第10話 変化というより多分進化だった
オレたちはユニクロを出てショッピングセンターを歩いていた。リュシアにとっては初めて見るものばかり。あっちへ行ってはウロウロ、こっちに行ってはウロウロ。現代日本を堪能しているようだ。
そこで、リュシアの足が止まった。
「風磨、ここ書籍販売店ですの?」
「書籍販売店って。ああ、普通に本屋だ」
「ほん……や?」
「本を売ってる店」
「これほどの書物が、誰でも手に取れるのですか?」
「まあ、立ち読みだけならな。持って帰るなら金がいる」
「またお金ですのね」
「この世界、大体それで動いてるからな」
リュシアは店先に積まれた本を見つめた。
小説。
雑誌。
漫画。
料理本。
旅行案内。
参考書。
表紙には色とりどりの絵や写真が並び、棚の奥まで本が詰まっている。
「王城の書庫より、ずっと開かれていますわ」
「王城の書庫って、誰でも入れないのか?」
「当然です。王族、宮廷魔導師、一部の学者。それから、許可を得た貴族だけですわ」
「平民は?」
「文字を読める者自体、ほとんどいません」
「……マジか」
「マジ、とは?」
「本当に、って意味」
「本当にですわ」
リュシアは近くにあった一冊を、恐る恐る手に取った。子供向けの絵本だった。表紙には、大きな月と、その上に座る白いウサギが描かれている。
「これは……子供用の魔導書ですの?」
「絵本」
「絵の本」
「そう。子供でも読めるやつ」
リュシアはページを開いた。色鮮やかな絵が広がる。だが、文章の部分で手が止まった。
「……読めませんわ」
「やっぱり文字はダメか」
「はい。絵は分かります。でも、この記号が何を意味するのか……」
そう言って、少しだけ寂しそうに指で文字をなぞった。
「風磨」
「なんだ?」
「読んでいただけますか?」
「え?」
「この本、読んでください」
「いや、ここで?」
「駄目ですの?」
「駄目じゃないけど……」
異世界の王女に、ショッピングセンターの本屋で絵本を読み聞かせる。今日のオレの人生、どうなってんだ。
「少しだけな」
「はい」
オレはリュシアの隣に立ち、絵本の文章を小声で読んだ。月に住むウサギが、夜の闇を怖がる地上の子供へ星を届ける話だった。
特別難しい物語じゃない。むしろ、子供向けのありふれた話だ。でもリュシアは、一ページごとに真剣な顔で絵を見ていた。
「このウサギは、なぜ星を届けるのです?」
「子供が夜を怖がってたから」
「それだけで?」
「それだけで」
「褒美は?」
「たぶんない」
「命令でもない?」
「ない」
リュシアは少し考えた。
「自分で、そうしたかったのですね」
「まあ、そういう話だな」
「……不思議ですわ」
「何が?」
「命令でも、義務でも、身分でもなく、誰かのために動く物語が、子供向けとして普通に置かれていることが、不思議なのですわ」
オレは返事に困った。この世界の普通。また、それだ。
リュシアは最後のページまで読み終えると、そっと本を閉じた。
「この本、欲しいです」
「読めないだろ」
「風磨が読んでくだされば」
「オレが?」
「はい」
「毎回?」
「はい」
「急に重い契約結ぶな」
「嫌ですの?」
「……嫌じゃないけど」
リュシアは嬉しそうに本を抱えた。その顔を見たら、戻せとは言えなくなった。
「じゃあ買うか」
「ありがとうございます」
「給料日だからな」
「今日は風磨が少し偉い日ですものね」
「その設定、まだ有効なの?」
その後もリュシアは本屋の中を歩き回った。料理本を見ては、
「この国では料理の知識まで売っていますの?」
旅行雑誌を見ては、
「他国の景色を、こんな紙の中で見られるのですか?」
漫画を見ては、
「絵が連続していますわ! これは絵画による演劇ですの?」
いちいち驚く。そしてそのたびに、オレへ質問してくる。
正直、全部を説明する体力はなかった。夜勤明けだぞ、こっちは。
「風磨、これは?」
「漫画」
「では、これは?」
「雑誌」
「この小さな本は?」
「文庫本」
「ぶんこぼん」
「説明すると長い」
「では、後でお願いします」
「宿題が増えていく」
「え?これって……」
「地図だよ」
「地図」
答えた瞬間、リュシアの動きが止まった。
「……地図?」
「ああ」
彼女は棚から一冊を抜き取った。見開きには、この国の道路や鉄道、山や川、街の名前が細かく記されている。文字は読めないはずなのに、それが何を意味するものかは分かったらしい。
「風磨」
「なんだ?」
「これは、本当に地図なのですか?」
「そうだけど」
「国土の形が描かれています」
「地図だからな」
「街道も」
「道路な」
「河川も、山岳も、町の位置も」
「載ってるな」
リュシアの声が低くなった。さっきまで絵本や漫画に目を輝かせていた少女ではなく、戦時下の国を背負う、王女の顔だった。
「これを、誰でも手に取れるのですか?」
「誰でもっていうか、金を払えば買える」
「身分の確認は?」
「ない」
「王家の許可は?」
「いらない」
「軍の監視も?」
「ないな」
リュシアは、信じられないものを見るように地図を見つめた。
「アレマスでは、地図は軍事機密です」
「そんなに?」
「当然ですわ。街道の位置、砦までの距離、河川の深さ、山越えの経路。敵に渡れば、兵をどこから進めればよいか教えるのと同じです」
「なるほど」
「正確な地図を所有できるのは、王家、軍司令部、宮廷魔導院。それから、ごく一部の領主だけです」
「庶民は?」
「自分の村から隣町までの道を知っていれば、それで十分とされています」
リュシアはページをめくった。
別の地域。
さらに広い範囲。
この国全体。
その向こうには、世界地図まで並んでいる。
「他国の地図まで……」
「売ってるな」
「敵国も?」
「まあ、普通に」
「普通に」
その言葉を、確かめるように繰り返した。
「この世界では、国の形も、道も、海も、誰にでも知られているのですね」
「今はスマホでも見られるぞ」
「すまほで?」
「現在地も分かるし、目的地までの道も教えてくれる」
リュシアは、ゆっくりとオレを見た。
「……風磨」
「なんだ?」
「それは、神託より危険では?」
「使い方によってはな」
「なぜ皆、平然としていられるのです?」
「便利だからじゃないか」
「便利」
「迷わない。知らない場所にも行ける。災害の時にも使える」
リュシアはもう一度、地図を見下ろした。
「隠すのではなく、皆に持たせることで役立てる」
「そういうことになるのかな」
「敵に知られる危険より、民が知る利益を選んでいるのですね」
「たぶん、そこまで考えて地図買ってる人は少ないけどな」
「台無しですわ」
「現実はだいたい台無しなんだよ」
それでもリュシアは笑わなかった。
地図の上を、指先でゆっくりとなぞっている。
「アレマスでも、民が道を知っていれば」
「うん」
「戦火から逃げる時、もっと多くの者が助かるかもしれません」
その声は小さかった。
「軍事機密だから守られるものもあります。でも、隠されているから失われる命もあるのですね」
オレは返事をしなかった。
簡単に肯定できる話でもない。
でも、リュシアの中で何かが変わったことだけは分かった。
「これも買うか?」
「よろしいのですか?」
「文字は読めなくても、絵としては分かるんだろ」
「はい」
「じゃあ、持っておけばいい」
リュシアは少し迷ってから、その地図帳を胸に抱いた。
「ありがとうございます」
「給料日だからな」
「今日は風磨が少し偉い日ですものね」
「その設定、まだ使うのか」
リュシアは地図帳を抱えたまま、静かに笑った。
たぶん、彼女がアレマスへ持ち帰るのは、本そのものだけではない。
地図は隠すものではなく、誰かが生きて帰るためにも使える。
その考え方ごと、持ち帰るのだ。
店を出る頃には、ユニクロの袋に加えて、地図や絵本と、文字を覚えるための子供向け学習帳まで増えていた。
リュシアはご機嫌だった。
オレの両手は塞がっていた。
「……重い」
「わたくしも持ちますわ」
「いや、その服に着替えたばかりだろ。汚したくない」
「では、ノイシュバンシュタイン号に載せればよいのでは?」
「前カゴ一つじゃ、もう無理だろ」
ショッピングセンターの駐輪場へ戻る。黒と緑のノイシュバンシュタイン号は、朝日を反射しながら待っていた。相変わらず、見た目だけは無駄に格好いい。
「ほら、見ろ」
オレは両手の荷物を軽く持ち上げた。
「ユニクロの袋に、本屋の袋。前カゴに入る量じゃない」
チリン。
「いや、お前に言ってない」
ノイシュバンシュタイン号のライトが、ふっと点いた。
「……ん?」
前カゴの内側に、薄い緑色の光が走り、底が、少し暗くなった。
「風磨」
「なんだ?」
「先ほどより、カゴが深く見えますわ」
「気のせいだろ」
試しに、ユニクロの袋を一つ入れてみた。袋は前カゴの底へ沈んだ。
沈んだ?いや、消えた。
「……」
「……」
「風磨」
「言うな」
「袋が消えましたわ」
「言うなって」
恐る恐る、もう一つの袋を入れる。それも消えた。
絵本の袋も。
王女の儀礼服を入れた大きな袋も。
全部、前カゴの中へ音もなく沈んでいく。
「……底、どこだよ」
オレは腕を突っ込んでみたが、肩まで入れても底に届かない。
「風磨、それ以上は危険では?」
「でも荷物が!」
頭の奥で、いつもの声が鳴った。
『ピ。随伴物、収納領域を再定義』
『ピ。前カゴ内に局所亜空間を形成』
『ピ。容量、測定不能』
『ピ。収納物の保全を確認』
「無限収納……?」
「素晴らしいですわ!」
「素晴らしいけど、なんで前カゴなんだよ!」
『ピ。買い物用途に最適化』
「そこだけママチャリの思想を貫くな!」
チリン。
誇らしげにベルが鳴り、リュシアが笑いながら言った。
「この子、風磨の役に立てて嬉しいのですわ」
「便利になりすぎて、オレの立場が危ういんだよ」
「風磨はこの子の主ですもの」
「本当に?」
チリン。
「返事が微妙に遅い!」
オレは前カゴに手を入れたまま、ふと考えた。これだけ入るなら、長い距離を移動する時も困らない。
食料も。
服も。
本も。
必要なものを全部持っていける。
だが。
「……移動は、まだママチャリなんだよな」
チリン。
今度の音は、少し不満そうに聞こえた。
「いや、責めてない。責めてないけど、二人乗りで遠くまで行くには限界あるだろ」
ライトが明滅して、前輪がゆっくりと回った。
『ピ。随伴対象、二名』
『ピ。積載量、増大』
『ピ。移動距離、増大傾向』
『ピ。人力駆動による継続運用、非効率』
「……おい」
『ピ。走行形態の再定義を開始』
「待て待て待て」
黒と緑のフレームが、低く震え始め、ペダルが回る。チェーンが音を立てるが、今までの軋みとは違う。
もっと低い。エンジンの鼓動に近い音。
「風磨、この子……」
「ああ」
ノイシュバンシュタイン号の形が、少しずつ変わり始める。細かったタイヤが太くなり、フレームが沈み、車体が低く伸びる。前カゴは小さく折り畳まれ、ハンドル前方に妙に馴染んだ収納ボックスとして残った。荷台は後部座席へ。ライトは鋭い二つの目へ。黒と緑の装甲が、車体全体を包んだ。
そこに現れたのは、大型でもなければ、化け物じみた高性能車でもない。二人で街を走るための、軽く扱いやすそうな黒緑のバイク。
排気量でいえば、二五〇ccほど。
オレが手を伸ばしやすく、リュシアが後ろに乗りやすく、長い距離を走れる形。
『ピ。第二形態・巡航仕様へ移行』
『ピ。出力、安全性、燃費を最適化』
『ピ。排気量換算、約二五〇』
「急に現実的だな!」
リュシアは目を輝かせた。
「風磨! 鋼の魔獣ですわ!」
「まだ魔獣じゃない!」
オレは車体に近づいた。見た目はNinja250。軽量スポーツバイクだ。だが、ハンドルの右側には小さな銀色のベル。
「……残ってる」
チリン。
「そこだけは絶対譲らないんだな」
エンジンが低く唸る。今度こそ、本当にバイクだ。そう思った瞬間。
チリン。
「だから台無しなんだよ!」
リュシアが笑った。
ノイシュバンシュタイン号も、もう一度ベルを鳴らした。




