを告げる鐘が遠く鳴っている。
だが東の国では今もなお、武田勝頼の敷いた巨大な理の動脈の中を、止まることなく人と富の荷駄が流れ続けていた。




