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序章 中編

月と民家の生活灯が照らす住宅地の細道を、慣れた足取りで歩く。

橿原神宮西口駅から歩いて15分、並ぶ瓦屋根の古式住宅の1つ。外から見れば、それが政府管轄下の物件だなどとは露ほども思わないだろう屋敷が橿原支部、白河らの職場であった。


失くすと大変な事になる鍵をポケットから取り出し、ドアチャイムを響かせながら玄関に入る。


「お疲れ様です」


居間があるべきところ、つまり玄関を抜けたすぐ先の部屋が、支部在籍の7人分のデスクの並ぶ職場かくあるべしと言わんばかりの事務所となっている。

畳の似合う建物外装に反し、床はフローリング仕立てでエアコンは業務用、電気も水銀灯。浮わついたインテリアなどは一切ない──強いて挙げれば誰かが持ってきたピンクカラーの置き型消臭剤が該当するだろうか?


左にはお手洗いや風呂場、右には2階仮眠室に続く階段がある間取りはまるまる民家のそれであり、配属初日は戸惑いを隠せなかったのが懐かしい。


「ああ白河さん。お戻りになられたんですね、お疲れ様です」

挨拶しながら事務所のドアを開けた白河を、出動の時に電話を掛けてきた源(みなもと) 清治(きよはる)が出迎える。

「はあ、大晦日だってのに……なんて、源さんには言えないですね」

目の前で当然のように業務にあたっている彼を前に、毒気がやるせなさへと変わっていく。

「私はもう、こういうものだと割り切れる分いくらか楽なものですよ。予定にない勤務が急に入る方がしんどいでしょう。……そうだ、卜部さんもまだのようですし、お茶でもいかがです?」

「……ありがとうございます、いただきます」

白河にとって職場の大先輩にあたる彼は何かと世話焼きなところがあり、お堅い上司が不在の時はちょくちょく甘えさせて貰っているのだった。

齢40を過ぎながら人当たりが良く、気遣いができ、人望も厚く、仕事も出来る彼は支部の全ての人間の尊敬の的だ。


暫くすると、紙コップに注がれた2杯のお茶に、ぬれ煎餅に栗饅頭に羊羮まで。和菓子をこんもりとお盆に載せて整然とした白河のデスクに近づいてきた。

「あっ、すみません、何から何まで」

立ち上がってお盆ごと受けとると、自分のパソコンの横にそのまま置く。

「いえいえ、好きでやってることですから。それにちょっと、今日の出動について聞いておきたくて」

そう言うと、源は隣の卜部の椅子に腰掛けた。

「ああ、卜部さんからも話しておくように言われてたところです。どこまで聞いてます?」

「うーん、難しいな。一旦白河さんから全部聞かせてください」

「分かりました。えーっと……」


事の経緯──喚霊術によって悪霊が生みだされたこと、そしてクダンが現れたことの流れをかいつまんで説明する。


「なるほど。……やっぱり卜部さんからも聞いたとおり、ややこしい事が起きてたみたいですね」

顎の下を擦りながら考え込む様子の源。

「ややこしい、ですか。その心は?」

「龍脈観測の上では、自然発生が1件だけあったように見えていたんです。その後は恐らく太占、巫さんの神降ろしがあるまでは、何も」

「え、大事(おおごと)じゃないですか」


それは大問題だった。観測員が察知した霊の発生を各社や即応部隊に報せ、然るべき対応をとるというのが霊的保安課(じぶんら)の仕事だ。最初の目となる龍脈観測は霊が人に被害を及ぼさないための防衛の要であるため、そこにはひとつの取りこぼしもあってはならない。


「ええ。どのみち人為的事案なので、各所(ウエ)には報告するんですが。……今日は各社にも報告しておくべきでしょう」

「……畿内全社にですか?」

「無論、今日は向こうも忙しいハズですから、メールで送りますがね。……しかし、誰にも被害なく防げたのは本当に幸運でした。たまたま同じ場所でやってくれていなければ、見過ごしていたに違いありませんから」


「む。偶々、ですか」


源の見解は白河のそれと異なるようだった。


「……そもそも今日のは自然発生だったんですかね?自分たちからすれば、ここいら一帯で悪霊が現れることに疑問があるんですが」


卜部が前例のないことだと言っていたのを思い出しながら、議論を持ちかける。


「確かに珍しいことではありましたね。ただそれに関しては、現れたのがクダンだったということで説明できるんじゃないでしょうか。予言獣は悪性の霊ではありませんから、どこに現れても不思議はないかと」


「ふむ。そういうものですか」


「もっとも霊的な事情(そちら)は専門外なので、私としては何とも言えないんですが。……でも、実際に悪霊が生み出されたのがお二人が現着してからのことだとすれば、私が対応をお願いしたのはやはりクダンの方だったことになります。その出現時の龍脈異常がかなり大きな動きだったので、悪霊の方は私も把握出来なかった、ということになりますかね」


「……とすると、例の女性はいわば目眩ましとしてクダンを利用した、という線もあり得るわけですか」

卜部の不在は白河の語りを進めた。

「おや。全てはその女性による陰謀だったと?」

持論を展開する白河に、源が目を細めて言う。


「我々の見解を併せれば、ですよ。クダンの発生が起こったのが初め。‘偶然’その場所には謎の女がいて、悪霊の喚霊をしたのが次。実際にクダンが姿を現したのが最後だということになります。出来すぎた話では?」


「確かに。喚霊術事案なんて、そうあることではないですからね」


頷くでもなく続ける。


「女が二度喚霊術を行ったと考えれば、そんな偶然に説明がつくと思うんです。一度目にクダンを、二度目に悪霊を。……思えば、あれが祈年祭の進行中の出来事だというのもきな臭い。各社の霊的防衛要員が出払った隙をみての試みだったのかも知れません」


「ふむ。だとして、その動機はどうお考えで?」


「……まあ、そこなんですよね~」


大きく息をつき、個包装の和菓子を開けながらお茶を口にする。事実上の降参宣言だ。


「動機についてはサッパリ、全然分かりません。犯人目線で言いますけど、どんな目的であったとしても、本当にあれだけの霊(クダン)を喚べるだけの力があるならもっと色々出来たはずですし、自爆紛いの懐胎型喚霊術(あんなやりかた)なんて選ばないと思うんですよね」


背もたれに体重を預け、源に陰陽師としての私見を述べる。


「……我々の言う自然発生というのは飽くまでも、龍脈の動きが‘そのように見えた’というだけですから、必ずそうだと言い切れるものではありません。もし心得あるものが巧妙に見せかければ、我々を欺くことも可能でしょう」


源は静かに続けた。


「ただし前提として、普通に霊を喚べば国家の秘密組織に捕捉されてしまう──なんてことを知っている必要があるわけです。これはオカルト好きとか、そんなレベルでは決して辿り着けない領域ですよ。神職関係者でも、特に霊的防衛に関わる仕事に就いて初めて得られる情報ですから。……なので、もし白河さんの予想が正しいなら、第一に疑うのは身内になりますね」


「あー……確かにそうですよね。ちょっと、考えすぎでしたか」

持論について深刻に捉えた源に、白河は少し気まずさを覚える。口に任せて言ってみたものの、それがどういう意味を持つかについては思考の外にあったのだ。


「いいえ、考えすぎだったかどうかは分かりませんよ。ただ、それを尋ねるべき相手はもう居ません。彼女にどんな企みがあったにせよ、あるいは無かったにせよ。あなたは仕事を果たした。人々の安穏を守ったという結果だけは真実だと思います」


最後まで白河に対しての明確な否定は口にしないままに、源が話を纏める。


「……ありがとうございます」

「こちらこそ。……では、私は仕事に戻るとしますね」

「了解です。自分もそうします」


そうして白河にとっては初めて、新年を職場で迎えることになったのだった。


⭐ ⭐


「それにしても卜部さん、遅すぎません?」

白河の声と共に、新年の挨拶を交わしてからずっとパソコンと向き合っていた源が伸びをしながら壁掛け時計を確認する。

「確かに、合同祭はとっくに終わってる筈ですが。……こちらに連絡は来てないですね」

時刻は深夜1時を過ぎた頃だ。白河がここに戻ってからもう3時間も経つことになる。

「自分の方にも来てないです。もうすぐ今日の仕事終わりそうなんですけど、これ先に帰っていいんですかね?」

「どうなんでしょう。電話してみましょうか?」

「いや、ごめんなさい。自分で掛けてみます」

気が利きすぎるのも問題だ、などと思いながら携帯を開く。


少し気力を振り絞り、卜部の番号に掛ける。


が。


「繋がりませんでした。圏外か、切れてるか」

返ってきたのは無機質な電子音だった。

「……白河さんは何も聞いてないんですよね?」

源が怪訝な顔をする。

「残念ながら。はあ、何だろう、二次会とかですかね」

対し、諦めたようなため息をつく白河。

「二次会で圏外なんてことないでしょう。バッテリーも車に充電器があるはずですし……少し心配ですね、ちょっと色々当たってみます」



⭐ ⭐


会場から橿原支部まで、車でほんの15分程度の帰路を辿る途中のことだった。大通りの信号待ちの合間、着信が入る。

「はい、卜部です」

「ああ橿原署の山本ですけど。さっきの遺体の身元が分かったもんで、来ていただけます?」


出動の後処理──遺体の始末は警察に任せていた。無論警察の中でも特殊な、保安課(われわれ)と繋がりのある霊的事案に理解のあるものたちが担当し、大抵の遺体は秘密裏に行方不明者リスト入りして決着するのだが。


今回のように人為的事案、その首謀者であったとなれば話は変わる。事件性がある以上、捜査が必要となるわけだ。


「随分と……早かったですね。分かりました、ここからだと10分程で着きます」

「すみませんがね。ちょっと、お願いしますわ」

淡泊な電話が切れると、適当な所でUターンを挟み、夜の公道を常識的な速度で走り抜けた。


署の前には山本が立っており、そのまま駐車場所の案内をうける。

「すみません、寒いのにわざわざ出てきて頂いて」

これが初めてのことではないが、礼儀としてそんな言葉を口にする。

「勝手に停められちゃ、いらん騒ぎになりますから」

返ってくるのが大抵、失礼な物言いだというのも分かっていてのことだった。


そのまま署の階段を上り、奥まった部屋の前で山本と別れる。彼は精々ここまでの人間、秘密組織同士を繋ぐ役回りに過ぎない。

人払いは済んでおり、周囲は静寂に包まれていた。ドアノブを捻る音が廊下に響きわたる。


原則、署内に個室と呼べる部屋は署長室しかない。だが開いた扉の先には、特注品だろうペイズリー模様の柔らかそうなソファが設けられていた。警察業務にこんなものが必要あるはずもなく、市民が存在を知れば怒り狂うであろうそれは、その周囲──端に寄せられたデスクたちが目に入っても余りあるほど、賓客を迎えるに相応しい威容を湛えている。


そしてそこには、よく知った女が腰掛けていた。


「久し振りだね、卜部」

「……やけに仕事が早いと思えば、橘か」

警視庁公安部──続く肩書きは卜部も知らない。橘(たちばな) 御幸(みさき)、地方警察署の一室にはおよそ見合わないスーパーエリートだ。

「またバッジが派手になったようだが」

纏う制服の胸元を飾る階級章に、金色の占める割合が増えていることを指摘する。

「おや、私の胸を凝視するのは警官らに特有の習性だと思っていたんだけれど」

「そんなに目立つものを着けていればな」

「それは……まあいい、このバッジの輝きのおかげで捜査一課から変死体事件を預かれるわけだ。権力があるというのは気分がいいものだな、卜部課長?」

「暫く見ない内に、天上人仕草も板に付いたか。……それで?用件があって呼びつけたんだろう」


橘はその所属が示すとおり、橿原署に常駐しているような身分のものではない。遺体の引渡し時に彼女の姿はなかったことから、署の部下にあたるものたちからの報告を受けて出向いてきたのだと見える。

そして山本にせよ橿原署の協力者たちにせよ、例の遺体の身元が分かったくらいのことでわざわざ卜部を呼ぶようなことはしない。橘の指示があったと考えるのが妥当だった。


「そう事を急かずに、さ。折角の再会なんだ、ほら座りなよ」

ソファの隣を手で示す橘を無視し、部屋の隅の誰かのデスクを選んで腰を下ろす。

「悪いが、今日は仕事が多くてな」

「……相変わらず、つれないな。じゃ仕方ない、その仕事の話をしようか」

やや面白くなさげに、橘は膝に肘をついて言った。


「仕事の話?」

「と言っても、語るのは君の方だ。……今日のこと、聞かせて貰うよ」

「……なんだ、ここは取調室か?」

「はは、じゃあ調書を取ろうか、被疑者さん。『猟奇殺人、炎の股裂き男!』……明日の朝刊の見出しは決まりだね」

そのくだらない冗談の中には、死体の状況についての事実が含まれていた。

「まさか、殺人の線で追ってるんじゃないだろうな」

「おいおい。焼け死んだのか、死んだ後に焼かれたのかくらいは一目で分かるとも。術の行使の跡もあったことだ、おおかたの流れは想像がつく」

「ああ、それを聞いて一安心だ」


「私が君をしょっぴくとすれば、その殺人的な説明のなさについてだね。君、何も言わずに死体だけ寄越したそうじゃないか。おかげでかわいい部下たちがてんやわんやのきりきり舞いさ」

卜部を詰(なじ)る橘の声はとても愉しげだった。それが部下の扱いに配慮を求めての言葉でないことは明白だ。

「……急いでいたんだ。祭を中座していたものでな」


「おや、宮内庁ではそれが報連相を欠く理由になるのかい?」


「…………すまなかった」

卜部は橘の性格をよく知っていた。求めている言葉が出るまでこの追及は終わらないのだ。ある意味で警察官は天職と言えようか。もっとも、彼女が一般的な事件に関わることはないのだが。


「よし、罪も認めたことだ、取調べゴッコはこれでお仕舞い。本題に移ろう。祭──近畿合同祈年祭、だったかな。それについては後で聞く。先に彼女の顛末の詳細からだ」

脚を組み替え、少しトーンダウンした語りが始まる。ゴッコ遊びに付き合わされた卜部の心中は穏やかではなかったが、身から出た錆だ。本題が始まるという彼女の言葉もあり、大人としての切り替えを余儀なくされていた。

「……おおかたの流れは想像がつくと言っていたが、何が知りたいんだ?恐らくあれについての事実はお前の想像の通りだぞ」

「事実確認をしたいのはもちろんだが、何より聞きたいのは君の見解だよ、卜部。宮内庁橿原支部の霊的保安課長として、君は‘本件’をどう見ている?」


試している


「本件、か。……まあいいこの際だ、今日あったことの全てを聞かせてやる。祭の話も、予言の話も交えてな。長くなるぞ」

「その必要がある、ということかな。いいよ、じゃあ君の気が済むまで話すがいいさ」


橘のいう本件というのが謎の女の喚霊術事案のことを指しているのは卜部も理解していたが、彼はそれを他と繋がりのある出来事だとみていた。

クダンだと推測される霊の予言と山城の予言。破られた聖域の庇護、ここ2年の凶事の訪れを示唆する占い。そして喚霊術、人為的事案。


今日の出来事はほどなくして来る大厄災の先触れなのだと、卜部は橘に語る。


「……ふむ。先触れ、か」

「クダンの予言の後半節と巫の予言は内容が似ている。同じ出来事を指し示していると考えていいだろう」

「‘人の姿をした鬼’によって災厄が引き起こされる、と読めるね」

予言の内容が記された卜部のメモ帳を読みながら、橘が興味深そうに言う。

「我々の仕事になるか、そちらの仕事になるか。今の情報では判断しかねるところだが」

同じ国家機関、大衆の安全を脅威から守るという目的を持った組織でも、警察庁と宮内庁とでは領分が異なる。卜部らが霊の類いに対して執行処置を行う組織であるのに対し、同じ霊的事案でも生きた人間が引き起こした事件を調べあげ、拘束するなどの処置を行うのが前者、橘らの職務だ。


「……なるほど。まあ概ね分かったよ。その必死の長文に免じて、及第点をつけてあげようか。本当なら0点のところをね」

「ほう?」

橘は何かを掴んでいた。勿体ぶる様子を見せる彼女に、卜部は相槌で続きを促す。


「君が寄越してきた女の件、あれはただの喚霊術じゃない。‘呪詛’によるものだ」


「……なんだと?」


呪詛。他者に対して行使する術の中でも、特に被術者に悪影響の甚大であるものを指していうものだ。広く知られているものとして蠱毒や犬神の呪いなどがあるが、その多くは江戸の昔に禁術として扱われ、失伝してしまっている。現代に厳密な用法が残っているものは卜部の知る限り、2、3例しか存在しない。


「君らの適切な対処のお陰で酷く焼け焦げていたが、術の痕跡が残っていたんだ。……見た時は驚いたよ、千年の歴史を誇る茶色くボロけた巻物にさえ既に失われた術としてしか載っていないようなものが、この平成の時代に行われたっていうんだから」


「待ってくれ。……確かなのか?」

「ああ確かだとも。私の個人的に所有する資料をエビデンスとして認めていただけるならば、ね」


飄々とした口振りは変わらずも、声色がその真剣さを語っていた。


「……失われた術なのに、どうやってそれと判断した」

「術の特徴が載っていても、行使の方法が分からなければそれは失伝したと言えるだろう?鎌倉時代の刀と似たようなものさ」

「……」

卜部にとって橘は信頼できる人間だ。その職責や立場もさることながら、何よりも師を同じくする兄弟弟子であることが彼女に対する接し方を決定付ける一因になっていた。彼にしては珍しいほどに饒舌──職務上知り得た情報の全てを共有してしまうことなど彼女の他に対してはあり得ないのだが、それを僅かにも躊躇させないほどには彼らは互いに信用し合っている。


しかしそんな関係性にあってさえ、鵜呑みに出来るような話ではない。


「大事の先触れ、という君の結論は正しいだろう。他者を喚霊の生け贄に出来るような術の使い手が今も野放しになっているんだ。なんとか早急に引っ立てなければ、我が国一億二千万の民の安寧は守られない。……まああんなもの、そう易々と連発できるものではないのだろうがね」

「……信じろと?」

「もし君で駄目なら、相談できる相手はもういないな。私がこの身命を賭して……頑張るさ。たとえ、どんな手段を弄してでも」

「……」

「とは言え、手段を選んでいられないのは今にしても同じこと。だから、今日君を呼んだのはね、卜部。……君に、‘共犯者’になって欲しかったからさ」


「一体、何をしでかすつもりだ」


「あの死体の主を喚霊し、尋問するんだ」


それは術師として禁忌であり、霊に関わる公人として違法であった。そのとんでもない提案に、卜部は顔の険を更に深くする。


橘は自身の知ることを土台に、その覚悟を決めていた。もし彼女の見識、予見のただ1つにでも誤りが含まれていれば。いや、誤りが含まれていなかったとしても、この行為が誰か他の者の耳に入れば、即座に罷免どころか刑務所行きは間違いない。それほどに危ない橋を渡ろうというのだ。


「……正気か?」

なお己の口をついて出た愚問に、その不甲斐なさに、卜部は嫌悪を覚える。


「……問うているのは私の方だよ、卜部課長。さあ、選んでくれたまえ」



⭐ ⭐


最後に残った書類仕事──電子符の使用経緯の報告書を書き終えたタイミングで、白河の携帯電話がメッセージの受信を知らせる。


卜部からの報せかと思えば、送り主には和泉とあった。帰りの電車で送っていたメールへの返信だ。年相応に機能を使いこなしているらしく、デコメで白河の送った半ば事務的な本文を咎めるような内容が記されていた。

「卜部さんですか?」

「いや、失礼。私的なものでした」

源から当然の追及が来るのをいなしつつ、一旦返答を保留することにして携帯を畳む。

「ふーむ。祭に参加していた方々の中に、卜部さんの行方に心当たりがある人は居ないみたいですし。ちょくちょく掛けてみてるんですが、相変わらず電源が切れているみたいで……いよいよもって心配ですね」

彼の身を案じ続ける源の様子に、最初は自分が帰れるのかとばかり考えていた白河も、少しその気になっていた。

「出動はあり得ないですもんね?」

「あり得ないです。龍脈の動きはずっと追ってますし、そもそも卜部さん、装備を持っていないでしょう」

借りた装備は祭の会場に戻った時に返していたのだ。符を作るための紙と筆さえあればそれなりに戦えるのが陰陽師ではあるものの、なにぶん国家機関に所属する身だ。事後処理が煩雑極まるため、形式に基づかないやり方は取らない事になっていた。

「確かに。……祭に参加した人は誰も知らない、か」

「一人でほっつき歩いてる、なんて事はないと思います。車で事故にあったとしても、連絡くらいは寄越すでしょうし」

「そうですね、連絡がないってのもキモになってるでしょう。卜部さんを大人として信頼するのであれば、恐らく何かしら連絡を取れない状況にある」

推理大会の様相を呈してきた橿原支部。

「連絡が取れない状況。大きな事故の被害者側で、救急車で運ばれているとか?」

「……この時間まで病院から連絡ひとつないなら違うんじゃないかと思います」

大晦日の日、各社の都合もあるだろうし、祭の閉会はそんなに遅くなかったはず。挨拶回りなどがあったとしても、11時中頃には会場を出ていたのではないだろうか。

「なんか色々考えてますけど、普通に家に帰って寝てるとかだったらどうします?」

「ウチの公用車でですか?まあその場合はクビにして貰いますけど」

珍しく源が冗談を言ったのかと思えば、その目が笑っていないことに気付き、何故か白河の背筋を冷や汗が伝うことになる。

「……そう言えば今日は橿原支部(こっち)から向かったんでしたか、卜部さんは」

壁に掛けられたキーケースに、卜部のよく使う車の鍵が無いのを改めて確認する。

休みというべきか、合同祭まで家にいた白河と違って卜部は普通に出勤──支部で業務をこなしていたのだ。

流石にそのまま帰宅している訳はない、はず。


「車……スピード違反でパクられたとか」

あまりにその行方が分からないことで、だんだん予想も投げやりになっていく。

「白河さん、それが公人の言葉遣いですか?」

「はい。すみません」

「…………警察、か」

何かを閃いたように源が呟いた。

「この時間だと、ヨソに連絡は入れにくいですね。……ん?」

おもむろにパソコンを触り始めた源が、何かに気付いたような声をあげる。

「どうしました?」


「橿原署に、術の形跡……ですかね。拡大しないと分からなかったくらい小さなものですが。……これ、もしかすると、卜部さんがやったのかもしれません」


⭐ ⭐


準備は入念に行われていた。気配消しの術、人払いの術。違法調査を敢行する彼らは、その崇高な目的を果たすまでお縄にかかる訳にはいかない。


「幸い、今日の霊安室には例の女しかいない。影響が他に及ぶ事はないはずだよ」

「そうなら良いがな」


霊安室の鍵を開け、居る筈のない誰かがそこに居ない事を確認すると、2人は中に入り、音に配慮しながら門扉を閉めた。


「ここまで来れば一先ず安心だね」

許可なくこの部屋に入れる人間など、署内においては限られすぎている。施錠確認の見回りも、対策──彼らの術によって隔絶されたこの部屋は、力なき者たちにはそれと意識できなくなるようになっていた。

「ずっと持っていたのか、その鍵は」

「死体(これ)が司法解剖に回されるのは確実だからね。手の届く所にある内にやる予定だったから、預かっておいたのさ」

橘が何でもない家電を開けるような手付きで、冷蔵された薄黒い寝袋のような物体が載った台を引き出す。それは納体袋、警察預かりの死体が入る袋だった。

「頭の方を持ってくれ」

「ああ」

協力して袋を霊安室の中央にある台へ安置する。


「……さ、再びのご対面だ」


どちらがと言わずに始めた少しばかりの黙祷を終え、

ファスナーを開け始めようとする橘を、卜部が静かに制止する。

「俺がやろう。お前はあまり触れるな」

彼女の話にのることにした後、少しの協議の末、喚霊術は卜部が行うことになっていた。橘の方が替えの効かない立場にあるから、という理由だ。

「……開けるのは顔まででいい」

「無論だ」

衣服などという気の効いたものは、ここの骸には用意されていない。今これから蹂躙されようとしている彼女の尊厳も、不要に冒されるべきではない。



袋を首もとまで開く。


もともと部屋に満ちていた特有の臭気が一段と強くなり、わずかに顔をしかめる。


顔を露出させる。


その髪は焼け縮れ、眼は白目をむき、大きく開いた口は叫び声をあげた状態のまま硬直していた。


目に映る全てが、彼女の死の苦悶を物語っている。


卜部は懸命に無心を貫き、袋を枕のようにして頭の下に敷く。


「大丈夫かな。少し参っているように見えるけれど」

「……差し支えない」


強がりですらない言葉だった。


「そう」

「……じゃあ、始めるぞ」


橘が頷きを返したのを見て、教わった禁術を行使する。帝国時代の陸軍の資料に遺されていたというそれは元々の術の使い手が軍人であったという事もあり、複雑な手間を要しないものだった。


紋様を描いた符を前に、神へ祈りを捧げる。


「──十種瑞寶ヲ鋳顕給フ其ノ御力以テ、此処ニ在ル死シ人ノ御霊、玉由良ニ黄泉返シ給へト、畏ミ畏ミ白ス」


「……!」



死者が甦るということほど、グロテスクなものごとは存在しない。例えどれほど惜しまれた人であっても、愛していた人であっても。別れを済ませれば、その後は触れてはならないものだ。


二人はよく、それを思い知ることになる。


──始めに目が動いた。散大していた瞳が、差し込む光を眩しそうに径を縮めながらぐるりと一周し、少しして目蓋が落ちる。


口は凝り固まった顎の筋肉を解すように小刻みに、忙しなく動かされ、やがて酸素を求める魚のように大きく動くようになると、一文字に閉じられる。


そして体液が流れ出ていた鼻が、今は音を立てながら彼女の呼吸の周期を知らせている。


彼女が何か彼らに害を為したわけではないのに、途方もない圧迫感が二人を襲っていた。その光景は、禁忌を犯したという事を突きつけて余りあるものだ。


そのおぞましさに、暫く二人は何も言えないでいた。



「…………」



「眠って、いるようだな」

沈黙を破ったのは卜部の方だ。

「……そう、だね」

提案の主は、自身が先程指摘していたよりよほど参っていた。無理もないことだろう、責は彼女にあるのだから。

「ねえ、この音……」

「……あまり考えるな」

自分自身にも言い聞かせるように、卜部が続ける。


頭の変化が終わった後、彼女の首から下、袋に隠されている辺りからずっと異音が鳴っていた。例えるなら、粘りけのある液体で洗濯機を回しているような、そんな音だ。そこで行われている何事かを直視してしまえば、わずかに保てている正気も吹き飛んでしまうだろう。


「……軍人というのは凄いな。私ならこんなこと、二度とは出来ないぞ」

ぽつりと漏らした橘の声は、ひどく震えていた。

「……少し外すか?」

「今は、一人になる方が嫌だ」

「……そうだな、俺もだ。提案しておいて何だが、ここに居てくれ」

「……はは、何だそれ」

ちょっとした卜部の言葉が、ほんの少しだけ二人の心を暖めた。




「尋問可能な時間は?」

女の身体が立てていた異音がなくなり、髪の焼け跡を除いては本当にただ眠っているだけに見えるようになっていた。

二人の精神状態も一度は大きく揺らいだにせよ、彼女の見た目が生きた人間そのものになったこと、そして元より覚悟を決めていたこともあり、今はどうにか切り替えられている。


これだけの事をしたからには、確たる情報を掴まずに帰れない。


「最長で15分、最短で4分弱の記録だったはず。悠長はしていられないよ」

「なら質問攻めになるか。素直に答えてくれればいいがな」

「話を聞くのは私がやるよ。専門じゃないが、仮にも警察(プロ)だからね。君は何か不測の事態に備えておいてくれ」



「……ぅう…………」

測ったかのようなタイミングで、女が呻き声をあげ、再びその目をゆっくりと開いた。


「……これ……何が、どうなって……?」

そのまま袋に入ったまま身体を起こす女の姿は、つい先ほどまで死者だったものだとは到底思えないほどに万全の調子に見えた。

「おはよう。君は古賀(こが) 絣(かすり)、で間違いないね?」

「そう、です。……えっと、ここは?」

返ってきた明瞭な答えに、卜部の心がまたざわつく。あの時出動対応した際とは全く違う側面がそこに見えたからだ。白河にヤク中とまで評された彼女の様子がすべて呪いがもたらしたものだったとすれば、彼女はただ被害者であったのかも知れない。


「警察署だ。そしてこれ以降は君の質問には答えない、我々の質問にだけ答えてくれ。いいね?」


橘は生前の彼女の振る舞いを知らなかった。卜部の話は聞いていたものの、彼も事細かに言い表した訳ではなく、故にこの対応を可能にしていた。

常人の知り得ない経緯で、常人の知り得ない場所にいる彼女の疑念を晴らしてやる時間はないのだと言わんばかりに話を進める。


「鹿児島県在住の24歳、職業はキャディのパートタイマー。実家も向こうにあるよね。そんな君が、こんな大晦日の日に奈良にまで何をしに来たのかな?」


「な、何で……」


「あのね、いいかい?……君は!!警察署で!!取り調べを受けているんだ!!」


それまでいつもの静かな調子で話していた橘が、急に声を荒げる。

「ひっ……」

萎縮しきった悲鳴。

その鋭い声に卜部も思わず橘を窺うも、彼女の目付きは冷静そのものだった。どうやらそういうやり口があるらしい。


「……他に質問はあるかな?」

すぐに元の口調に戻る橘を見て、先程の怒声がやはり演技だったことを確信する。

「……あ、ありま、せ……」

だが、芝居でも十分に効果はあったようだ。

「じゃあさっさと答えてくれ。奈良に何をしに来た?」

「それは……ぅう……思い、出せ、ないです」

「それは残念だな。君が思い出してくれるまでこれはずっと終わらないんだが」

「そんな……うぅ……」

古賀というらしい女が、何か助けを求めるような視線を辺りに向ける。


「お前に呪いを掛けた者がいる。それについて何か話せることはないか?」


助け船のつもりはなかったが、自分で思っていたよりも優しい言葉遣いになる卜部。


「……そんな事……知らないです……」


「‘そんな事’?」


そしてその言葉に、橘が大仰に食いついた。


「妙な言い回しをしたね。流石に今のは看過できないな。だって、本当に何も知らないなら、普通は『何を言っているんですか』と返すところだ。‘そんな事’なんて言葉は、問われている事に理解があって初めて出てくるものさ」


矢継ぎ早に橘が続ける。

「私たちが握っている情報はそれだけじゃない。もう全部割れてるんだよ。その……いい加減か弱い女の振りはやめてくれないかな。正直、見ていてキツいんだ、24歳のその仕草は」



「……はあ?言いがかりも大概(てげ)に……」



事実、それは言いがかりだったのだろう。

しかし、橘の言葉の何かが彼女を追い詰めたようだ。口許を歪め眉を吊り上げる姿は、まさに馬脚をあらわしたといったものだった。


「おや。おやおや。お化粧の下はがさつな田舎者(ジゴロ)らしいね」

「だいが田舎者じゃ!」

「お里の言葉じゃ伝わらないよ、古賀さん。分かるように話して欲しいな」


「知らない振りをした以上、お前は呪いを受けた事について知っていた訳だ。そして、呪いの刻限と共にはるばる奈良まで来た。……到底お前の立案とは思えない。誰の差し金だ?」

脱線しかけている二人の会話に割り込む形で尋問を続ようとする。


「ハ、そげん事、あたいが言うわけなかじゃろ」

先程までの態度はどこへやら、顎を引き上目遣いに卜部を睨み付ける古賀。

だが彼女のその迂闊な反応で、彼は仮説への確信を得る。

「ふむ、では質問を変えよう。……九州の地で何が起こっている?」

「じゃっで、話すわけがなかち言うちょっじゃろうが」

どんどん訛りが酷くなる彼女は、もう取り繕う気もないようだった。

「……話せない、話すわけがないというのは、そこに秘密があるんだと言っているのと同じだということは分かるか?」

「おい卜部、ネタバラシにしては早いだろう」

「あぁ!?わいら今に見ていろ、‘土蜘蛛(ツチグモ)’の──ぁ?」


突然、彼女は糸が切れたように項垂れてしまう。


その様子に、術の時間切れが訪れたのだろうと思い、橘に話しかけようとした瞬間のことだった。


「喋り過ぎだ」


空中の一点を凝視しながら淡々と、操り人形の如く、古賀が喋り始める。その言葉は、明らかに古賀自身に向けられていた。


「……誰だ?」


その豹変ぶりは、今度こそ演技などではないように思えた。

「……霊?いや馬鹿な、ここは……」

橘も彼女の思考を進め、呟きを漏らす。


「貴様が術者か。いやしくも皇臣たる陰陽師が、斯様な忌術を弄するとは」

彼の者は目を動かさないまま、しかし確かに卜部を見据えて言った。

「そいつに呪いを掛けたのはお前だな?」


「……そうとも。そして貴様もまた呪われるのだ。粗末な術で、死に触れた咎によってな」


「なに……?」


『其ハ汝ノ知ル禍津罪(マガツツミ) 誘祇神(イザナギガミ)黄泉(ヨモツ)ニ至レルニ──』


口籠るように何事かを唱え始める古賀。


「卜部、術を解け──!」


橘が絶叫に近い命令を言い終わらない内に、卜部は四肢に痺れるような痛みを感じた。


『蒙(カカフ)リ給フ黄泉穢(ヨモツケガレ)ノ 此ガ過チ犯シタル身ニ 置カレ給フヲ!』


「ぐぅあぁっ……!」

瞬く間に痺れは全身に広がり、その場に蹲ってしまう。それと同時に古賀だった者の身体がまたおぞましい変化と共に、元あった遺体の姿へと様変わりしていく。

「……刻限か。間の悪い」

ちょうど喚霊の禁術が解けたのだ。急速に乾きゆく身体の主が忌々しげに吐き捨てた。


卜部は苦しみ悶える中、特に痛みの走る己が両の手を目にする。そこには膿んだ水疱の数々が広がっており、指先から手首にかけてまでが赤黒く変色してしまっていた。

同様の痛みは両足にも来ている。恐らくそちらも見るに堪えないことになっていることだろう。


「王の末裔に仕えし者らよ。我らが悲願、阻めるものならば──」

阻むがいい。そう言い残して、謎の存在は古賀の身体を離れていった。


「卜部!」

「触るな!!死穢だ、伝染(うつ)るぞ!」

一難が過ぎ去り、駆け寄ってきた橘を叫び飛ばす。

「見れば分かる!仰向けになって脱力しろ!」

「くっ、ぐぅおっ……」

肩から転がり込むように仰向けになると、彼女が懐から紙とペンを取り出すのが映った。


左手で宙吊りにした紙に筆ペンを走らせ、即席の符を作成する橘。その必死の表情に、卜部は段々と痛みが身体の中枢に向かってきている感覚がまやかしでないことを悟る。


『天津高御座ニ坐ス 皇ガ帝ニ仕ヘ奉リ 安國ノ弥栄ナル事ヲ尊ミ奉リシ官(ツカサ)ノ 罪穢ヲバ 祓エ給へ 清メ給へト 謹ミテ祈(コ)フ』


高らかに宣り上げる橘の声が霊安室を響かせる。

拍手を打ち、一心に祈念する。


だが──。


卜部を襲う穢れの呪詛は、ごく僅かにその侵食を遅らせるも、止むことはなかった。


「クッ、略式祓詞(りゃくしき)じゃどうにもならないか。卜部、どうにか立って歩けないか?」

「……見りゃ、分かるだろ……ッ!」

「ああ、分かるさ!しかし──」



その時、コンコンと重い扉を叩く音がした。

中指の第2関節で鳴らされたであろうその音は、何かしらの理由で室内に潜んでいる者が居るということを察しつつ、己の存在を知らしめる目的のものに思える。


「……誰、だ?」

咄嗟に痛みを感じさせない声色で、卜部が応じた。


扉の前に立つものが誰であっても、橘の存在は隠した方が良いという判断だった。今はどんな手段を用いても、自分がこの局面を無事にやり過ごすことは叶わないだろう。僅かにでも足掻く可能性を残すなら、五体満足の彼女を上手く使う他にないのだと。


「あ、卜部さん?白河ですけど……こんなとこで隠れて何やってるんですか」


予想だにしない声に、橘と顔を見合わせる。刹那の逡巡の後、彼女が軽く頷いたのを確認すると、

「……入ってこい」

今度は窮状を隠さぬ声で、入室の許しを与えたのだった。

作中に登場する祝詞、呪詛の文言は全てオリジナルです。(畏れ多いので)

オリジナルといっても、様々な祝詞からツギハギしているだけです。その過程で尊敬表現が抜けていたりしないことを祈っています。


次回で序章は終わります。更新予定は5週間後、進捗は0%です。


それでは、ここまでのご拝読を賜りまして心より感謝申し上げます。

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