第一話 黒い枝
※ざまぁも復讐もありません
「セルヴァニ家は、契約に定めた期日までに返済を行わなかった」
公証人は、紙の縁を指で押さえて、次を探している。
「契約の定めにより、次に記す担保を、ベラーニ家へ引き渡すものとする」
母屋、蔵、井戸、道具、ブドウ園。
呼ばれるたびに、大切な場所と物が一つずつ、紙の中の言葉になっていく。力を注いだブドウの木は一本ずつ数えてもらえない。ぜんぶまとめて「ブドウ園」だ。
父様は読み上げのあいだ、公証人のほうだけを見ていた。こちらを見たのは、終わってからだ。
「おまえの見積もりは悪くなかったのにな」
それだけだった。
責める調子ではなかった。はっきり責めてくれたほうが、まだ楽だったのに。
窓際には、証書を持った青年が立っている。ベラーニ家の記録係だと、来たときに名乗った。公証人の差し出した紙を受け取り、二枚の端を親指で揃える。引き渡す家の欄へ、セルヴァニの名を書きつけた。
「以上、相違ありません」
全部なくなった。
明日からは園で働く人たちに、ベラーニ家が賃金を払う。私は、あの園へ入るのに許しがいる。
◇
あれから三年。
ワインの街サンペラの苗床では、朝から声が飛んでいる。この時間がいちばん好きだ。
「東の束は、去年の分と別にしておいたよ」
「助かるよ、ヴィオラ。あとで札を書いておいてもらえる?」
父様が病で逝ったのち、友人のネッダが人手を探していると聞いて、ここへ来た。三日ぶんの仕事をもらい、それがまだ終わらない。
桶に水を汲んで、東の畝から回る。台木の束が昨日届いたばかりで、藁を解く手が足りない。午までに半分ほどけたら上等だ。
畝のあいだに、誰とも話していない男が一人いた。札を順に読んでは、端へ戻っている。あれは分からなくなっている人の歩き方だ。桶を置いて、そちらへ寄った。
「何かお探しですか?ここは並びが分かりづらいですから」
男は慌てて帽子を取った。
「川向こうの園から来ました。台木を探していまして」
「台木なら西の畝です。去年の枝から採ったものと、その前のものがあります」
「ありがとうございます」
男を西へ送る途中で、気になるものがあった。
二年目のブドウ苗が並んでいる。手前から四本目。
それだけ、枝先の色が黒い。
腰の鞘からナイフを抜いて、麻ひもを一本切った。布きれを黒い枝の下へ結ぶ。
「ネッダ。西の畝の手前から四本目」
ネッダは手を拭きながら来て、枝を指で撫でた。爪の先で少し削る。
「――黒いね」
「先だけじゃない。付け根のほうも色が変わっている。切るなら、下の分かれ目より下だ」
「切っておいて」
「切る場所はあなたが決めて。私は見て言うだけ」
「毎度それだね」
ネッダは自分のナイフを出した。
「二十六にもなって、切るのは人にやらせるの?」
「そう。上手な人にやらせる」
実際、私より手は速い。嘘は言っていない。
分かれ目の下で、ネッダが切った。布を解き、枝と一緒に焼く分の桶へ入れる。切り口はまだ湿っていて、木のにおいがした。
「この畝の残りは、今日じゅうに全部見る」
「頼んだよ」
「セルヴァニ家の方は、おられますか?」
畝の端に、クロークをまとった細身の男が立っていた。折った紙を一枚だけ持ち、こちらが手を止めるのを待っている。
顔より先に、紙の端を親指で揃える所作を思い出した。三年ぶりだ。
「ダリオ・ベラーニといいます。セルヴァニ家のヴィオラさん」
そう言って会釈をしてきた。
家の名で呼ばれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
悪気はないのだろう。ないほうが、たちが悪い。
「ご無沙汰しております。あなたが持っていたのは、あのときの紙ですか?」
「そうですね。三年前、私は二十四で書くだけの役でしたが、今はベラーニ家の跡継ぎとして園の管理を任されております」
とりつくろうつもりもないようだ。
「ご用向きは何でしょう」
「園のブドウに、黒枝病らしき枝が見られます。春の雨で広がる前に処置をしたい。ただ、どこまで切るべきかが私には分かりません」
「それで、私に?」
「一日、見ていただきたい。費用はこちらが持ちます。お断りになるなら、紙と前金をそのままお返しください。それで終わりです」
持っていた紙を開き、こちらへ向けて置いた。上に布の包みを載せる。「前金です」と言った。
目が行ったのは、包みではなく紙のほうだった。下に印が一つある。その上には、断るなら紙と前金を返せば終わり、と書いてある。
私は手を拭いた。
答えは決まっている。
「あの園へは行きません」
「理由を伺っても?」
「あなたのところの園を歩く用はありません」
「屋敷に、あなたの書いた再建の案が残っていました。あれを読んで、あなたにお願いしています」
手が止まった。
あの紙は、三年前に机へ置いてきたきりだ。子どものころから蓄えた知見も記してある。
「枝をここへ持ってくるなら見ましょう。説明もします。切るのは、あなたが決めてください」
「日を改めます」
ダリオは紙を畳みかけ、途中で手を止めた。まだ終わりではないと思っているらしい。急かしてはこない。
西の畝へ行った男が戻ってきた。手には布包みがある。
「さっき切った枝を見て、気になりました。これも同じものでしょうか?」
布を開いた。ブドウの枝だ。
先から付け根まで、黒い。
「これはどこから?」
「うちの園です。川向こうの。おととい見つけて、持ってきました」
枝を回して、切り口を見た。内側まで色が変わっている。
ネッダが黙って寄ってきた。誰も何も言わなくなった。
川向こうにも出た。春の雨は、あと十日ほどで来る。降れば、病は園の境を越え全体へ拡がりかねない。
「その枝は、こちらの焼く桶へ入れてください。園でまた見つけたら、切った場所で焼いて。持ち歩かないでください」
「分かりました」
男は私の指示通り、枝を桶へ入れた。ネッダが桶を蔵のほうへ引いていく。
「行きましょう」
こちらの声に、ダリオは顔を上げた。
「ただし、一日だけです。木を見ます。言います。どこを切るかは、あなたが決めてください。私は決めません」
「今の三つを、そのまま書き入れます」
「好きにしてください」
◇
桶の水を畝へやって、藁を掛け直した。ナイフを鞘に押し込み、前掛けを外して腕に掛ける。
「ネッダ。東の束の札は、戻ってから書くね」
「どこへ行くの?」
「うちのブドウ園」
言い直さなかった。
ほかの呼び方を、まだ覚えていない。
覚える気も、たぶんない。




