第三十六話 『バニシング・ポイント』 6. 決裂
教室に入った礼也の顔を確認したその瞬間、楓の顔色がすっと変わった。
もともと笑みのない表情がさらに暗く淀み、不自然に顔をそむける。
それがあまりにもわかりやすかったためか、脱力感にまみれた礼也が深いため息を漏らした。
気を引き締め直して楓の方へと向かう礼也。
が、声をかけようとした途端に、楓は近くにいた同級生の名を口走りながら席を立ったのだった。
そのあからさまな避けように、礼也はまたもやため息をつき苦笑するしかなかった。
「桐嶋さん」
廊下で呼び止められ楓が振り返ると、そこには正義感に燃える光輔の顔があった。
「礼也の奴、謝った?」
「うん? ……う、うん……」
元気のない様子の楓に、光輔がやっぱり、という顔になる。
「まだ謝ってないのか、あいつ」
「う、ん……」
腕組みして憤慨する光輔に、楓は何とも言えない表情を向けるだけだった。
「あんなに言ったのにさ、あいつったらほんと。夕季も怒ってたよ。桐嶋さんには止められてたみたいだけど、我慢できなかったんだって。あいつがあんなにムキになってたのも珍しいよ。いつもは怒ってても、あそこまで感情的にはならないからさ。……やっぱりいつもあんなもんかもしれない」
「……」
「あいつのお姉さんや、雅にもめちゃくちゃ怒られたらしくってさ、反省してる様子だって聞いてたからどうかなって思ってたんだけどさ。しょーがない奴だな、まったく。またしぃちゃん達に言ってもらわなくちゃ」
何も返さず、ただ光輔の顔に注目する楓。
それにふっと笑いかけ、光輔は優しげな口調で続けた。
「大丈夫だよ。あいつさ、夕季の姉さんには頭上がらないから。雅って一つ年上の子にも。去年までこの学校にいたんだけどさ、知らないよね。あいつ、その二人に嫌われると困るから、きっと桐嶋さんに謝ってくると思うよ。メロンパンとか買ってさ」
「……」
自身満々の光輔の顔をじっと見つめる楓。
その真意に、光輔は気づくよしもなかった。
「俺達は桐嶋さんの味方だから、なんでも言ってよ……」
「あのよ……」
終日逃げられ続け、最後の最後に、ついに礼也が楓を捕捉することに成功した。
昇降口へと向かう廊下の角で鉢合わせてしまっては、楓にも逃げ場所はない。
「なあ」
それでも尚、逃げ出そうとする楓の背中を、礼也の声が追いかけた。
「悪かったって」
ぴたりと立ち止まる楓。
それを見て、ややほっとした様子で礼也が懺悔の言葉を述べ始めた。
「なんかカーっとしちまって、いろいろ言っちまって、ほんとよ。俺もわけわかんなくてよ」
「……」
「なんつったらいいのかわかんねえけど、光輔や夕季達にもムチャクチャ言われてよ。あいつらなんざ、ザコみてえなモンだからどうでもいいんだが、よくわかんねえけど、やっぱ悪かったのかって思ってよ。俺は俺でいっぱいいっぱいだったし、なんも考えてらんなかったけどよ、ザコはザコなりに考えてるみたいだしよ、おまえにもおまえの考えがあったんだろうしな。やっぱ余裕なくてイラッとしてたのも確かだしよ」
「本当に悪かったって思ってる?」
「!」
振り返りもしないでそう告げた楓に、礼也が口をつぐむ。
一瞬だけムッと口を尖らせたものの、礼也は感情を押さえて次の言葉を継ぎ足した。
「まあ、あそこまでみんなに言われちゃ、さすがに……」
「みんなに言われたからそう思ったんだよね。自主的にじゃなくて、穂村君や古閑さんに言われたから仕方なく」
「そうは言ってねえだろ!」
「悪かったとは思ってないんだよね。だったら簡単に謝っちゃ駄目だよ」
「はあ! なんだ、そりゃ!」
楓に責め込まれ、さすがに気分を害した礼也が眉間に皺を寄せる。
その心情を見透かすように、楓は続けて言った。
「私は自分が悪かったって思ってる。だから本当に許してくれるまでは、話しちゃいけないと思ってる。じゃないと、自分が許せないから」
背中を向けたままそう告げ、楓が走り出す。
「くそ……」
悪態をつきつつも、礼也はその後を追うことができなかった。
楓の背中が泣いているように見えたからだった。
楓が駆け込んだのはトイレの中だった。
個室の鍵をかけると同時に、堰を切ったようにぼろぼろと泣き始める。
声こそあげなかったが、その表情は悲壮感で埋めつくされていた。
「何やってんだろ。一人で勝手にこじらせて……。こんなつもりじゃなかったのに……」
心の中にとどめておくはずの言葉が勝手に口をつく。
『壊れた、壊れてしまった。そうなることがわかっていたはずなのに、壊してしまった。もう二度と、元へは戻らない……』
くしゃくしゃになった顔のまま、楓は己への戒めを心に刻み続けるだけだった。
不機嫌な様子で学校の敷地から出る礼也。
近づいてくる視線に気づくと、ちらと目をやったまま、ぶすっとそれを睨みつけた。
「てめえか」
低い声で一穂にそう告げる礼也。
彼を知る人間ならば触れることすらためらうテンションであるにもかかわらず、一穂はまるで動じずに用件を切り出した。
「来てくれるの」
「今日はやめだ」
淡々と告げる礼也に、わずかに一穂が表情を曇らせる。
「どうして」
「気分がのらねえ」
「明日は」
「明日も駄目だ」
「いつならいいの」
「いつでも駄目だ」
「どうして!」
「どうしてもだ」
「……」ムッとなり、それでもなんとか突破口を開こうと模索する一穂。「どうしたら来てくれるの」
「はあ!」
一向に諦める様子のない一穂に、礼也が言葉を失う。
それを諦めさせるために、もっとわかりやすく伝える必要があった。
「会いたく……」
そこまで言いかけ、礼也が絶句する。
すぐそばで目を見開き、口を開けたまま立ちつくす、楓の姿があったからだった。
「……遅かったじゃねえか」
咄嗟の判断で礼也が強引に作戦を切り替えた。
「待ってたぜ、桐嶋。さあ行くぞ」
「……」
状況がわからず、ただ礼也の顔に注目するだけの楓。
涙のあとを隠すことすら忘れてしまっていた。
「ということだ。今日はこいつと先約があったんだ」
すると礼也の言葉も無視して、一穂は楓へと迫っていった。
「なんであんたがいんの」
「だから、先に約束があったって……」
「なんで邪魔すんの!」
礼也の声をかき消し、一穂が楓を睨む。
その迫力に、わけがわからぬまま楓は萎縮するだけだった。
「おいこら、てめえ、いい加減にしろ」
さすがに腹に据えかね、礼也が一穂の肩をつかむ。
が、そのコワモテにもまるで怯むことなく、一穂は礼也を睨み返した。
あいも変わらず、わけがわからぬままおどおどするだけの楓。
それでもこの険悪な雰囲気を何とかしなくてはという気持ちがあった。
「ね、え、二人とも落ち着いて……」
「……」
「……」
引きつる笑みを差し向け、楓はお決まりのジェスチャーを繰り返すだけだった。
「もっとちゃんと話そうよ。本当の兄妹なのかもしれないんだから……」
「てめえは黙ってろ!」
「!」
振り向きざまに怒鳴り散らす礼也の圧力をまともに浴び、もらい事故とも言える迷惑な現場にい合わせた楓が一歩退く。
そこで自分でも理解できない感情の起伏が渦巻き、先のこともあってかフェザータッチとなっていた楓は、口もとをわなわなと震わせ出したのである。
「うぐっ……」直後に起こる超爆発。「あああああぁんっ!」
顔を子供のようにくしゃくしゃにゆがめて号泣する楓の姿に、さすがに礼也も顔色を変えてうろたえ始めた。
「お、おい、おまえ、何泣いてんだって!」
「あああああぁ~んっ!」
「おいっ、非常識だろ、おまえよ!」
「だって、だって、うあああああぁ~んっ!」
「……」
どうしたらいいのかわからず、おろおろとうろたえるだけの礼也。
それを無表情に眺め、一穂がおもむろに泣き喚く楓のスカートに手をかけた。
「はああああ~っ!」
「何やってんだ、てめーは!」
礼也にぺちんと頭をはたかれ、一穂がぶすっと口を尖らせた。
「……またいちごだ」
「はあ!」
「あああああぁ~んっ! はあああああぁ~ん……」
一穂は表情もなくその病院に入って行った。
わき目も振らずに待合所を抜け、なれた様子でエレベーターのボタンを押す。
五階でエレベーターを降り、すれ違う人間にぺこりと頭を下げ、通路を歩いて一番奥の四人部屋へと入室した。
入り口付近の左手に顔を向けると、そのベッドの主が顔を向けた。
パイプ椅子に腰を下ろす一穂を目で追い、その老人が弱々しく口を開く。
「もうここへは来るなと言っただろう」
両方の鼻腔にチューブを差し込み、うまく開かない口元をもぐもぐとうごめかせた。枯れた枝のようにしわがれた細い腕には、常に点滴の針がつながった状態だった。
その疲れきった顔を眺め、一穂が礼也達には見せなかった優しげな笑みを差し向ける。
「うん。でもどうしても爺ちゃんに会ってほしい人がいるんだ」
「私に……」
一穂の優しそうな顔を横目で見て、老人が何かに気づく。
天井に向かって姿勢を戻すと、あえぐようにその目を閉じた。
「もういい。私にしてやれることは何もない」
その真意を汲み取り、一穂が困った表情になる。
「そんなことないよ。あの人も会いたがってた。もう、何とも思ってないって……」
うっすらと目に涙を浮かべながら一穂が笑ってみせる。
老人はそれに答えようとはせず、ただぜえぜえと苦しげにあえぐだけだった。
無表情のまま一穂がその家の門をくぐっていく。
裕福そうな邸宅の玄関を開けるや、そこで一人の人物が一穂を出迎えた。
腕を組み、開いた足でいらつくようにリズムを刻む。
その姿を確認した途端、一穂の表情が暗く翳った。
「遅かったわね、一穂さん」
「はい、すみません……」
「今が何時かくらいはわかっているわよね」
「……」
母親と思しきその女が、責めるような口調で一穂の謝罪を押さえ込む。
一穂はそれきりうつむいたまま、何も言わなくなった。
「ママ」
その声を聞いた途端に、女の顔が柔和に変貌する。
奥から顔を見せた小学校高学年頃の少年は、一穂をちらと見やると何も反応をしないまま、再び母親へと笑顔を向けた。
「先生がお帰りになるそうです」
「まあ、もう」母親の顔が輝きを増す。「お見送りしなくちゃね。すぐ行きますって先生に言ってらっしゃい」
「はい、ママ」
素直に頷き、少年がまたうつむいたままの一穂にちらと視線を向ける。
その表情は軽蔑しきった人間に向けるものだった。
少年の後ろ姿を笑顔で見送る母親。
しかしその姿が見えなくなると、また一穂に険しい顔を向けるのだった。
「後でお部屋にいらっしゃい」
冷たく言い放ち背中を向けた彼女に、うつむいたままの一穂が、はい、と小さく答えた。




