01【プロローグ:怪しいスカウト】
薄暗いビジネスホテルの天井を見つめながら、私は何度目かも分からないため息を吐き出していた。
安っぽい芳香剤と、微かに残る煙草の匂い。換気扇の濁った低音が、狭い部屋にむなしく響いている。
肌にまとわりつく寝間着代わりのガウンが、ひどく重く、そして酷く汚れているように思えて仕方がなかった。
「……あーあ。死にたいな」
ぽつりと溢れた言葉は、乾いた砂のように虚空に消えた。
丹之宮璃生、二十三歳。
それが私の名前で、私のすべてだった。
生きるために始めた風俗の仕事だったけれど、気づけば心も体も、限界なんてとっくにすり減って消えていた。
お店の時は、スイッチを入れればいくらでも明るく、元気に、男の人が喜びそうな「可愛い女の子」を演じられる。複数いる、彼氏のような、トモダチのような男の人たちの前でもそうだ。
けれど、こうして一人きりになると、心の中の照明が一気に落とされたみたいに、暗く、静かで、言葉の出ない「本当の私」が顔を出す。
性的快楽なんて最初から知らない。誰かに特別な恋愛感情を抱いたこともない。
ただ、人肌の温もりを求めて、求められるがままに流されて、気がつけば自分が何者なのかも分からなくなっていた。
「いっそ、このまま消えちゃえたら楽なのに」
腕を伸ばし、枕元に置いたスマートフォンを手に取る。画面の明かりが、私の澱んだ黒目をチカチカと不躾に照らした。
SNSのタイムラインをあてもなくスクロールしていると、突然、画面が真っ暗になった。
バグだろうか。そう思った直後、液晶の奥から白い文字が浮かび上がってくる。
『――心身ともにお疲れの貴女へ。
人生のステージ、アップデートしてみませんか?
未経験者大歓迎。手厚い福利厚生、一生モノの役職をご用意してお待ちしております』
スッとスクロールすると、画面の一番下に、大きくて真っ赤な『承諾する』というボタンが表示された。
「何これ……新手の闇バイト? それとも、ただのウイルス?」
いつもなら即座にブラウザを閉じるか、電源を切るところだ。
けれど、その時の私はどうかしていた。本当に、もう何もかもがどうでもよかったのだ。この消えてしまいたい毎日に終止符が打てるなら、騙されて奈落の底に落ちたって構わない。
「どうにでもなれ……っ」
投げやりな気持ちのまま、人差し指で画面をぽちりとタップした。
その瞬間。
「――はい、契約成立。毎度あり。」
頭上から降ってきたのは、パチンと小気味よく指を鳴らす音と、信じられないほどハキハキとした女性の声だった。
「え……っ!?」
飛び起きようとしたが、体が動かない。それどころか、ホテルのベッドが、壁が、天井が、まるで水に溶ける絵の具のようにぐにゃりと歪んでいく。
「な、に、これ……っ」
視界が激しく回転し、凄まじい光が目を刺す。パニックになりかける私の耳元で、先ほどの女性の声が、楽しそうに、けれど有無を言わせない調子で続いた。
「いやー、素晴らしい適性値! 丹之宮璃生くん、君を我が『ハルノ王国』の再生請負人――ゲフン、女神の贈り物たる幸運の花嫁『虹歳』として、正式にスカウトさせてもらったよ!」
「 え……?め、がみ……?すかうと……?」
「そう! 私はククリヒメ。君たちの世界でいうところの『縁結びの神様』だ。――さあ、新しい世界で、新しいミッションの開始だ!」
彼女がそう叫んだ瞬間、私の意識は完全にシャットダウンした。
◇
「……う、ん……」
次に目を覚ました時、私は見知らぬベッドの上にいた。
いや、ベッドというよりは、豪奢な祭壇のような場所だ。天を仰げば、日本には絶対にない、緻密な彫刻が施された高い石造りの天井が広がっている。窓から差し込む光は信じられないほど澄んでいて、小鳥のさえずりが、妙にリアルな音像で鼓膜を震わせた。
(嘘……。本当に、どこかへ来ちゃったの……?)
上体を起こそうとして、自分の体に走る強烈な違和感に気がついた。
前髪をかき分けると、おでこの生え際あたりに、ゴツリとした硬い感触がある。
「え、うそ……なにこれ」
慌てて周囲を見回すと、近くの壁に金色の姿見が掛けられていた。這うようにして鏡の前に進み、そこに映った自分の姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
細身の体型や、肩まで伸びたストレートの黒髪は元のままだ。
けれど、さっきまでなかったものが、私の体にいくつも現れていた。
おでこには、朱色の小さな角が二つ、ちょこんと生えている。
鏡を覗き込む私の瞳――黒目だったはずのそこは、瞳孔が縦長に鋭く伸びた、燃えるような朱色の龍みたいな目に変わっていた。
「これが……私……?」
唖然としながら寝間着の胸元をはだけさせると、左胸――心臓のちょうど真上の皮膚に、まるでタトゥーのように鮮明な、純白の彼岸花の模様が浮かび上がっていた。
まだ何の色もついていない、冷たいほどに白い、けれどどこか妖艶な花。
『三人と縁を結び、その殿方たちとの間に子どもを確実に産み、跡取りを作る。それが君の仕事さ』
頭の奥で、あの自称・女神のセリフが再生される。
(三人と結婚して、子どもを産む……。私なんかちゃんとした恋愛も、普通のエッチも知らないのに、そんなこと、できるわけないじゃん……)
押し寄せる罪悪感と、あまりにも重すぎる責任。
自分なんかがこんなに立派な場所で、特別な存在として扱われていいはずがない。
やっぱり断ればよかったと、じわじわと胸の奥が苦しくなってきた、その時。
私の視界の端に、ぼんやりとした暖色の『光』が、ゆらゆらと灯るのが見えた。
(……光? なに、これ……)
その光は、まるで私をどこかへ導くように、部屋の外へと向かって微かに明滅している。
ターゲットに近づくと大きくなるという、ミッションの道標。
「まじかよ……」
私は小さく呟き、重い足取りで、光の指し示す未知の世界へと一歩を踏み出した。




