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第三十六話 『バニシング・ポイント』 4. 心配だったので

 


 礼也は一人、もの思いにふけっていた。

 先日のことを思い返していたのだ。

 ひのとと名乗った人物の正体は、(ひのと)一穂という少女だった。

 本人いわく、礼也より四つ年下の、血を分けた実の兄弟であるとのことだった。

 それ以上のことは口にしない。夜も遅い時間だからと、忍が送っていく旨を伝えても、一穂はそれを頑なに拒むほどだった。

「今はまだ何も言えない。でも会ってほしい人がいる」

 ちらちらと気になるテレビの恐怖映像にビクビクしながらも、真面目な顔でそう言い残して。

 連絡は自分からするので、それまで待ってほしいとのことだった。

「礼也君」

 礼也が顔を向けると、心配そうに覗き込む楓の顔があった。

「ん……」

 リアクションの薄い礼也の様子に、楓がじれたように切り出す。

「……あれからどうなったのかなって、思って」

「……」

 楓には一穂のことは何も伝えていなかった。とりあえず一穂の言うまま、昔からの知り合いの少年というままにしてある。

「たいしたことねえよ」

 抑揚のない声で礼也がそう告げると、楓はまた気になる様子で顔を覗き込んできた。

「あ、でも、なんとなく元気ないかなって。……何か気になることでもある?」

「……。別によ……」

「……」

「昨日のおばけのやつ、観たか」

「……観てない」

「んじゃ、いいわ」

「何それ」

「だからたいしたことねえって言ったじゃねえか」

「……ほんとだね」

 一日中そういった様子で、ほとんど口数もないまま下校時刻を迎える。

 礼也はポケットに手を突っ込んだまま難しい顔で昇降口から出た。

 その後をつけるように追いかける影あり。

 楓だった。

 礼也に見つからないように物陰に隠れながらの尾行を続ける楓の顔も、また難しいものだった。

「何やってんの?」

 校門の近くで背後から声をかけられ、思わず楓がぴょんと跳び上がる。

 戦慄の表情で振り返ると、そこには不思議そうに注目する光輔の姿があった。

「忍者ごっこ?」

「あ……」目を泳がせ、ぱん、つーのアクション。「……フレールに行こうと思って」

「はあ?」

 瞬間、きょとんとなる光輔。すぐに、ああ、という顔に変わった。

「ああ、あのパン屋さんか。そうそう、うまかったんだよな。俺も行こうかな。行ってもいい?」

「いいけど……」

「よし、今日の晩メシにしよう。あ、夕季達にも何か買っていってやろうかな。あれ、ひょっとして今日あいつ、桐嶋さんち寄ってくつもり?」

「うん、たぶん……」

「俺も寄ってこうかな。洋一とほのかの分も買ってさ」

「穂村君」

「ん?」

 一人で勝手に喋り出した光輔をじっと見つめ、楓がなんとか切りかえた頭で突破口を開こうと行動に出た。

「昨日の子、結局誰だったの?」

 なるべく平静を装ったつもりだったが、光輔の何気ない、ん? のリアクションに、またまた楓が意味のないジェスチャーを繰り返した。

「ああ、あの、それほどってわけでもないんだけど! びっくりしたから! あ、あんな時間にね、ぬうっと現れて。私の……、それはいいんだけどね! 礼也君の知り合いって言ってたけど、別にどうってわけでもないし、どうでもいいんだけど……」

 言葉が途切れる直前にも、自己嫌悪を含んだ表情で、ぱんつーを三回ほど織り交ぜた。

「ああ、かずほのことね」

 あっけらかんと答えた光輔に楓の目が点になる。

「……。私が言ってるのって、ひのと君とかいう男の子のことなんだけど……」

「だからさ、そいつが一穂だったんだよ」

「?」

 要領を得ずぽかんとなる楓。

 それを察し、光輔が補足をし始めた。

「女の子だったんだよ、あの子。ひのとって言うのは苗字の方でさ。最初は弟だって言ってたんだけど、後から妹だっていうことがわかってさ。びっくりしたよ、マジで。雅は最初からわかってたみたいだけど。ああ見えて結構ヘタレでさ、こわがりなのにこわいテレビとかが好きみたいで、ガン見しちゃってて、帰り、ビクビクしながら帰ってった。しぃちゃんがさ、夕季のお姉さんが送ってってくれたんだけどさ。俺と礼也もだけど。最初はずっと断わってたんだけど、やっぱこわかったみたいでさ、結局、車で。家まで送ってくって言ってくれてるのに、結局、一穂は駅まででいいって降りてった。あの後、ちゃんとうちまで帰れたのかな? 俺と礼也は自分ちまで送ってってもらったんだけどさ。あの子も無理しないで送ってってもらえばよかったのにな。あんなにこわがってたくせに。いや、俺はそれほどでもなかったんだけど、夕季のお姉さんがちょうどコンビニに行くって言うから、ついでに送ってってもらっただけなんだけど。まあ、こわかったんだけどさ、それが理由じゃなくてさ。しぃちゃんが送ってってくれるっていうから、じゃあそうしようかなって。いや、つくりもんだってのはわかってんだけどさ。桐嶋さんも観た? こわいの」

「観てない」

「じゃあ県警二十四時間観てた? 大阪のやつ」

「観てない……」

「あ、わかった! はじめてのお疲れだな!」

「……違うけど」

「じゃあ、なんだろ!」

「……」

 新しい情報と不要な情報が多すぎて全体像を把握できずにいる楓。少しずつ状況を整理し、やがて昨日の少年が実は礼也の妹だったのに、何故だか弟だと偽って近づいてきていたということにたどりついた。

 その内容が遡って鮮明に頭に入り、ようやくその意味を深く理解する。

「妹! 礼也君の!」

「うん、そう」こともなげに頷く光輔。「そう言ってたけど、まだよくわかんないよ。証拠も何もないし。女の子なのは確かだよ。あ、まあ、確かめたわけじゃないんだけどさ。でも顔とかよく見ると何となく礼也に似てるような気もするけど。昨日って、他にいいやつやってたっけ?」

「……」

 硬直してしまった楓を、光輔は不思議そうに眺め続けるだけだった。

「何やってんだ、てめーら」

 礼也の声に硬直を解かれ、再びバネのようにぴょんと飛び上がる楓。

「あ、うん。桐嶋さんにさ、昨日のこと話してたんだけどさ」

 あっけらかんとそう答える光輔とは対照的に、楓は引きつる表情でこわごわと礼也に振り返った。

 案の定、その顔が怒りに染まっていることに気づいて、楓が竦み上がる。

「話したのか、あいつのこと」

「ああ、うん、ちょっとだけ」

「ちょっとって、どこまで」

「一穂がおまえの妹ってとこまで。あとは知らないし。あ、こわがりってのも」

「んだと、てめえ!」

「何怒ってんの、おまえ……」

 ふいに胸倉をつかんで締め上げにかかった礼也に、光輔の顔色が豹変する。

 その時になってようやく光輔は、礼也が何も楓に告げたくはなかったことを知った。

「あれ、言っちゃまずかった……」

「ったりめーだ! それをぺらぺらと喋りやがって!」

「や、でもさ、そんなたいしたことは……」

「たいしたことねえってのか。人ごとだから!」

「や、そういうわけじゃ……」

「やめてよ、礼也君」

 光輔が危険な目にあっていることに責任を感じ、割って入る楓。

「穂村君は悪くない。私が聞いたことに答えてくれただけだから」

 それすらもギロリと睨みつけ、礼也は重なる怒りを爆発させた。

「てめーになんの関係がある! 何、勝手に聞いてやがんだ」

「それは……」言い訳が何も思い浮かばず、楓が繕うように笑い始める。「ごめんなさい。ちょっと気になって。礼也君、元気なかったから、どうしたんだろうって思って」

「それがてめえに関係あんのか!」

「ないけど、ないけどね!」焦って、ぱんつー、ぱんつーを繰り返す楓。「あ、今から穂村君とフレール行くんだけど、一緒に行かない? 今日、いろいろ安い日だよ」

「行かねえよ!」

「あ、そう……。でも、だったらね……」

「もういい」

「……」

 押し殺した礼也の声に、楓が言葉を失う。

 最近礼也があまり出さなくなった雰囲気だった。

「もう俺に話しかけんな」

「礼也君……」

「その呼び方もやめろ」

「……」

 背中を向ける前に、一度だけ礼也が楓の顔を見やる。

 その表情は憎悪に満ちたものだった。

 もう二度とわかりあえないかもしれないと思わせるほどの。

「ちょっと、おまえさ……」

 ショックで動きすら止まってしまった楓がしのびなく、光輔が礼也を呼び止めた。

「そういう言い方ってないだろ。せっかく桐嶋さん、おまえのこと心配してくれてたのにさ」

「んだあ!」

 振り返り、じろりと光輔を睨みつける礼也。

「それがおせっかいだっつってんだ! てめーもだ! 人の知られたくねえ事情、ぺらぺらぺらぺら関係ねえ奴に喋りやがってよ! 何がせっかくだって!」

 が、その威圧に屈することなく、光輔は珍しく自分の正義感を貫くのだった。

「桐嶋さん、別に悪くないだろ。悪いのはべらべら喋った俺の方なんだから。そういうのってよくないよ。桐嶋さんに謝れよ」

「ふざけんな、てめえ!」

 またもや胸倉につかみかかる礼也。

 今度は光輔も睨み返したため、一触即発の状況となっていた。

「てめえもだ。てめえも二度と俺に話しかけんじゃねえ!」

「なんだよ。雅だって桔平さんとかにべらべら喋ったって聞いたぞ。あいつにも同じこと言うのかよ」

「ったりめえだ! どいつもこいつもバカばっかだな! めんどくせえ! まとめてどっかいけって!」

「俺はいいよ、別に。でも桐嶋さんには謝れ。じゃないと、おまえのこと許さないからな」

「どう許さないってんだ、言ってみろこら!」

「絶対許さない!」

「ああ!」

「もうやめてよ、二人とも!」

 激ヤバの事態にたまらず割って入る楓。その表情は今にも泣き出しそうだったが、この喧嘩の原因が自分である以上、黙って放ってはおけなかった。

「てめーはすっこんでろ!」

「そういうわけにはいかない」

「はあ!」

「穂村君は悪くない。全部私のせいだから。だからもうこんな意味のない喧嘩しないでよ」

「んだと、てめえ!」

「私が悪かったんだから謝ります。ごめんなさい」礼也の前で深々と腰を折り曲げる。「もう二度と、れ、霧崎君にも話しかけません。だからもうやめてください。お願いします」

「桐嶋さん……」

 あっ気に取られる光輔と同様に、礼也が言葉を失う。

 顔を上げた楓のくしゃくしゃの表情の中に、悲しそうな涙のかけらを認めたからだった。

「今、取り込み中?」

 ふいの抑揚のない声に三人が振り返る。

 そこにはコートに両手を突っ込んで不敵に立ちつくす一穂の姿があった。

 ベージュのコートを羽織っているため制服がどこのものかまではわからなかったが、昨日とは違い女の子であることは一目でわかる。

「一穂……」

 呟く礼也にちらと目をやり、凝り固まる光輔と楓の前まで無言でやって来る一穂。

「……。初めまし……」まばたきもせずにそう言いかけ、楓がすぐに訂正した。「……こんにちは」

 じろりと楓を睨めつける一穂。

 その迫力に固唾を飲み込む光輔と楓。

 なんと言おうか、その表情と雰囲気、そして威圧感までも、礼也のそれにそっくりであった。

「あんた誰」

「私は、……霧崎君の同級生で……」

「ふーん」

 楓の顔を睨みつけながら、一穂が眼前で足を止める。

 一歩下がって警戒する楓を上から下まで舐めまわすように眺め、やにわに一穂が楓のスカートをまくり上げた。

「ひぃやああああーっ!」

 変な悲鳴をあげつつ顔を真っ赤に染めて楓がスカートを押さえる。

 その光景を礼也と光輔は目を点にして見続けるだけだった。

「何やってやがんだ、てめーは!」

「ぱんつー丸見え……」

「ああああ~ん……」


 ジョトの散歩を終え、洋一、ほのかとともに、夕季が楓の家まで帰ってくる。

 冬場の夕刻はすでに暗くなり、キッチンには夕食の仕度をし始めた楓の姿があった。

「おかえりなさい」

 三人の帰宅を知り、笑顔で振り返る楓。

「あ、古閑さんもありがとう。ごめんね、こんな時間までつき合わせちゃって」

「いえ……」

 それに対する不満は特にない。むしろ遅くなったことを咎められることの方が、夕季にとっては問題だったのだから。

「よかったら食べてく?」

 ほがらかに誘う楓に、夕季は静かに首を横に振ってみせた。

「いえ、いつもいつも悪いですから、今日は帰ります」

「え~!」

 洋一とほのかが口を尖らせる。

「いいじゃん、一緒に食べようよ~!」

「せっかくですから!」

 困ったような顔を二人に向ける夕季。

「でもお姉ちゃんにも帰ってから食べるって言っちゃったし」

「え~!」

「え~!」

 それを眺め、楓が残念そうに笑った。

「そっか。古閑さん来るって聞いてたから今日カレーにしたんだけど、無理言っちゃ悪いよね」

「……」

「私が作ってもお姉さんみたいにおいしくないだろうし……」

「せっかくですからいただきます」

「あ、でも、いいの? 家で用意してあるんじゃ……」

「そこまでおっしゃるのなら、姉もきっとわかってくれると思います」

「……そう」

「カレーだ」

「カレーの勝ち」

「……」

「だけど、市販のルーのやつだよ」

「大丈夫です。うちも市販のルーですし」

「……そうなの」

「私も手伝います」

「あ、あ、いいのに……」

「いえ、手伝います」

「……じゃあ」

「その前にメールさせてください。すぐに戻ってきますから」

「ええ……」

 強引な理論を無理やり通して、夕季が桐嶋家の食卓に残留する。

 その旨を忍宛てにメールしようとした夕季の手が、ふと止まった。

 カレーに気を取られていたせいでスルーしてしまっていたが、楓の様子がいつもと違っていることにようやく引っかかったのである。

 いつもより愛想がよく、いつもより無理して笑っているように夕季には見えたからだった。

「お姉ちゃん、なんで泣いてるの?」

 洋一の声にそろりと顔を向ける夕季。

 すると包丁を手に、笑いながら涙をこぼしている楓の顔が目に入った。

「どおしたの~」

 覗き込むほのかに明るい笑顔を向ける。

「うん、たまねぎがね……」

「まだ切ってないじゃん」

「お肉切ってるじゃん。あ、牛肉だ! 見栄はるだ!」

「……」

 それを契機に、口もとをゆがませ、ぼろぼろと涙を流し始める楓。もはや笑顔を保つことは不可能だった。

「どうしたの」

「どおしたの~」

「……。なんでもない。なんでもないから……」

「お姉ちゃん、包丁!」

「あぶないから~!」

「ああ、ごめんね……」

 包丁を持つ手で何度も涙を拭う楓を、夕季は複雑そうに眺めていた。





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