劇
「殿下、もう良いでしょう」
カールは懐から絹布を取り出し、顔を腫らしたハムレットに渡した。
隻腕王子は、絹布を受け取ると鼻血を拭った。そして表情をあらため、平然と立ち上がり、周りの侍女たちに声を掛けた。
「皆の者、良い演技であった、ご苦労」
侍女たちは黙礼し、粛々と屋敷に戻っていった。
「まったく、肝が冷えましたぞ」
カールは額の汗を拭った。
「まさか剣を抜くとは思いませんでした」
「ああも容易く激昂するとは、まるで獣だな。フォーティンブラスもあのような野蛮人を妃にしようなどとは、ずいぶんと物好きなものだ」
「お嬢様はまだ返事はしておりませぬが」
「フォーティンブラスはいずれノルウェー国王になるだろう。そうなれば、あの女は王妃様……ということだ。女としてこれに勝る幸せはあるまい。此度の求婚、断る理由など無かろう」
「よろしいのですか、それで?」
「なんとしても、あれをノルウェー王家に嫁がせるのだ。俺に対する情や憐れみなど、捨ててもらわねば困る。だからこそ、おまえや侍女どもを巻き込み、このような芝居まで演じたのだ」
カールは何か言いたげな表情であったが、それを制するようにハムレットは言葉を続けた。
「ところで、例の薬は出来ているか?」
「はい、こちらに」
カールは小さな皮袋を取り出してハムレットに渡した。中身を見ると、烏の眼ほどの小さな黒い粒が、いくつか入っていた。
「これが強壮の丸薬です」
危険な薬だった。肉食獣の睾丸や肝から抽出した液に幾つかの薬草を混ぜて、練り合わせたもので、飲めば、膂力と敏捷性を飛躍的に高める。だが、動悸が高まり、全身の血は沸騰し、五臓六腑は焼けるように痛み、地獄のような苦しみを味わう、というのだ。
「我ら影の者でも、まず使いませぬ。たとえ一粒であっても、下手をすれば死ぬことがありますゆえ」
「このようなものを、あの男は飲んでいたというのか」
小さな、あまりにも小さな粒だった。だが狂人レアティーズの剣技……尋常ならざる剣圧と速さは、この小さな丸薬によるものだったのだ。そうカールから聞かされ、ハムレットは興味を持っていた。
「この丸薬、貰っても良いな?」
するとカールは渋い顔をした。
「おやめになられたほうがよろしいでしょう。某も若かりし頃、飲んだことがありますが、それはもう死んでしまいたいと思うほどに苦しく、もはや二度と使うまいと心に決めました」
「……」
「お命を粗末にすべきではありませぬ」
「惜しむべき命など、もはや俺には無い。今の俺は、亡霊の如き虚ろなる身。歩き回る影に過ぎぬ」
ハムレットは丸薬を懐にしまいこんだ。
「カールよ」
「はい」
「なにゆえ、おまえは、俺ごときに仕えているのだ? 老いたりとはいえ、おまえには密偵としての才能がある。仕官の口などいくらであるはずだ」
ハムレットが言うと、老翁は目を伏せ、俯いてしまった。
「もはや俺は、王子などと呼べる身分ではない。この国の食客……言わば乞食も同然。そんな者に付き従ったところで、出世栄達など望めぬであろう」
「某の本心を、お聞きになりたいですか?」
「そうだ」
カールは目を開け、王子をじっと見つめた。
「ハムレット様が、ポローニアス様のご子息だからです」
「……」
「殿下は、若い頃のポローニアス様に、どこか似ておられます」
「よせ、あの男は俺の父などではない」
ハムレットはカールから目をそらした。
「真相はどうあれ、某はこの命枯れるまで、殿下にお仕えする所存です」
カールは頭を垂れた。
「ポローニアスの代わり、とでも言いたいのか。だが、俺は覇道などに興味はない。国も玉座も要らぬ。民を安んじようとも思わん」
「構いませぬ」
「俺は、あの男を殺せればそれでいい。怨恨のみを糧に生きているのだぞ?」
「それでも一向に構いませぬ」
「物好きな男だな、おまえは」
ハムレットは苦笑した。壁に吊されたランプの炎が揺らめく。
「話は変わりますが、昼過ぎにギルとロズの
お二人がこの屋敷にやってくるそうです」
「その件については、昨夜、ホレイショウから聞いている。両将軍が味方になれば、何かと心強いのだが、俺は痴れ者を装い、二人を欺くつもりだ」
「何故です? お嬢様はともかく、両翼のお二人まで騙す必要は……」
「今後、奴らには”フォーティンブラスの両翼”となってもらいたいのだ。せいぜい愚者ぶりを見せつけて、大いに失望してもらおう。俺に仕える気など起こさせぬようにな」
「しかし……」
「ホレイショウと相談した上で決めたことだ。また道化芝居に付き合ってもらうぞ」
ハムレットとカールは酒蔵を出て厨房に入ると侍女たちを集めて、芝居の段取りを説明し始めた。
ギルとロズ……二人の将軍の来訪に備え、どのように振る舞うかハムレットは念入りに指導すると、侍女たちは目を輝かせ、互いに顔を見合わせ笑っていた。芝居を打ち、人を欺くことを、女たちは楽しんでいるようだ。
昼過ぎ、ギルとロズは海沿いの屋敷に向かった。
玄関先でカールという名の老人に出迎えられ、屋敷の大食堂に案内された。長い食卓には豪華な料理が載っている。
屋敷の主、ハムレットは既に食卓に着いていた。
ギルとロズは挨拶をするが、隻腕王子は何の反応も示さず、ただ淀んだ眼で、部屋の隅のほうを凝視していた。両翼は思わず顔を見合わせた。
王子の両脇に二人の侍女がいる。匙を使い、王子の口に食べ物を運ぶ。うまく噛めず、口の端からこぼすハムレット。すると侍女たちは「あらあら王子様」などと笑いながら布で口の周りを拭っていた。
食事が終わり、ギルとロズは再びハムレットに話しかけた。だが王子は、侍女に抱き付き、母上、母上……と幼児のように呟くばかりで、二人の言うことなど聞こうとはしなかった。
「戦場で恐慌状態に陥った新兵が、このようになるのを何度も見てきたが……」
ギルが呟いた。
「かなり重症のようだ、お気の毒に」
ロズもそう言って眼を閉じた。
これはもう駄目かも知れぬ……幾多の戦場を経験してきた二人の宿将には、ハムレットの心の病みが根深いものであるように思えた。
ちょうどそこへ、散歩を終えたオフィーリアが食堂に入ってきた。
侍女に抱き付き、子供のように甘えるハムレットを見るや、また激怒し、飛び掛かり、押し倒した。
「貴様!」
王子の腹の上に跨がり、鉄拳で幾度も顔を殴打した。鮮血が絨毯に飛び散る。
侍女たちが慌ててオフィーリアとハムレットを引き剥がす。老人が隣室から飛び出してきた。
「おやめ下され! 兄上様になんと酷いことを」
「このような男、もはや兄ではない!」
「なりませぬ! なりませぬ!」
老人と侍女が、荒れ狂う令嬢を押さえ付け、必死になって制止している。ハムレットは鼻血を出しながら大の字で横たわり、虚ろな眼で天井を見ていた。
廃人王子と屋敷の人々の混乱ぶりに、ギルとロズは困惑し、顔を見合わせ、溜め息を付いた。
「もはや、どうにもならぬな」
ギルは目を閉じ頭を振った。
「せめて、この地で、安らかな後生をお過ごし頂くより他にあるまい」
ロズもそっと呟いた。怒号と制止の声が響くなか、王の両翼は悲嘆するばかりであった。
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