第2話 実家の超絶ホワイト化と王宮の胃痛
平穏な老後を掴み取るための戦いは、逆行転生を果たしたその当日から始まった。
マリーにお熱を測られ、冷たいタオルで額を冷やされながらも、私の頭の中は今後の人生設計でいっぱいだった。
目指すべきは、権力闘争とは無縁の、田舎でのひっそりとした隠居生活。
そのためには、無駄に目立つ公爵令嬢としての身分をいつでも脱ぎ捨てられるだけの「確かな手に職」と、一生食いっぱぐれないための「潤沢な老後資金」が不可欠だった。
「まずは魔法ですわ!何があっても死なない、絶対に断頭台送りを回避するための、有能な治癒魔法。これさえあれば、世界がどう転ぼうとも私は町医者として生き延びられますもの」
前世の私は、公爵家としての莫大な魔力量を持ちながらも、その制御のための努力を怠っていた。
今世では、その有り余る魔力を一滴の無駄もなく使いこなさなければならない。
数日後、公爵家の筆頭錬金術師であり、私の幼い頃からの魔法の家庭教師でもある白髪の老爺――クラウスが部屋へやってくると、私は基礎的な治癒魔法の授業を食い入るように受けた。
「リゼお嬢様。治癒魔法とは、対象を癒やす温かい光をイメージし、魔力を優しく注ぎ込むことが大切で――」
「クラウス先生!温かい光などという曖昧な精神論では困りますわ。私が求めているのは、もっと確実で、絶対に失敗しない術式です。魔力回路の繋ぎ方、魔力放出の完璧な手順を叩き込んでくださいませ」
「は、はい? しかし、お嬢様はまだ基礎を学ばれる段階で……それに、そのような精密な回路操作など、王宮の熟練の術師でも至難の業ですぞ?」
「悠長なことを言っている暇はありませんの!」
(将来、町医者として食っていく上で、治せませんでしたでは済まされないのよ!)
「公爵令嬢たるもの、いざという時に領民一人救えないような、見掛け倒しの魔法など無用ですわ! 魔力回路が焼き切れようと構いませんから、実戦的で確実な技術を教えてちょうだい!」
クラウスが困惑するのも無理はなかった。
彼から見れば、十歳の少女が血走った新緑の瞳で「自己犠牲も辞さない覚悟」を熱弁しているように映ったのだろう。
(もっとも、実際の私の頭の中は『絶対に食いっぱぐれないための確実な医療技術』を手に入れる執念でいっぱいだったのだけれど)
その凄まじい気迫にすっかり気圧され、困り果てた彼から強引に「魔力の流し方」と「治癒の原理」を聴き出した私は、それから文字通り、狂気的な特訓を開始した。
自室に引きこもり、自らの指先を針で深く突いては、その傷を癒やす訓練を延々と繰り返す。
最初は全く上手くいかなかった。血は止まらず、傷口は塞がらない。
私には天賦の才がないという事実を突きつけられたが、あの断頭台の記憶がある限り、心が折れることなどなかった。
死にたくない、惨めな最期を迎えたくないという執念が、私を突き動かした。
感覚でできないのなら、無理やりにでも己の魔力回路をこじ開け、体に叩き込むしかない。
「うぅ……っ!」
まだ未発達な細い魔力回路に、本来許容量を超える魔力を限界まで絞り出して通す。
すると、脳の奥が焼け付くような激痛と、強烈な吐き気に襲われた。指先の痛みなど比ではない、魂を削られるような苦痛だ。
(くっ……これしきの痛み!断頭台の冷たい刃の恐怖に比べれば、どうってことありませんわ……!)
唇を噛み切り、血の味を感じながら魔力を練り続ける。やがて魔力が完全に底を突き、視界がぐにゃりと歪んで、私はそのまま床に倒れ込んだ。魔力枯渇による気絶だ。
目が覚めると、ベッドの脇でマリーがこれ以上ないほど冷ややかな眼差しで私を見下ろしていた。
「お嬢様。床で行き倒れるのは今週で三度目ですが、新手の嫌がらせですか?」
「な⋯!マリー。これは嫌がらせではなく『超健康的な老後』のための基礎作りよ。さあ、お水を持ってきてちょうだい。魔力回路が空になった今こそ、押し広げるチャンスなのよ!」
屋敷の他の使用人たちの間では、自室に引きこもっては倒れる私の奇行に「お嬢様がついにご乱心された」「悪魔に取り憑かれたのでは」と不穏な噂が立ち始めていた。
だが、マリーが氷のような睨みと鉄壁の管理能力でそれらの声を完璧に黙殺してくれていたおかげで、私の特訓は誰にも止められることなく続いた。
そんな地獄のような気絶と復活を繰り返す日々が、数年続いた。
最初は「おやめください、お嬢様!」と泣きながら止めていたクラウスだったが、彼もまた錬金術や魔法の探求者である。
血反吐を吐きながらも、私の細い魔力回路が恐るべき速度で太く強靭に拡張され、魔法の精度が劇的に向上していく様を間近で見続けるうちに、彼の私を見る目は完全に変わってしまった。
『おお……なんという御方だ! 自らの身を削ってまで魔法の深淵に到達しようとなさるとは! お嬢様は本物の天才であられる! このクラウス、一生お供いたしますぞ!』
……なぜか、幼い頃から私を見てきた家庭教師から、涙ながらに狂信的な崇拝を受けるようになってしまった。
ただ老後のために必死なだけなのだが、専門家が手伝ってくれるなら好都合である。
――よし!これで手技としての「第一段階」はクリアですわ。
次に取りかかるべきは、第二の目標である「老後資金の確保」と、前世への最大の悔恨である「実家との関係改善」だった。
将来私が町医者になるとして、患者を治すたびに自分の魔力を削っていては、いずれ過労で倒れてしまう。
平民の患者でも気軽に買える「安価でよく効く薬」があれば、私の負担は減り、平穏な老後に近づくはずだ。
そして同時に、実家を出るための「自立資金(お小遣い)」を両親から堂々と引き出すには、公爵家の利益となる事業を提案し、その見返りを得るのが最も合理的だ。
「ならば、作るしかありませんわね⋯。実家の領地経営を助け、かつ私の将来の仕事に役立つものを!」
私が着目したのは、猛特訓の末に手に入れた「治癒魔法の応用」だった。
治癒魔法の基本原理は、「対象の生命力に働きかけ、自己治癒力を活性化させること」にある。私はクラウスに頼み込んで領地で採れる安価な雑草同然の薬草を取り寄せ、実験を開始した。
薬草をすり潰し、そこに自らの魔力を流し込む。
人間の傷を治すように、薬草が本来持っている「薬効成分」だけを治癒魔法でピンポイントに活性化させ、不要な灰汁や毒素を取り除くのだ。
……と、言葉にするのは簡単だが、その道のりは果てしなく険しかった。
失敗作は優に百を超えた。魔力操作をほんの僅かに誤って薬草を爆発させ、離れの研究室の壁を吹き飛ばしてクラウス先生に泣き付かれたこともある。
調合を間違えて有毒な異臭ガスを発生させ、マリーに無言で窓を全開にされ、三日間口を利いてもらえなかったことも一度や二度ではない。
壁を吹き飛ばした爆発音が響いた時、他の使用人たちは「お嬢様がついに屋敷を爆破した!」と大騒ぎになった。
両親の耳に入れば、実験は即刻中止となり私の老後資金計画は水の泡だ。
だが、青ざめる私をよそに、マリーは深々とため息をつきながら素早く大工を手配し、使用人たちには「クラウス先生の実験事故です」と淡々と説明して回ってくれた。
彼女の完璧な隠蔽工作のおかげで、多忙な両親が離れの惨状に気づくことはなかった。
平穏な老後のためなら、周囲から奇人変人扱いされようがどうでもいい。
私は諦めなかった。あの雨ざらしの断頭台の冷たさを思えば、何度失敗しようが、壁に大穴を空けようが、立ち止まる理由にはならなかったのだ。
血と汗と煤に塗れた数ヶ月の試行錯誤の末――私が十三歳の春を迎えた頃。
繊細な魔力制御を体に叩き込んだ私は、ついに純度百パーセントの薬液の抽出に成功した。
完成したそれは、瞬時に傷を癒やす『万能特効薬』となった。
さらに私は、その治癒の対象を「土壌」そのものに向けた。
これも一筋縄ではいかなかった。魔力を注ぎすぎて鉢植えの土を完全に干上がらせてしまったり、逆に雑草だけが異常繁殖して部屋がジャングルのようになったりと、クラウス先生の胃を痛め続けた。
だが、失敗の山から適正な魔力濃度を割り出し、ついに土が持つ本来の活力を引き出す術式を付与した『豊穣の肥料』を作り上げたのだ。
枯れかけた鉢植えにその肥料を与えると、一晩で青々と葉を茂らせた。
努力の結晶である二つの完璧な成果物を手にした私は、平素滅多に立ち入ることのなかったお父様の執務室へと足を運んだ。
「お父様⋯お忙しいところ恐れ入ります。リゼです」
重厚なマホガニーの机に向かい、書類の山と格闘していた金髪の紳士――クロムウェル公爵が、怪訝そうに顔を上げた。
「リゼか。どうしたのだ、私は今、来季の領地予算のやり繰りで忙しいのだが」
その口調は冷たくはないが、明らかに「子供の遊びに付き合っている暇はない」という多忙な当主のものだった。前世の私なら、ここで「お父様は私に関心がないのだ」と傷ついて去っていただろう。だが、今の私は違う。
「本日は、我がクロムウェル公爵領の未来の財政、ひいては私の将来の『軍資金』のために、素晴らしい提案を持ってまいりました」
私は机の上に、透き通った緑色の液体が入った小瓶と、肥料の製法を記した書類を並べた。
「私が開発いたしました万能特効薬と、豊穣の肥料のレシピです。これを用いて領地経営の大改革を行ってはいかがですか?」
お父様は深々と眉間を揉んだ。
「リゼ。お前が領地を思ってくれるのは嬉しいが、得体の知れない薬品を領民に使わせるわけにはいかない。どこぞの怪しい商人から買わされたのなら、すぐに捨てなさい」
「買わされたのではありませんわ。私が、クラウス先生の指導のもと、夜な夜な魔力を注ぎ込んで作ったのです。どうか、一度でいいから鑑定させてくださいまし」
私の引かない態度に、お父様がため息をつこうとしたその時だった。
執務室の扉が勢いよく開かれ、煤で顔を黒く汚したクラウスが血相を変えて飛び込んできたのだ。
「旦那様!! お、お嬢様! やはりこちらにいらっしゃいましたか!」
「クラウスか。騒々しい。リゼが持ち込んだ薬のことなら、今注意して――」
「注意などと、とんでもない!! 旦那様、これは……これは魔法史を、いや、この国の医療と農業の歴史を根底から覆す、画期的な大発明ですぞ!!」
当家の筆頭錬金術師でもある彼の絶叫に、お父様は目を丸くした。
「な、大発明だと? ただの緑色の水ではないのか」
「とんでもない! 高価な素材を使わず、その辺の雑草から薬効成分だけを魔法で極限まで抽出するなど、神業としか言いようがありません! 従来の十分の一のコストで、三倍以上の治癒効果が期待できます!」
クラウスは興奮で息を荒げながら、今度は肥料の書類を掲げた。
「さ・ら・に!この肥料!!土壌の活力を魔力で底上げするという前代未聞のアプローチです!試験用の畑に撒いたところ、なんと一晩で種が発芽しました! これさえあれば、我が領の小麦の収穫量はこれまでの数倍……いや、それ以上に跳ね上がりますぞ!」
「なんだと……!?」
お父様はガタッと立ち上がり、信じられないという目で私と小瓶を交互に見比べた。
「リゼ……お前が、本当にこれを……? 一体、どうやって……」
「旦那様、お聞きください!」
クラウスが、私を庇うように一歩前へ出た。その目には、熱い涙が浮かんでいる。
「お嬢様は、天賦の才に胡座をかくような御方ではありません! この数年間、何度も魔力枯渇で倒れ、指先から血を流し、研究室の壁を吹き飛ばして煤だらけになりながらも……公爵家のために身を粉にして魔法と錬金術の研究を重ねておいででした! 私は幼い頃からお嬢様を見てまいりましたが、これほどの努力と才能を併せ持つ御方は、間違いなく我がクロムウェル家の至宝です!」
その言葉に、お父様は目を見開いた。
「倒れる……? 壁を吹き飛ばしただと!? なぜ私に何の報告もなかったのだ!」
「それは……」クラウスが涙を拭い、声を震わせた。「お嬢様が『お父様たちは領地のことで忙しいのだから、私のことで心配をかけてはいけない』と、ご自身で隠蔽工作をなされていたからです……!」
「へ?」
違う。絶対に私の老後資金計画を邪魔されたくなかっただけだ。
私が訂正しようとした瞬間、少し開いていた執務室の扉から、お母様がふらふらとした足取りで入ってきた。どうやら、廊下で今のやり取りを全て聞いていたらしい。その目からは、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちていた。
「ぁあ、なんてこと……! 私の可愛いリゼが、お母様やお父様が忙しくしているのを気遣って、誰にも知られずに我が家のためにこんな奇跡の薬を……っ! こんなに小さな手で倒れるまで無理をして……!」
「お、お母様? 泣くようなことでは――」
「すまなかった、リゼ!!」
お父様が机を回り込み、私を力一杯抱きしめた。
「お前の深い家族への愛に、私は全く気づいてやれなかった! ただの我が儘な娘だなどと、どの口が言えたのか……! 許してくれリゼ、お前はなんて健気で愛おしい娘なんだ!」
「ああ、ごめんなさい、リゼ! お母様、もう夜会なんてどうでもいいわ! これからは毎日お前と一緒に過ごします!」
両親に強く抱きしめられ、私はポカンとするしかなかった。
私の切実な「老後資金」の訴えは、クラウスの狂信的な擁護と、両親の激しい懺悔の涙によって完全に掻き消されてしまったのだ。
前世の私は、死ぬ直前まで彼らが私に無関心なのだと思い込んでいた。けれど、やはり彼らはただ愛情の表現が絶望的に下手なだけで、きっかけさえあれば、こうして心の底からの愛情を向けてくれる人たちだったのだ。
この日を境に、実家のクロムウェル公爵家は、恐ろしいほどのスピードで「超絶ホワイト化」を遂げることとなる。
多忙ですれ違っていた両親のコミュニケーションは劇的に改善し、家庭内は常に温かい笑みに包まれるようになった。
それだけなら良かったのだが、後悔から来る彼らの愛情のベクトルがすべて私へと向いた結果、公爵家は完全に「娘絶対主義」へとシフトしてしまったのだ。
「リゼが新しいドレスを欲しいと言った? すぐに王都一番の仕立て屋を呼び出せ! あの肥料と薬の事業で出た莫大な利益の三割をリゼ基金へ!」
「旦那様、それでは領地予算が」
「では二割だ!」
「リゼの髪に合う最高級の髪飾りを東方から取り寄せなさい! リゼの提案した事業で領地はかつてないほど潤っているのだから、予算は無限よ!」
実家がホワイト化し、私への過剰な愛情(と、なぜか私の口座への莫大な資金提供)が止まらない状況に、私は戸惑いを隠せなかった。
「……まあ、結果的にお小遣いが増えて、老後資金が天文学的な数字に膨れ上がっているのですから、完璧な計算通り⋯ですわね!」
自室で、一ルピアのズレもない完璧な「老後資金帳簿」をパチパチと弾きながら更新し、私は満足げに微笑んだ。
私が開発した『万能特効薬』と『豊穣の肥料』は、お父様の手によって破格の安値で市場へと大量に流通し始めていた。
「これだけ安くて質の良いポーションが大量にあれば、平民の方々も病気や怪我に怯えることなく暮らせますわ。誰も死なず、誰も困らない世界。そして何より、安価で医療物資が手に入る平穏な下町。これで私の平民としての町医者ライフも、老後も安泰ですわ!」
完璧な帳簿の数字を眺め、私はこれ以上ないほど幸福な勘違いの海に浸っていた。
◆
同じ頃、王宮の最奥にある執務室。
この国の最高権力者である国王は、地方の監査官から提出された「クロムウェル公爵領の異常発展に関する報告書」を目にした瞬間、凄まじい頭痛に襲われていた。
「……何だ、これは。クロムウェル領の小麦の収穫量が前年比の四倍? さらに、市場の相場の十分の一の価格で、従来の数倍の効果を持つポーションが大量に流通しているだと⋯?」
報告書を読み進める国王の顔が、恐怖で青ざめていく。
安価で完璧なポーションの大量流通。それは一見、民を救う聖業に見える。しかし、その裏で起きているのは、既存の薬草採取人の失業、下町の真っ当な薬師ギルドの崩壊、そして既存の医療市場の完全な麻痺だった。
「クロムウェルの現当主は、これほどの経済兵器を一体どこから仕入れた……? まさか、我が王室の経済基盤を揺るがし、国を裏から支配するつもりか……!?」
恐るべき陰謀の気配(※完全な誤解)を察知した国王は、震える手で引き出しを開け、特製の胃薬を取り出した。
「くっ……胃が、胃が痛む……。特務騎士団と王宮監査官を動かせ。クロムウェル公爵家の動向を徹底的に調査するのだ……!」




