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カメラマンの妻は去った。そして新たな恋の予感が現れた。

こんなにせつない気持ちになったのはいつ以来だろう。それは高校生以来ではないだろうか。初めて本当の意味で好きになった同級生の女の子に告白して、フラれた時、確か、今感じたような気持ちだったはずだ。でも今回は告白ではない、大好きな妻が、不倫して私のもとから去っていったことだった。その事を知った時、つまり妻のかずみが私のもとから離れて手紙で、(これまた電話でもなくメールでもなく)告げて、それは熱心とも言えるような内容だったことが驚きで、手紙による告白というよりは、まるで小説のような、物語を読んでいるようだったので、正直、涙が出てきて、まるで私が百パーセント過失を犯してしまったかのように感じたし、その手紙を何度も読み返しては、繰り返して同じ箇所で、目をつぶって脳裏に浮かぶ、もと妻との楽しかった生活を色々と思い浮かべて、涙で頬を濡らすのだった。それでも涙を流すことは心の浄化に良い影響を及ぼしていたらしく、自然と何らかの良い考えというか、前向きな気持ちになってきたらしく、私は写真家として大切にしてきたフイルムカメラを何台か売って、そのお金で最新式のデジタルカメラを買ったのだった。小樽から愛車のアウディTTで札幌の街で写真を撮り、夕張のさびれた廃屋のような建物をモノクロで撮影して、人々の歩く姿や、声をかけてポートレートを写して、パソコンに画像を取り込んで、気に入った写真を編集していく作業に没頭していった。美しい女性の、些細な表情を写している写真を編集者に見せると、彼は決まって口笛を鳴らして、これ、良いね。と言って、喫茶店に誘ってコーヒーを飲みながら、パソコンの画像を見つめながら、写真をリストアップしていくのだった。季節は9月に入り、真夏の暑さから解放されて、ホテル内にある喫茶店で朝食を摂っていると、ウェイトレスの一人が目に留まって声をかけた。

「すみません、仕事中に、私はフリーのカメラマンの河崎と言います。写真を撮りたいのですがよろしいですか?」私は名刺を取り出して彼女に手渡した。

「今、仕事中なので、すみません、申し訳ありませんが…」彼女は照れたように両手を胸元にあげて軽く振った。

「そうですよね、仕事中すいません。でしたら仕事が終わってから撮影してもいいでしょうか?あなたのその表情は、深海からわき上がってきたような、素敵な生命力を感じさせます。本当に素敵だ」

「私みたいな特徴のない、ふつうのウェイトレスですよ。それに恥ずかしいです。人に、それもプロの写真家に撮られたことなんてないですし」

「大丈夫です。みんな最初はそう言って断るんです。でも、私の口車にはまって最終的には素敵な自分がのっている写真を見て喜んでくれる。きっとあなたも満足してくれるはずです。経験からそう言えるんです」

「本当ですか?私みたいな…何の特徴もない人間で…」

「いつでもよろしいです。連絡先は名刺に書いてあります」私はにっこりと微笑んで、彼女のネームプレートを見た。寺崎と書いてあった。彼女は私の笑顔を見て緊張を解いたようだった。そして私は彼女に好感以上の感情を抱いていることに気づいた。元妻のことが一瞬思い出されたが、すぐにその思いは消え去って、今目の前にいる素敵な寺崎という女性が必要以上に私の心を揺さぶり始めていることに、喜びを感じた。彼女ともっと親密になりたい。彼女のことをもっと知りたい。そんな気持ちを宿したまま、この場を去るのは忍びがたかったけど、彼女から連絡がくるのを期待して喫茶店を出ることにした。レジに向かうと彼女は私が残したコーヒーカップと朝食の皿を片付けているところだった。それから私に視線を向けて恥ずかしそうに、それでいて微かに照れた表情をして見せた。私は手を挙げて挨拶をすると、彼女を緊張を解いたように、軽く会釈をして、それから微笑んだ。ホテルを出る時、彼女の姿の残像を脳裏に刻み込み、二度と忘れられないように念じた。

駐車場に停めてある車に乗って小樽に帰る途中、ずっとFMのラジオを聴いていて、好きな曲がかかっていたので気分をよくして鼻歌を歌って国道五号線を走った。小樽の自宅に着くと、車を車庫に入れて自宅のドアを開けて玄関に入ると、私の元妻が立っていた。

「ごめんなさい、ずっと待っていたの。久しぶりね、元気にしてた?鍵を返そうと思って、それに、最後にあなたの姿を記憶にとどめていなくてはいけないと思って、これって自己満足かしら?本当に私って最低な女ね」かずみはそう言って悲しそうに微笑んだ。

「驚いたよ。まさか家に来るなんてね。正直、困惑している。君が浮気をしているなんて。でも手紙を読んで、君の気持ちが生半可なものではないことはわかった。理解するまでには相当な時間がかかったけど。でも、まだ現実とは考えられないというか、まるで一つの物語が展開しているといった感じがする。なんだか不思議な気持ちだ。分かるかな?」私は玄関とドアの間で突っ立って、かずみが手にしている銀色に輝く家の鍵を見つめながら、その鍵がこれからの展開を示しているのではないかと、ぼんやりと考えていた。でも、そんなことはない、鍵はあくまでも鍵だ。かずみは手にした鍵を私に渡そうとして上げて、でも、その手が私に触れることを怖れるように微かに震えていることに気がついた。私はそれが彼女のせめてもの償いの思いの現れだと思い、その手を握った。かずみは耐えきれず泣き出した。

「もう終わったことだ。何も心配する必要はない。君だけが悪いわけではない。きっと、君のことを理解する気持ちが、俺にも欠落していたんだろう。そうだ、お腹すいてないか?出前で寿司でもとろうか?」

「ええ、ありがとう。じつはお腹ペコペコ」かずみは涙をぬぐってから笑った。私は安堵して同じように寂しく笑った。

「あなたはいつも優しいのね。こんなひどい問題を起こした私にも同情できる。でも忘れないで、どんなに優しくされても女はそれを綺麗さっぱり記憶から除去することができる。あなたの優しさは温かいけど、私に痛みをあたえることがあるってこと。でもありがとう。それだけは今の素直な気持ち」

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