『ぽっちゃりOLは、まだ会社を完全には憎めなかった』
ブラック企業から逃げても、
心まではすぐ自由になれない。
人は、
慣れた鎖を愛してしまうことがある。
第八話、開幕です。
夜。
森の中。
焚き火の火が静かに揺れていた。
じゅうじゅうと肉の焼ける音。
虫の鳴き声。
遠くの川の音。
ブラック企業のオフィスでは、
絶対に聞こえなかった音だった。
「ユウト〜」
紗弥香が当然みたいにユウトの隣へ座る。
「食べさせて♡」
「またかよ……」
「だって好きなんだもん」
「何が?」
「ユウトに甘やかされるの」
即答だった。
綾香が呆れた顔をする。
「最近ずっとそれじゃん」
「いいでしょ〜」
紗弥香は完全にユウトへ身体を預けていた。
柔らかい。
近い。
温かい。
ユウトは少し困った顔をしながら、
焼いた肉を差し出す。
「ほら」
「あーん♡」
紗弥香が幸せそうに食べる。
その顔を見て、
優花が笑った。
「紗弥香さん、最近ほんと甘えん坊ですよね」
「うるさい♡」
だが。
ユウトは気づいていた。
紗弥香がこうなったのは、
最初の敗北のあとからだ。
“和”との戦い。
倒れた彼女を、
ユウトはずっと看病していた。
それ以来。
紗弥香は、
妙にユウトへ甘えるようになった。
◇
しばらくして。
全員が少し眠そうになっていた。
焚き火の熱。
夜風。
虫の声。
それらが、
ゆっくり意識を溶かしていく。
紗弥香は、
ユウトの肩へ頭を預けていた。
「……ねぇ、ユウト」
「ん?」
彼女の声は少し眠そうだった。
「私ね……
会社員だった頃、
ずっと食べてたんだ」
「食べてた?」
「うん」
紗弥香は焚き火を見る。
「ストレス食い」
炎が揺れる。
「仕事で疲れて、
怒鳴られて、
終電で帰って」
「…………」
「そのあと、
コンビニでいっぱい買うの」
紗弥香は少し笑う。
「ポテチとか。
カップ麺とか。
甘いものとか」
その笑いは、
少し寂しかった。
「食べるとね、
少しだけ楽になるんだよ」
ユウトは黙って聞いていた。
「また働けるって思えるの」
虫の声が響く。
「だから私……
ブラック企業の気持ち、
ちょっと分かるの」
「…………」
「頑張った社員に、
安い快楽を与える」
紗弥香は自分の胸を押さえる。
「ご飯。
お酒。
ソシャゲ。
コンビニスイーツ」
彼女は俯いた。
「そうやって、
人間を壊れない程度に麻痺させる」
その声は震えていた。
「それって、
すごく合理的なんだよ」
沈黙。
「私、
そんな風に思っちゃうの」
紗弥香の目から涙が落ちる。
「ユウトの仲間なのに」
「ブラック企業を倒したいのに」
「なのに私、
会社の論理を理解できちゃう」
涙が止まらない。
「それが嫌なの」
彼女は震えていた。
「私……
偽物なんじゃないかって」
◇
ユウトは静かに口を開いた。
「別に、
おかしくないだろ」
「……え?」
「だって紗弥香は、
ずっとその世界で生きてきたんだから」
焚き火が揺れる。
「会社しか知らなかった」
「それが普通だと思ってた」
「なら、
そこに意味や合理性を感じるのは当然だ」
紗弥香は涙目のままユウトを見る。
「大事なのは、
何を知ってるかじゃない」
ユウトは言う。
「今、
どこにいるかだ」
「…………」
「紗弥香は今、
俺たちといる」
「自由になろうとしてる」
「それで十分だろ」
紗弥香の唇が震える。
「ユウト……」
「無理に全部否定しなくていい」
ユウトは少し笑った。
「人間ってそんな簡単じゃないだろ」
その瞬間。
紗弥香の涙がまた溢れた。
だが。
今度の涙は、
少しだけ温かかった。
◇
月明かり。
虫の声。
静かな森。
紗弥香はそっと、
ユウトへ抱きついた。
「……ありがとう」
柔らかな身体。
温かい体温。
ユウトは少し驚く。
だが。
振り払わなかった。
紗弥香は目を閉じる。
会社では、
こんな風に誰かへ甘えたことなんて無かった。
誰かに、
受け止めてもらったことなんて無かった。
だから今だけは。
この温もりへ、
少しだけ甘えていたかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ブラック企業は、
人を苦しめます。
でも同時に、
人へ“安らぎ”も与えてしまう。
だからこそ、
そこから逃げるのは難しいのかもしれません。
次回、
ユウトたちは新たな企業へ向かいます。
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