第1話 断頭台の冷たい雨
ざぁざぁと降り注ぐ冷たい雨が、かつて陽光を紡いだようだと讃えられた私の金髪を無惨に濡らし、白磁と呼ばれた頬を容赦なく打ち据えていた。
ひどく冷え切った石畳の広場。そこには血と泥が混ざり合ったような、鼻を突く鉄錆の匂いが立ち込めている。
広場の中央にそびえ立つのは、黒々と濡れた木材で組まれた無骨な断頭台だった。
重い足取りで一段、また一段と木の大階段を上るたび、私の両足首に嵌められた分厚い鉄の鎖が、じゃらり、じゃらりと虚しい音を立てて響いた。
広場を隙間なく埋め尽くす群衆からは、傘も差さずに私を見上げる数多の視線が突き刺さってくる。そこに同情や憐れみの色は一切ない。あるのは、純粋な憎悪と、国を焼いた悪が裁かれ、正義が執行されることへの熱狂だけだった。
「死ね、悪女!」
「お前のせいで俺の家族は……!」
「よくもあんな酷いことを! この国の恥さらしめ!」
飛び交う激しい罵声と共に、足元へ泥や石が次々と投げつけられる。
憎悪に満ちた群衆から投げつけられた尖った石が容赦なく額を割り、冷たい雨水に生温かい血が混じって視界を赤く染めた。
次々と飛んでくる石や泥が、仕立ての良かったはずのドレスを汚し、白い肌にどす黒い青痣を作っても、私を護ってくれる者はもう世界に誰もいない。
ただ一人、足を引きずりながら断頭台へと歩みを進めるしかなかった。
処刑台のすぐ傍らには、かつて私を信じ、側で支えてくれた男たちが冷然と並んでいた。
私の専属騎士として、誰よりも近くで私を守るために剣を振るってくれた黒髪の青年、フェリックス。
いつも余裕のある柔和な笑みを浮かべていた彼は今、最愛の弟を私に殺された憎悪を隠そうともせず、深い緑の瞳で私を鋭く射抜いている。
その手は、今にも私を自らの手で斬り捨てんばかりに、腰の剣の柄を白くなるほど固く握りしめられていた。
そして、私が前世で唯一、密かに心を寄せていた騎士団長、ルシウス様。誰もが目を奪われる絶世の美貌を持つ彼は、道端の石ころでも見るかのような、氷のように冷たい紫の瞳で、私が死地に立つ姿をただ無感情に見下ろしているだけだった。
なぜ、誇り高きクロムウェル公爵令嬢である私が、このような惨めな最期を迎えようとしているのか。
無実の罪を着せられたから?
それとも、誰かの悪質な陰謀に嵌められたから?
……いいえ、違う。群衆の怒りも、かつて私を側で支えてくれた男たちの激しい憎悪も、すべて私に向けられて然るべき、当然の報いだった。
「私がセレナ様に虚偽告発を行ったせいで、無実のルカが死に、国を二分する内乱を引き起こしてしまった……皆様の大切なものを奪った私は、本物の悪女ね⋯」
誰に聞かせるでもなく、ひび割れた唇から零れ落ちた独白は、容赦ない激しい雨音に掻き消されていった。
そう、すべては私の罪だ。私が自らの意志で選択し、引き金を引いてしまった、決して許されることのない大罪だった。
⋯⋯思えば、私の人生は常に、底の知れない「渇き」の中にあった。
⋯今ならわかる。
お父様もお母様も、私のことを愛していなかったわけでは決してなかったのだ。
ただ、広大な領地経営や社交界の付き合いに日々忙殺され、娘への愛情の伝え方が絶望的に不器用だっただけなのだ。
だが、当時の私は両親のその形に表れない不器用な愛に気づくことができず、「自分は誰からも愛されていない、不要な存在だ」と勝手に絶望し、ちっぽけな承認欲求に飢え切っていた。
愛に飢え、心が干からびそうになっていた私に、ほんの少しだけ優しくしてくれたのが、ルシウス様だった。
彼が差し出してくれた一枚のハンカチや、夜会の隅で一人うつむいていた私にふとかけてくれた温かい言葉が、私にとっては砂漠で見つけた命の水のようなものだったのだ。
けれど、彼の紫の瞳が本当に見つめていたのは、私ではなかった。
彼が見つめていたのは、輝くような金髪と澄み切った碧眼を持つ、非の打ち所のない完璧な令嬢――セレナ様だった。
彼女は、私が欲しかったものをすべて持っていた。周囲からの温かい称賛、揺るぎない自己肯定感、そして何より、ルシウス様の心。
彼女の眩しさが、私の心の中にある暗い嫉妬の炎を少しずつ、確実に煽っていった。
嫉妬と孤独で心が壊れそうになった時、私の耳元に囁かれた甘い毒があった。愛国者として名高く、王宮でも発言力を持つグレイ男爵の言葉だ。
『公爵令嬢たるあなたほど優秀な方が、報われぬ恋などにうつつを抜かすべきではありません。あなたは、この国を導くべき器なのです』
ただその一言が、承認欲求に飢えていた私の背中を最悪の方向へと突き飛ばした。
「国のため」という大義名分を得て、国を導く立派な存在になれば、両親も私を認めてくれる。
ルシウス様も私を選んでくれるはずだ。
そんな浅はかな考えで、私は自らの立場を確立するため、最大の目障りであったセレナ様に『虚偽の罪』を着せるという暴挙に出た。
私がついたのは、ほんの小さな嘘だった。
『夜会のバルコニーで、セレナ様が隣国の怪しい商人に、何かの密書を渡しているのを見ましたわ』
ただそれだけ。……ええ、本当にそれだけだった。私としては、彼女に少し不名誉な噂を立てて、しばらく社交界から遠ざかってくれればそれで満足だった。令嬢同士の、よくある嫌がらせで終わるはずだったのだ。
だが、発言者が「筆頭公爵令嬢である私」であったことが最悪だった。
私のその「小さな嘘」は、グレイ男爵を筆頭とする過激な愛国派閥にとって、政敵であるヴァルシュタイン公爵家を合法的に排除するための、最高の大義名分となってしまったのだ。
私の小さな意図など完全に置き去りにして、派閥は『国家反逆罪』という名目で恐ろしい勢いで暴走を始めた。令嬢一人を謹慎させるどころか、騎士団の過激派を動かし、ヴァルシュタイン公爵家への夜襲と武力制圧に乗り出したのである。
そして、最大の悲劇が起きた。
理不尽に拘束されそうになったセレナ様を必死に庇い、逃がそうとした青年がいたのだ。
優しく太陽のような、フェリックスの最愛の弟・ルカ。
彼は反逆の共犯者として、その場で無残に斬り捨てられてしまった。
名門貴族への不当な武力弾圧と、将来有望な若き騎士の死。これを引き金として、王都を真っ二つに割る凄惨な内乱が起きた。
私のたった一つの身勝手な嘘が、結果として多くの民の血を流させ、友同士の固い絆をズタズタに引き裂き、取り返しのつかない大悲劇を招いた。誰かに愛されたかっただけの私の歪んだ行動が、私の意図とは全く違う恐ろしい結果を生み出してしまった。
その意図と結果のあまりにも巨大な乖離に絶望し、自分がどれほど取り返しのつかないことをしたのかを理解した時、私は言い訳一つせず、すべての罪を被る「稀代の悪女」として、この断頭台に引き立てられたのである。
「……愚かでしたわ。本当に、私は⋯」
執行人に乱暴に押さえつけられ、冷たい木の台に首を横たえながら、私はきつく目を閉じた。不器用な愛をくれた両親への取り返しのつかない後悔と、無実のまま死なせてしまったルカへの途方もない罪悪感が、胸を締め付ける。
この首一つを差し出したところで、奪った命が戻るわけではない。彼らへの本当の償いにはならないことはわかっている。
もう、誰の愛情も求めない。権力も、名誉も、国を導く使命も何もいらない。もしも赦されるのなら、今度はこの手で誰かの命を救いたい。ただ、誰も傷つけず、誰からも憎まれず、生涯をかけて罪を贖うように静かに生きたい。
(神様……どうか……生まれ変わったら。もう二度と誰も傷つけない、償いのための静かな人生を……)
首筋に焼け付くような冷たさを感じた直後、ゴトッという鈍い音と共に凄まじい衝撃が走り、真っ白な閃光が視界を完全に覆い尽くした。
それが、悪女リゼ・フォン・クロムウェルの、惨めで孤独な人生の終わりだった。
◆
「……お嬢様。リゼお嬢様。朝でございます」
静かな、けれどどこか事務的な声で目を覚ました時、私は自分がふかふかのベッドに横たわっていることに気づいた。
「え……?」
飛び起きると同時に、狂ったように周囲を見渡す。
最高級のシルクで織られた純白の天蓋。壁に掛けられた豪奢な職人技のタペストリー。床に敷き詰められた最高級の分厚い絨毯。そして、サイドテーブルに置かれたティーカップから立ち上る、芳醇なダージリン紅茶の香り。
そこは、雨ざらしの断頭台でも、暗く冷たい地下牢でもなかった。私が幼い頃から過ごしてきた、クロムウェル公爵家の豪奢な自室だった。
「マリー……?」
ベッドの傍らに控えていたのは、暗褐色の髪をきっちりと纏めた、無表情な私の専属侍女だった。前世で私が悪行に手を染め始めた頃、「これ以上、お嬢様の行いにはお仕えできません」と冷たい目を向けて屋敷を去ってしまった彼女が、当時の若々しい姿のまま、そこに立っていた。
「はい。お加減でも悪いのですか? 本日は魔法の家庭教師がいらっしゃる日ですが」
「……鏡。鏡を持ってきてちょうだい!」
マリーが怪訝な顔をしながら差し出した手鏡をひったくるように奪い、私は自分の顔を凝視した。
そこに映っていたのは、陽光を紡いだような眩い金髪と、新緑の瞳を持つ少女。大人の女性へと成長し、周囲を巻き込んで破滅へと突き進んだあの「悪女」ではなく、まだあどけなさの残る、十歳ほどの私自身の姿だった。
震える両手を目の前にかざす。鉄の鎖が擦れて爛れた跡も、地下牢の寒さでひび割れた皮膚も、何一つない、白くて小さな、綺麗な手だった。
「戻って……きたの? 私、死んだはずじゃ……」
手鏡を取り落としそうになるのを必死に堪えながら、私は荒い呼吸を繰り返した。夢ではない。頬を強くつねれば鋭い痛みが走るし、マリーの淹れた紅茶の香りは間違いなく本物だ。
理由は分からないが、私は断頭台で首を刎ねられた後、過去へと逆行し、二度目の人生を与えられたのだ。
「リゼお嬢様? 本当に顔色が優れませんが、お医者様を呼びましょうか?」
「マリー。私、決めましたわ」
私はバッと力強く顔を上げ、手鏡をベッドに放り投げた。頭の中は、かつてないほどに冴え渡っていた。
前世の記憶が、あの冷たい刃の感触が、私の魂に強烈な警告を発している。
両親の不器用な愛に気づけず、このまま前世と同じように公爵令嬢として目立って生きれば、私はまたグレイ男爵の善意という名の甘い言葉に流され、些細な嘘から派閥の暴走を招き、ルシウス様に執着し、セレナ様を妬み、ルカを死なせ……最後には間違いなくあの断頭台に送られる。
あんな痛くて、惨めで、誰も救われない最期は、絶対に二度とごめんだ。
「私はもう、権力闘争にも、身の程知らずな恋にも、一切関わりませんわ」
「……はい?」
「誰かに愛されたいなんて、そんな無駄な考えは今この瞬間に窓から投げ捨てました! 国を導く? 冗談ではありませんわ! 私は私の命を守ることで手一杯です!」
ポカンと口を開けるマリーをよそに、私はベッドから勢いよく飛び降りた。私が今世で目指すべき道はただ一つ。
「絶対に断頭台を回避し、田舎で平穏な老後を送る」これだけだ。
「よく考えれば、私の前世の最大の敗因は『公爵令嬢という目立つ立場にいたこと』と、『自活できるだけの手に職がなかったこと』ですわ」
権力に近い場所にいたからこそ、男爵に「国を導け」などと吹き込まれ、あのような意図せぬ暴走に巻き込まれたのだ。ならば、家を出て平民になればいい。そして、老後まで誰にも頼らず生きていくための「確かな技術」と「老後資金」を手に入れればいいのだ。
「手に職……そうですわ、町医者です! 治癒魔法を極めれば、田舎に引っ込んでも食いっぱぐれることはありません。それに、平民の町医者なら、ルシウス様やフェリックス、セレナ様のような雲の上の『関われば死ぬ人種』と出会うリスクも完全にゼロになりますわ!」
完璧な計画だった。
まずは、完璧な治癒魔法を身につけること。前世の私は魔力量こそそれなりにあったものの、魔法の制御が苦手で、努力を怠っていた。しかし今世では、たとえどんなに困難でも治癒魔法を習得しなければならない。
天賦の才がなくても構わない。
魔力枯渇の激痛に耐え、己の魔力回路を無理やりにでも繋ぎ直してやる。何せ、自分の命と老後がかかっているのだから。
「それに、お金ですわ。老後を安心して暮らすためには、莫大な資金が必要です。公爵令嬢たるもの、家計の管理こそが真の教養。私は今日から一ルピアたりとも無駄にはしません。完璧な計算で『老後資金の帳簿』を管理し、無駄遣いを徹底的に省きます! 目指せ、最強の老後資金!」
「……お嬢様。真顔でおかしなことをおっしゃらないでください。寝ぼけていらっしゃるなら、冷たいタオルをお持ちしますが」
「私は本気ですわ、マリー!」
私は拳を強く握りしめた。そのためには、この無駄に目立つ金髪もいつか黒く染めるか、身バレ防止の偽装の魔道具を手に入れなければならない。公爵家というしがらみを捨て、目立たず、ひっそりと、完璧な帳簿管理のもとで生きていくのだ。
もう二度と、愛なんて乞わない。
もう二度と、誰かの正義に振り回されて、大切な人たちを壊したりはしない。
(見ていなさい!前世の私。今世の私は、絶対に誰の目にも留まらない平民の町医者になって、温かい暖炉の前で安らかな大往生を遂げてみせますわ!)
決意に満ちた私の眼差しを見て、マリーは深々と大きな溜息をついた。
「……とりあえず、お熱を測りますね」




