序章 前編
注意とお願い
この物語はフィクションです。作中に登場する人名、団体、事件、その他は実際に存在する人物、団体、事件、その他とは一切関係ありません。
また、この物語には15年前に起きた大震災を取り扱う場面があります。ご留意の上での閲覧をお願い申し上げます。
誤字、脱字、表現の不足や人称の散乱、作劇上の矛盾等があった場合、加筆修正等を行う場合があります。その際はどうか温かい目で見て頂けますと幸いです。
駅に向かう道を歩いていると、すれ違う人たちはみな足早に帰路を辿っていた。それは年々厳しさを増す冬の寒さに追われてか、それとも彼らの帰りを待つ家族のためか。
しかしいったいこの田舎町で、それも大晦日の夜に、一体何の用向きで外出したというのだろう?年の瀬は大人しく家で過ごすものだろうに。
まったく、今どきの人らの考えることは分からない。
別に世の有り様を憂えているわけではない。これは単なる八つ当たりのようなものだ。並の感性を持ちながらにして、こんな日のこんな時間に仕事場に向かわなければならない自身のやるせない気持ちを、道行く人に刺々しい目を向けることでどうにか収めているだけ。
白い息を荒立たせながら歩を進めていると、不意に着信があった。ミトン型の手袋を脱がないまま器用に携帯電話を開き──発信元を見て更に不機嫌になりながら耳に当てる。
「もしもし、白河です」
「卜部だ。今どのあたりにいる?」
「はい?まだ駅にも着いてませんが」
直上の上司にあたる卜部 行幸。行幸と書いてユキユキと読ませる。可愛らしい名前だが当の本人は全く可愛げのない男で、常にどこか不機嫌な様子は、部下たちから『無愛想地蔵』などと渾名されるほどだった。
「駅って御陵前か?」
「飛鳥ですよ。……別に遅れてるわけじゃありませんよね?」
まるで詰問のような口振りに、自分が集合時刻を勘違いしていたのかと思わされる。
「ああ、定刻はまだだが、他が全員揃っててな。どんなもんかと思ったんだが」
卜部は続けた。
別に、定められた時間より早く来た人らのために悪者扱いされる筋合いはないはずだ。それなのに、まるで正義の所在を確信しているような口振りはひどく癇に触った。
「……そうなんですか。でしたら生憎ですが、みなには時間どおりの集合になるとお伝えください」
思わず苛立ちがそのまま形をなしたような返答をしてしまう。己の口から出た言葉のあまりの嫌味っぽさに少し冷静さを取り戻し、
「なるべく急ぐようにはしますが」
取り繕うように付け加える。
「……そうか。では、気を付けて来い」
少しトーンを落とした声を最後に、通話はそのまま切れてしまった。
別にこの電話が原因で怒られることはないだろうし、怒られることが特別嫌だということもないが。
決して自分は悪くないのに苛つかされ、そのせいで相手まで嫌な気分にさせてしまうというのは、実に面白くない。
携帯をポケットにねじ込み、足元に転がっていた石コロを蹴飛ばすと、少し速度を増した歩調で駅へと向かうのだった。
畝傍御陵前駅から橿原神宮方面に少し歩くと、一見なんの変哲もない古い屋敷が見える。
出入り口となる閂が掛かるような門は、現代水準のセキュリティシステムが施されているわけではないものの、用事のないものを弾くに十分な役割を果たしていた。
傍には『宮内』と表札が掛けられており、知らずに通り掛かるものには一般的な──いや、かなり格式高い住居のように見えることだろう。
「お疲れ様です」
門を開けると卜部が気難しい顔をさらに険しくしたような表情で待っていた。俺の顔を見るなり、そのまま目線だけを左手の腕時計に落とす。
「……迷わず来れたか。案内する、着いてこい」
定められた時刻の20分前に辿り着いた人間をどうやって責めるものかと期待したが、彼にその手段は存在しなかったらしく、どうやら今回の件ではお小言のひとつも貰わずに済みそうだった。
しかし、せくせくと前を進む卜部にはかなり憔悴した様子が伺える。部下の到着を待たせていることがよほど気まずいのだろう。その心中では集合時刻の設定に不足があったことを悔いているに違いない。
「もしかして、割とマズい感じですか?」
軽い気持ちで訊ねると、僅かにも歩く速度を変えないまま卜部が応えた。
「50人以上の人間がお前を待ってる」
「……ええ?勘弁してくださいよ」
強い非難を込めて言う。
「お前は悪くない。何時間も前に到着している方が非常識なんだ」
それは卜部自身も悪くないのだという主張だろうが、この状況ではなんの気休めにもなりはしなかった。そのうえ待たせている身としては肯定も否定も返しにくい言葉で返事に困ってしまう。
結局会話はそこで途切れ、飛び石につまづきそうになりながら庭園を抜けると、玄関横の靴箱に履き物が数えるのも億劫なほどに並べられているのが目に入る。もともと彼は冗談を好むタイプではない。彼の言葉に疑いはなかったものの、改めて突きつけられる事実に気がどんよりと沈んでいく。
だが、もはや打つ手はないのだ。せめて少しでも早くの到着を試み、脱いだ靴もそのままに早足に廊下を進んでいった。
雰囲気のある大部屋の襖の前に辿り着くと、菓子を山積みにしたお盆を運ぶ女中が我々に気付いたようだった。
「お待ちしておりました」
「ああ、待たせたね」
卜部が素っ気なく返事をする。
彼女によって襖が開かれると、その先にはめまいがするほどの大勢の人たちが秩序だって座っていた。
根の落ち着いた人間が多いのだろう、人数の割には慎ましやかだった談笑していた声もひたと止み、我々二人に一同の注目が集まる。
「『宮内庁橿原支部』の卜部さま、白河さま。ご到着でございます」
そそくさと入室したい気持ちもあったが、晒しあげるかのように──もちろん彼女にその気がないことはわかっているが──紹介されてしまう。
仕方がない、肚くくるか。
「大変お待たせいたしまして、誠に申し訳ございませんでした!」
大きく一歩前に出ると膝を折り、畳に手を付け深々と頭を下げた。
もともと声の止んでいた大広間がもう一段階上の静寂に包まれる。
これは、マズったか?
「いやいや、儂らが早う来とるだけじゃ。期せずして新人いびりみたいになってしもたの」
救いの声はしわがれていた。その言葉で、張り詰めた空気が一気に瓦解していく。
「せや、そないに気にしなさんな。別に遅刻しはったわけやありませんことやしな。顔上げなさってや」
もう一方からも援護射撃が入ると、卜部が軽く肩を叩いた。
「すみませんでした!」
ダメ押しにもう一度だけ述べておくと、顔を上げて卜部に導かれるまま自分らの席に着く。
「どうなるかと思ったが、良い方に転んだか」
「……それでは皆さまお揃いのようですので、少し早くはなりますが。進行して参りましょうか。皆様、奥の間へお入りください」
卜部の小さく呟く声に返事をする間もなく、上座に位置する男がすっくと立ち上がり、案内を始める。
ほんの襖一枚が、鳥居とまったく同じように聖俗の境を厳しく隔てていた。鳥居こそはないものの、ここに一般人の立ち入りはなく、故に象徴は必要ないということなのだろう。それを物語るように、誰が言うでもなく皆入室に際し深々と礼を、そして入室後にまた礼をする。
白河にとって驚きだったのは、部屋の大きさ──50人以上の収容であるから、相当のものだ──に対して、神棚はとても奥ゆかしいものだったことだ。それこそ、(神道の徒の)一般のご家庭にあるようなもの。肩透かしを食らった気分を感じていた。もちろん、豪奢なのがよいだなんて考えは一切持ち合わせていないつもりだが、それにしても質素に過ぎるそれは、信仰というもののありかたを改めて思い知らされるきっかけになったのだった。
全員の入室を経て、案内をつとめた宮司が鈴のような声で宣言する。
「改めまして、これより近畿官幣大社による合同祈年祭を執り行います」
祈年祭。神道における大祭に位置づけられる行事のひとつで、豊穣や国家繁栄を祈るものだ。本来であれば旧正月、立春の時節に行うのがならわしであるが、これは合同祈年祭。各員が主として仕える社を離れて行うものであるため、適切な時期に行うと都合が悪くなってしまう。各々の神社の事情を鑑み、新暦の正月に併せて行うことになったのだ。
なお当然、初詣のシーズンに直撃しているわけだが、そもそも初詣とは参拝者のためのイベント事であり、究極的に言ってしまえば神職が不在でも成り立ち得るのでさほどの問題はない。
そのきっかけは一昨年の大凶報だった。全国各社で国難の到来を予期させるような占卜の報告が相次ぎ、宮内庁と神社本庁及び本庁外部の有力霊場の主たちの協議の結果、昨年初めて臨時という形でこの会合がもたれることになったという運びである。
厳かに祝詞を奏し、国の安寧を祈祷する。
息が詰まるほどの統一された空気感は、余計な物音ひとつの存在も許さない。そのはず、ここに集っているのは宮内庁所属の公務員である白河、卜部の両名を除き、すべて国内でも特に格の高い社につとめる神職の面々なのだ。
そして、献饌、神楽舞の奉納、玉串奉奠と順調に式が進んでいたところだった。
Prrrrr......
背筋が凍り付き、視界が白く染まってゆく。
音は紛れもなく白河のポケットから鳴っていた。
誰からも白い目すら向けられない。神前にある一同は徹底した無視を貫いている。絶望的な沈黙だった。そして、原因たるあまりにも場違いな着信音はけたたましく場を賑やかしている。
「出ろ、白河」
ふと何かに気付いた様子の卜部が立ち上がり、おもむろに白河の肩をぐいと掴んだ。真っ白な頭に指令が下されたことで、思考の血が巡っていく。そうだ、この着信音は、職場の──。
すぐに立ち上がり神の座に一礼すると、部屋を出て通話を繋いだ。続くようにして出た後ろの卜部も携帯の電源を立ち上げている。
「宮内庁橿原支部、『即応陰陽師部隊』の白河です」
「は、繋がって良かった。こちら支部の源です。緊急出動です、白河さん。卜部さんに代わってください」
やはり出動命令だった。無言で卜部の前に携帯を差し出すと、彼もまた無言で携帯を耳に当てる。
「卜部だ。……了解。それと、以降は俺の携帯に頼む。切るぞ」
「何処です?」
返された携帯をポケットに入れる。
「車で5分のところだと。ここの倉庫に装備がある、行くぞ」
「了解」
⭐ ⭐
「2つ先を右だ」
「はい。……あの、この辺りなら住所で言われた方が分かり易いんですが」
敷地内に停めてあった社用のバンを走らせる。普段は運転手がいるのだが、こういう不測の事態でハンドルを握るのは部下のつとめだった。
「……」
卜部は忙しない様子で携帯を操作しており、白河の言葉も届いていないらしい。
「『自然発生した霊にしては大きな力を持っていることが予想されます』、だそうだ」
メールの文面を読み上げた卜部が何かを思案しているように思え、なんとなしに訊ねてみる。
「なにか気がかりなことでも?」
「……いや、気にしなくていい。お前は事態に集中しろ」
「そうですか」
対話は失敗だ。相変わらずの物言いに気分を害するだけに終わってしまう。
さても、白河にしてもこの出動については引っ掛かるところがあった。先ほどまでは色々と焦っていたため気にする暇もなかったが、魔の類いが現れるにはどうも清浄な領域と近すぎるのだ。
例外はあれ、原則として神は穢れを忌み嫌い、魔は浄きに寄り付かない。浄と穢は互いに食い合う関係にあり、同時に同所に存在することは例外なくありえない。菌の培地に消毒殺菌液を垂らした図を想像すれば分かりやすいか。液を滴下した地点を中心に菌が死滅してしまうようなことが神と魔の関係においても同様に起こる。
しかし、すると既に神の座が開かれた先の会場や、神宮という大霊場があるこの界隈で『出動を要する』、即ち悪性の霊が出現したというのは妙ではないか。
そこまで思考を進めたところで、ひとつ思い当たる所があった。
「喚霊術……」
思わずといった形で口をついて出た呟きに、相変わらず携帯のボタンを叩いていた卜部が深くため息をつく。
「事態に集中しろと言ったはずだが」
「あっ、すみません」
また微妙な空気のまま当局と連絡を続けるのかと思った矢先、彼は不意に携帯を閉じ、ドアウィンドウに肘をついた。
「……いや、構わない。俺も同じ見解だ」
珍しく卜部から赦しの言葉が発せられ、目線だけで彼の顔を窺う。
「最低でも運転には集中しろ。事故るぞ」
「はい」
「……支部は自然発生の線で見ているらしい。これは龍脈観測に基づく予想だ、確度は高い」
龍脈とは国をめぐる霊的な力の流れだ。浄や穢という概念よりマクロな部分、栄枯を別つ源と表現しようか。
龍脈の溢れる地にはその性質の善悪を問わず大きな霊が栄え、枯れた地にはどれだけ高度な儀式を執り行っても強力な神魔の類いを呼び寄せることができない。
またそれは人間を含めた一切の動植物にも影響をもたらす。霊力は生命の活動の原動力となるものであるため、力ある地では活発に生まれ、生み、食い、食われの新陳代謝が行われるのだ。言わずもがな、この地のように大社のあるような土地は霊的な力に満ちていると考えてよい。
龍脈は川に例えられる。龍脈に由来する力を使う、つまり川の水を汲めば、水はその分減ってしまう。一般の河川が山に降る雨で潤されるように、正常な活動の範囲内であれば著大に損なわれることはないのだが、何かしらの異常があった場合はその限りではない。
数十世紀にも渡る国家整備の末、我が国における龍脈の流れは掌握を果たしており、特に明治大正昭和前期では国力の効率的な増強のためにあらゆる手段で利用されてきたわけであるが、直接的な外敵を喪った戦後は専ら国土安泰の要として龍脈の観測が行われているのだ。
「しかし、卜部さんは喚霊術によるものだと?」
「霊場の庇護の及ぶ範囲は広いんだ。この市内で自然発生なんてのは数えるほどの前例もない。少なくとも俺がここの配属になってからは、一度たりともな」
だからこそ龍脈観測員の源さんもあれほど焦っていたのだろう。
「よし、そこに寄せて停めろ」
「了解」
指示通りに車を停止させると卜部が降り、トランクを漁る。
「ああ、澱んでますね」
ほっとしたように白河が呟いたのは、お互い暗黙の内に2つの可能性を考慮していたからだ。1つは先程まで交わしていた会話にあった、人為的な霊の発生の可能性。何者かがここに穢れをもたらし、それによって清浄の空間に綻びを生じさせたという仮定。
もう1つは、完全な浄の空間下で予期せぬ神が顕現してしまったという可能性。この場合は人員にしても装備にしても、何の準備もない状況ではどうすることもできなかった。
気が澱んでいるというのは、前者であることが証明されたようなものだ。支部の龍脈観測の示した結果と異なることは気になるが、少なくとも事態に対応可能という点では安堵できることだった。
「もし『神性案件』だったら即回れ右だ。……ほら」
投げ渡された装備を受け取ると、直接場所の指示を受けていない白河でもそれと分かる澱みの発生源に向けて小走りに進み始めた。
「駐禁切られる前に終わらせるぞ」
日が沈んでからかなりの時間が経っていた。ぽつりぽつりと設置されている街灯は、深い夜闇を照らすにはあまりに心許なく、歩みを共にする卜部の表情さえぼんやりとした輪郭でしか捉えられない。
そこに何者かが背を向けて座っていた。少し乱れた長い髪型や服装の感じからするに、女で間違いないだろう。
どれだけ鈍感な人間でも近付こうとはしないだろうほどに、辺りの気が澱んでいる。
「あのー、お嬢さん。落とし物でもされたんですか?」
遠くから声をかけても振り返らない。普通じゃない。
「すみませんが、ちょっとお話をお聞かせ願いたいんですけれども」
警官のような口振りで続ける。
「ここの龍脈異常について何か知ってるな?」
なおも沈黙を貫いた女に対し、卜部が色々と手順をすっ飛ばす。まだ一般人の可能性は十分にあるのだが……。
「……どうだろうねぇ」
震えた声だった。怯えでも凍えでもない、愉悦と歓喜に溢れた震え。彼女は極度の興奮状態にあるようだ。
それに幻覚だろうか、灯りが揺らめいた気がすると、項垂れた様子の女がゆっくりと、不気味に顔を上げた。
「ヤク中か何かかも知れませんよ」
目線を切らないまま卜部に耳打ちする。
「今何について訊かれたのかが分かるなら、確実にクロだ」
そんな、追及の途中だった。
「う、ぁぁぁぁああ ああアア!」
急に呻き始めたかと思えば、だんだんとそれが甲高い悲鳴に変わりゆく。
それは人間の喉の最高潮に達するほどで、ひたと止んだ。叫びながら起こっていた全身の激しい痙攣も弾かれたように脱力し、そのまま背から倒れ込んでしまう。
呆気に取られるなか、びしゃりと液体が撒き散らされたような音──そして、奇妙にも女の身体がふわりと浮き上がった。首も腕も重力のままに垂れ、長い髪が箒のように地面につく様には、僅かにも生気を感じられない。
やがて二人は気付く。浮き上がったように感じた女の身体は、その股から不揃いに生えた二本の足に支えられていたということに。
「……やれやれ。まだ話を聞きたかったんだが」
卜部の呟きによって身体の硬直が解ける。彼女の思惑がどうあれ、こうなってしまった以上は悪霊を祓う他に手はない。
「平成22年12月31日21時46分。橿原支部霊的保安課長卜部行幸より同所属白河瑞穂職員に通達。目前の霊的脅威に対し、『第三等級電子符』の使用を許可する」
「了解」
お役所勤めに特有のひどい茶番を済ませると、倉庫にあった装備──五芒星の描かれた分厚いカード型の電子機器に専用のカートリッジを装填した。軽くはないそれを右手の二指で挟み、左の耳元で構え、そして、心を凪にする。
浮かび上がったイメージは、夜闇を照らす篝火。
獣も魔物も打ち払う、熱の揺らめき。
望みは敵の撃滅と、名も知らぬ女への弔い。
たとえ、彼女の心に邪の影が差していたとしても。
せめて、人のやり方で葬ってやる。
「天津御孫の代々連綿と
治す安き御国に
報いさせ給え」
電子符の安全装置を解除すると、それは焼けた鉄のような輝きを放った。
霊的エネルギーが変容を遂げた証だ。
「五行術・紅天」
化け物は、無様に蠢いているだけだった。
結局、浄の空間に持ち込まれた悪霊というのは、消毒液の中に落とされた菌と同じだ。
神はそれをお嫌いなさるが、しかしだからと言って空間の性質が一挙に塗り替えられてしまうわけではない。そもそも元より神とは畏れられ祀られるに価するほどに強力な霊なのだ。一介の邪な人間が喚んだ名もなき霊などに縄張りを脅かされるようなことはあり得ない。
白河の術によって放たれた火の玉は、術者の命を奪って産まれた彼を、その無力を嘲笑うように、ひどく呆気なく焼き付くす。
しかるに、本件は些事に終わった。
少しの事後処理ののち、車に向かっている最中のこと。
「懐胎型の喚霊術、か」
最も現場に出向く機会の多い卜部でもそう見掛ける手段ではなかったらしい。まあ先の様子を見る限り、その理由も伺えようものだが。
「何が悲しくて年末にこんなことするんですかねえ」
如何にとち狂っていたとはいえ、人間だったものに向けて攻撃するのは気分がよろしいものではない。
「さあな。子供でも欲しかったんじゃないか」
「うわ、最低な発想ですね」
軽口を叩きながらも、浮かない顔をしている卜部。
「……やっぱり気になりますよね、動機」
白河もきっと同じ表情をしていたに違いなく、折角とばかりに切り込んだ。
「そりゃあな」
「どのくらい理解してやったのか、ケースごとに仮説を──」
長くなる話の切り出しを遮るように、卜部の携帯が鳴り響いた。
「源──ああ、連絡がまだだったか。本件なら……」
突如、背後に凄まじい気配が現れた。
それは、ほんのすぐ近くだった。
まるで案山子のように動きを止めてしまう。
先程の木っ端悪霊なんぞとは比べ物にならない重圧。
「振り向くな」
即座に電話を切り、野生動物に睨まれている時にするようなゆっくりとした動作でそれを懐にしまうと、卜部はただ静かに白河に指示を送る。
心の臓が握られている感覚の中、思考だけが巡る。
卜部は間違えなかった。もしも背後にいるのが悪霊の類いであったならば、「戦え」という指示が絶対の正解になる。人を害する意思をもって生まれる彼らは、こちらが認識していようがいまいがなどどうでもよく、すぐに手当たり次第に近くの人間、この場合は我々を襲っていただろうから。
しかし、確かにその線は薄かった。先ほどは邪な人間という媒介者がいたからこそ悪霊も現れ得たが、基本的には、どこまでもこの地は清いのだ。
卜部の振り向くなという指示は、 後ろにいるものが悪性の霊ではないと即座に下した上で、存ぜぬ神性に対しての最適解、目にしてしまうことさえも含めて一切の接触を避けよという意図があった。
穢れは、よほど重度のものでなければ本人の力によってさえも禊ぎ、祓い、浄められるものであるが、『祟り』となるとそう易々とはいかない。赦されるまで誠意をもって謝る他にないのだが、その誠意の感覚のスケールに神と人間との間で大きな隔たりがあり、曾孫の代まで誠意を示し続けなければならないというのもザラにある話。それほどに洒落にならないのだ。触らぬ神に祟りなし、霊に関わる仕事をするものならば誰もが知る金言である。
背後の気配は依然として強大な存在感を放っていながらも、動きはないようだった。
急に出現したことからも、ただ通りがかったという訳ではなさそうだ。
身動きの取れない両名と、動きを見せない謎の気配。必然、場は膠着する。
白河には神性の対応の経験など数えるほどもない。まして、準備もないまま不意に遭遇してしまったことなどは一度もない。
迂闊な行動が許されない緊張感が、彼を狂気に陥らせるその直前のことだった。
「吾が声を聞き、伝え広めよ」
響いたのは、感情の残滓も感じ取れないほどの無機質な声だった。
「凶事は二度来る。東に西に一度ずつ。近く、天地揺れに揺られれば、黒き潮は田畑薙ぎ、舟も巌も押し流す。備えたる人、備えなき人、空しくも、等しく同じ。次いで、国の大事を良しとして、古き時代に所縁在る、人に化けたる鬼が笑う。力ある人、力なき人、空しくも、等しく同じ。汝らに預けたる言、件の如し」
「……なるほど」
少しの間をおいて、卜部が言葉を返す。
「……」
それきり、気配の主は一言も発せずに消えてしまった。
ようやく詰まっていた息を吐ききり、白河もまた喉に声を通す。
「どうにか、無事みたいで。……あの、今のは?」
「見れば確実だったんだが。恐らくは『クダン』だ」
「クダン……妖怪の?」
人の顔をした牛の姿で現れ、予言を残し、消える。確かそんな伝承だったはずだ。
「一旦、話は後にしよう。さっさとここから離れたい」
卜部は携帯を開き、そのまま耳に当てた。無言の内に促されると、車に向かい始めた。
「もしもし。……ああ、無事だ。すまなかったな」
⭐ ⭐
一難去っての車内は少し張った空気だった。命に関わるような危機を、気の緩みによって生んでしまったということに対しての反省の念がそうさせたのだろう。出動時の賑やかさは影もなく、結局会話のないまま元の会場に着いた。
聖域に穢れを持ち込むわけにはいかないため、身についた穢れを落とすべく紙人形に念じる。すると紙は次第に黒ずみ、ボロボロに朽ち果ててしまった。
車用灰皿の位置に備え付けの霊的屑箱にそれを放り込むと、再び──紙に穢れの相が現れなくなるまでそれを続ける。
「あら、卜部はん白河はん。ご無事で何よりですわ。今戻らはったの?」
陰陽師式の禊を終え車から降りると、ちょうど玄関先を通りがかった巫女服の女性から声が掛かった。知らない人だが、聞き覚えがある声だ。
「はい、お陰さまで。……山城さんがこちらにいらっしゃるということは、祭には間に合いませんでしたか」
「せやねえ。お二人が出ていかはった時には、もう終わり際やったし」
卜部とのやり取りを聞いて、白河はこの声をいつ聞いたのかを思い出した。ここに来た時の謝罪の言葉に返答をくれた人だ。
「あの、先刻はありがとうございました。改めまして、白河瑞穂と申します。よろしくお願いいたします」
「ああ、そんなご丁寧によろしいのに。うちは山城吉禰と云います。伏見のお稲荷さんの、『巫』のお役目を仰せつかっとります。こん小娘には、おそれ多いことですけど」
白河に初見の女性の年齢を当てるだけの知見はなかったが、己を小娘と称した目の前の女性は確かにかなり若く見える。二十歳前後か、その辺りで大きくは外していないだろう。
「巫さん、ですか。ごめんなさい、勉強不足でして」
「神様に、体を依り代としてお使いになっていただくというのが巫のおつとめです。……確かに、支部の陰陽師さん方とご一緒することはあんまりありませんね。こういう大きな儀式の時くらいにしかお声掛かりませんけど、卜部はんにはいつも何かとよくして貰ってます」
微笑みかける山城の視線に、少しばかりのたじろぎを見せる卜部。
「……失礼。山城さんは何か御用があったのでは?」
誤魔化すかのように話題を転換する彼に、どことなくアヤシさを感じた。惚れているのだろうか?
「せや、これから太占があるんです。うちはちょうどその準備を終えて戻るところで。橿原の神主さんが、お二人にもせめてこっちには参加して貰おう仰ってまして」
「なるほど。じゃあ、ええと、また皆さんがお待ちしている、と?」
額に指を当て、目を瞑った卜部の顔が引き攣る。直前までしょうもない邪推に興じていた白河も概ね似た表情を浮かべていた。
「あはは、いやいや、準備の時間がありましたから。お二人は十分、間におうてはりますよ」
「そ、そうですか。良かったです」
「ほな、一緒にいきましょか」
山城は快活に笑いながら言った。
「おっ、帰ってきよったで。二人も一緒や」
最初の大広間の前で、山城とよく似た装いの女性と人の良さそうな正装の神職の男性が談笑しているところに出くわした。
「ミィちゃん。中で待っててええのに」
「別に迎えに出とったわけちゃうで。ちょっと故郷の話聞きたかったんやけど、中やと色々気ぃ遣うことあって面倒やさかいな」
「そこは嘘でもお迎えや言いや」
「確かに、そっちの方がお得やったわ」
彼女はナハハ、と絶妙な笑いかたをする。
男性陣はなんだか気まずい空気が流れていた。
「あ、うちは和泉吉禰で通っとる。どや?山やんそっくりのべっぴんさんやろ。んで、こっちは住吉のおっちゃんな」
「はは、どうも。住吉のおっちゃんです」
白河を見てそういえば、とばかりに挨拶をすると、苦笑いを浮かべながら男性の方も続いた。
「橿原支部の白河です。今後ともお世話になります、よろしくお願いします!」
「おお、卜部くんとは似ても似ぃひんなあ。真面目で愛嬌もあるわ。祭の最中に携帯の音鳴らした時はとんだ非常識な奴もおるもんや思たけどな」
「それは……そうですね、すみませんでした……」
「ちょおそんな、謝りなや。うちが嫌な奴みたいになるやん。冗談やんか!な?自分らがそのあと仕事行ってたん知ってるし!……せや、帰ってきたら聞こ思っててんけど、どんな奴やったん?相手は」
「え……と、相手ですか?」
和泉の会話の怒涛の勢いに、慣れない白河はついていくのがやっとのことだった。
「ちょっと、ミィちゃん。そんなつついたらんたって。白河はん困ったはるやろ」
「和泉さん、その話は後でたっぷりとしましょう。今は太占の準備が終わったことを皆さんにお伝えしなければ」
山城の言葉に続けて卜部のストップが入り、一旦この場は切り抜けられそうな雰囲気になる。
「そう?まあ分かったわ。けど、言うたで?絶対後で聞かせてや?」
マシンガントークとは言うものだ。一度興味の銃口を向けられては、蜂の巣になる運命を受け入れるしかない。
ただ、不思議と嫌な気はしなかった。
5名が部屋に戻るとまた大勢の移動が始まった。山城ともう一人、伏見の宮司の案内でみなぞろぞろと寒い風の吹き抜ける夜中の中庭に集まってゆく。
「ふぃぃ、なんか年々寒なってへん?何が温暖化やねんホンマ」
到着の早かった支部の両名に続くようにして何故か和泉が着いてきていた。
「あれ、和泉さんはここに居ていいんですか?」
「何故俺に聞く。本人に聞いたらどうだ」
卜部にだけ聞こえるように訊ねるも、もっともらしい言葉で返されてしまう。
「あの、和泉さんはどちらのお社におつとめされているんです?」
「ん?うちは無所属……いや、一応本庁になるんか。今は伏見さんとこに世話なっとるけどな」
同行を咎めるには遠回りすぎる発言の真意に気付くわけもなく、和泉はただ質問に答える。ただ、会話を始めるよいきっかけにはなったようだ。
「無所属、ですか。あそうだ、山城さんとはどういうご関係で?同じお名前ですよね」
「ん、やっぱし卜部くんはあんまり教えてくれへん感じなん?ま、ええけど。そもそもうちらの吉禰ってのは通り名や。役職名、称号や思てくれて構へん」
「修行を経て師から襲名するんだ。中でも吉禰は明治期の巫子弾圧の生き残りを源流とする、由緒ある名だな」
「へえ。勉強になります」
突然会話に入ってきて一口メモのようなことを言い出す卜部。和泉の言葉が刺さったのかもしれない。
「教科書にはそう書いとるわ。今は本庁の認定資格みたいになっとんねんけどな。ま、そういうわけで、山やんとは単に同業の友達ってだけや」
「……そうなんですね」
「もっと巫について知りたいんやったら山やんに聞いた方がええよ。うちはちょっと事情がややこしいからな」
「おや、どうやらそろそろ始まるようです」
何やら含みのある言葉を残した和泉にさらに質問を投げ掛けようとするところで、白河が両名の注意を引いた。
どうやら集合が完了したようだ。先導していた伏見の二人が、いつの間にか太占の儀式段の中央で静寂が訪れるのを待っていた。燃え広がらないように十分に配慮された薪のくべられた盛る火が、漆塗りの黒い書台と、真っ白な動物の肩の骨と、そして辺りをと照らしている。
「……この寒さのなか、大変長らくお待たせいたしました。昨年に引き続き、太占の段のお役目を申しつかりました伏見大社の宮司を拝命しております、秦と申します。そして、こちらはかかる巫の山城吉禰です」
「畏れ多きことながら、巫の大役をお勤めさせていただきます。よろしゅうお願い申し上げます」
紹介にあずかった山城が三方に頭を下げると、挨拶もそこそこに儀式が始まった。
伏見の宮司がささやかに祀られた動物の骨に焼けた棒をゆっくりと押し付けると、焦げが不規則な放射状に広がってゆく。自然に模様が落ち着いたとき、そっと棒を骨から離し、礼とともに退いたかと思えば、数歩引いた位置にいた山城にまた深い礼をする。
それが、宮司の合図だったのだろう。礼を受けた山城は左に廻り、右に廻りを繰り返し始めた。最初は遅く、だんだんと速くなるにつれ、髪は乱れ、目がどこか虚ろになっていく。
美しく舞うようにふらつき、しかしけして体勢を崩しきることはなく。そして、傀儡のようなぎこちなさとともに静かに止まった。
小刻みに震える指先でなぞるように骨に描かれた模様を読み、まるで歩いたことがない人間のような歩き方で山城が仮設の書台に落ち着く。そこですぐさま用意された和紙に一息に何事かを書ききると、張った糸が切れたかのようにそのまま書台に崩れ落ちてしまった。
およそ大丈夫そうには見えない。
白河は、本当ならすぐにでも山城の様子を見に行きたい念に駆られていた。しかし正しい儀式の形がこれなのであれば、その邪魔になってはいけない。
どうすればよいのか分からない人の例に漏れず、結局白河は不動の沈黙を続けていた。
そこに力なく項垂れている山城の様子など気にも留めないかのように、秦と名乗った宮司が恭しく先の紙を取り上げる。
「畏まりながら、読み上げさせていただきます」
『民の心はうす暗く 鬼の類いを喚び寄せる
独りの鬼の猛きこと み国揺るがす厄となり
やがて西より来る星 天照らす日を食らうべし
禰宜祝部や恙無く 天津御屋代堅守せよ』
さて拙き次第にはございましたが、ここに太占の儀は結びと相成ります」
立ち並ぶ観衆に深々と一礼すると、人目も憚らずそのまま秦は山城の元へ駆け寄った。進行役を失った群衆はとりあえず先ほどまで居た部屋に戻ろうとバラバラに解散していく。
これからの指示について訊ねようと卜部を見るも、何やら深く考え込んでいる様子だった。その表情のあまりの険しさに声をかける気にもなれず、黙って山城の介抱をする秦を眺める。
「あれが、巫や」
後ろからの和泉の声に振り返ると、神妙な表情と言うのだろうか、哀しみと怒りと諦めの入り交じった顔で和泉は白河のことをじっと見つめていた。その顔を見ただけで、和泉へ抱いていた印象が一変する。
──君は何を思たやろか?言葉を続けない和泉はそう問うているのだ。
「……毎回、ああいうふうになるんですか?」
山城と秦らに目線を戻し、訊ねる。
「そうやな」
肯定の返答。
「……」
頭の中を言葉が回る。選び、捨て、口は固く一の字に結ばれたまま沈黙が続く。
「……自分、下の名前なんて云うん?」
「えっ──と、瑞穂といいます」
突然の話題の転換に一瞬追い付けなかった。いつの間にやら彼女の纏う雰囲気も、元の気さくな関西人のものへと戻っている。
「へえ、縁起のいい名前やん。じゃ自分のこと瑞穂って呼んでええ?」
「な、何で?」
丁寧語もどこかへ飛んでいってしまう。
「いつまでも新人くんいうて呼ぶんもけったいやしな」
新人くんと呼ばれたことなどないはずだが、まあ好意的な印象を持たれたという証なのだろう。別に断る理由も見当たらなかった。
「まあ、そうですね。あまり呼ばれ慣れませんが……」
「ナハハ。よろしく、瑞穂」
「こちらこそ、和泉さん」
「白河」
中学生じみた会話に、突然卜部が割って入る。
「はい、すみません。どうしましたか?」
「締めの式に出るのは俺だけでいい、先に支部に戻って源に今日のいきさつを伝えておけ」
「え、っと、分かりました。卜部さんも戻られるんですよね?」
「当然だ」
「あれ瑞穂、もう帰ってまうん?」
「どうやらそうみたいです。約束してた件は……卜部さんから聞いてくれますか」
「うん?」
何のことか分からなそうな様子に、言葉を重ねる。
「ほら、さっきの出動で戦った相手の話です。詳しくお話しする約束でしたよね」
「はー、あんた、律儀くんやなぁ。うちはもう忘れとったでそんなん」
まるで宇宙人でも見たかのような顔をして白河を見つめる和泉に、全く同じ表情で見つめ返す白河。そしてそれを怖い顔で見ている卜部の視線に気付いた時、慌てて話を切り上げにかかる。
「……えと、じゃあ、すみません。僕はこれで失礼します」
「あ、待ち。折角やしメアド交換しとこ?……ちゃう、うちケータイカバンに仕舞っとるんやった。瑞穂、何か書くもん持っとる?」
ほんの一瞬卜部を窺うと、和泉に対する諦めのような様子が見えた。あの感じなら後々言われることはないだろう。仕事上の付き合いがあり得る連絡先の交換に、そこまで咎める理由もあるまいし。
「じゃあ、これに」
「ん。……自分綺麗な字しとるな、なんか習字とかやっとったん?」
常備しているバイブルサイズの手帳を開いて渡す。
「その、陰陽師なので、毛筆とか触るんですよね。符とかつくるのに」
「せやったわ。陰陽師やいうてな。うち字あんまりやから陰陽師なろかな。……はい、これ。帰ったらメール送ってや」
「分かりました。ありがとうございました、その、気に掛けていただいて」
「何や、変な謙遜やな。まあええけど。じゃあまたな、瑞穂。気ぃ付けて帰りや」
「はい。じゃ、本当に失礼します」
話の内に山城が少し快復したのが見えると、和泉もそれきりで彼女の元へ向かっていく。
そそくさと人ごみを離れる中、白河は自分のなんとなく浮わついた気分に名前をつけられないでいた。
ご拝読ありがとうございます。
次回更新は1ヶ月後を予定していますが、筆に任せて完成をみればその時に投稿させていただきます。なお、現在の進捗は0です。




