101回目 指先の記憶
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカ
初めてピアノに触れたのは、三歳の時でした。教わってもいないのに、私の指は鍵盤の上を踊り、和音は淀みなく流れたのでした。
周囲は私を神童と持て囃しましたが、私自身にとってそれは奇跡でも何でもなかったのです。
ただ、知っていただけ。呼吸の仕方と同じように、私はピアノの弾き方を知っていたのです。
成長するにつれ技術は研ぎ澄まされ、青年になった私は国内外のコンクールを総嘗めにするようになりました。しかし、喝采を浴びるたびに、胸の奥には冷たい空洞が広がっていったのです。
「君の演奏は完璧だが、どこか遠い場所を見ているようだ」
ある審査員にそう評された通り、私は自分の演奏に実感が持てずにいたのでした。まるで誰かの指を借りて弾いているような、奇妙な浮遊感をいつも感じていたのです。
そんな私が抱えていたものの正体が判明したのは、ある国際コンクールで優勝した直後のことでした。
祝賀会の喧騒を逃れ、ホテルのラウンジで休んでいると、一人の老婦人がやってきて、上品な白髪に深い皺を刻んだ顔で穏やかに微笑んだのでした。
「素晴らしい演奏でしたわ。あなたの奏でる旋律の揺らぎが、私の亡くなった兄にとてもよく似ているのです」
彼女の兄は戦前の貧しい時代、ピアニストを夢見ながらも若くして病でこの世を去ったと言いました。
「実は、兄には独特の癖があったんです。あなたが先ほど入れたあの一瞬の間……あれは、まさしく兄そのものです」
雷に打たれたような衝撃が走りました。あの一瞬の間。それは誰に教わったものでもない、私が無意識に心地よいと感じていたリズムでした。彼女の目元、笑った時の皺の形。
知っている。
突如、色彩を伴った記憶の奔流が脳裏に溢れ出しました。古いアップライトピアノの音。
窓の外の夕焼け。
私の演奏に合わせて懸命にステップを踏む、小さなおかっぱ頭の少女。
そして、その目元!
そうだ、私は彼女を知っています。置いていくことが何よりも心残りだった、最愛の妹。
「……ニーナ、か?」
無意識に漏れた名前は、今の私が知る由もないはずのものでした。老婦人は息を呑み、震える手で口元を覆いました。
「まさか……兄さん、なの?」
私は何も言わず、ラウンジのグランドピアノへと歩み寄りました。
弾くべき曲は決まっています。かつて私が、いいえ、彼女の兄が、泣き虫だった妹をあやすために作った、名もなき優しい旋律です。
一音目を鳴らした瞬間、私の中の空洞が温かな光で満たされていくのを感じました。借り物だった才能が、ようやく魂と結びついたのです。
そして悟りました。私が再びピアノの前に座った理由は、名声のためなどではなく、ただもう一度、この曲を彼女に聴かせるためだったのだと。
旋律は静かにラウンジを満たし、老婦人のすすり泣く声が優しく重なりました。
長い時を経て、私の音楽はようやく、届くべき場所へと届いたのです。
演奏が終わり、静寂が包み込みました。私が振り返ると、ニーナは涙を拭い、かつての少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべました。
「……ねえ、兄さん。思い出してくれた?」
「ああ、全部思い出したよ」
再会の喜びに浸る私に、彼女は少しだけ口を尖らせて言いました。
「兄さんが亡くなる前、私がコンクールで踊るための曲を作ってくれるって言っていたわよね。……コンクールは、もうとっくに過ぎてしまったけれど」
私は絶句しました。
確かにあの日、彼女の発表会のために、世界で一番の舞踏曲を贈る約束をしていたのです。しかし病魔は、私がピアノの前に座る時間をすべて奪い去ってしまいました。
約七十年の歳月を越えて、果たせなかった宿題が、突然目の前に突きつけられたのです。
「あ、あれは……すまなかった。まさか、怒っているのかい?」
世界的な巨匠と呼ばれながら、私はしどろもどろになって謝りました。
ニーナは「ふふっ」と笑うと、私の肩をポンと叩きました。
「当たり前でしょう? おかげで私は優勝できなかったんだから」
「それは、すまなかった」
「それにしても、今の兄さんは二十代、私は八十代。これからは、私のほうが“姉さん”よ。覚悟しておきなさい」
「ニーナ……」
「さあ、今すぐ私のために最高のワルツを書きなさい。姉さんの命令よ、弟くん」
彼女はウィンクをして、軽やかな足取りで歩き出しました。私は苦笑しながら、小さくなってしまった“姉”の背中を慌てて追いかけました。
歳を取ってしまった彼女がもう一度ステップを踏みたくなるような一曲を、急いで書き上げなければならないようです。
おわり
※ファンタジーではよくあるんですが、自分の記憶を持ったまま転生するって、どんな感じなんでしょうか。




