第8話「一之瀬 隼」 Side 一之瀬
――人間ってとことんどうしようもない奴。
そんな捻くれた考えしか持っていない俺の名前は、一之瀬 隼。16歳。
身長178cm、体重60kg。容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群……。言い出せばきりがないほど、外面だけは完璧だ。
――そう、外面だけは。
こんな考えを持ち始めたのは、高校に入学してからすぐの時だ。あの出来事がなかったらきっと、俺は少女漫画でありがちな人間になっていたかもしれない。
だから今ではトラウマを植えつけてくれたことには少しだけ感謝している。
独り、それが一番楽だった。『カノジョ』という存在がなくとも、青春は楽しく過ごせる。そう思っていたんだ。
彼女を見かけるまでは――
『攻めろ、攻めろー!!』
『バカ、アイツ空いてるぞ!』
一年の時、隣のクラスと合同体育でサッカーをしていた時だ。
走り疲れたのでゴール付近で立ち止り、汗を体操着で拭いていた。点差は俺たちのチームの方が有利な状況である。
もうすぐ試合終了のホイッスルが鳴るし、大丈夫だろうと決め込んで何気なく校舎を見上げた。
初夏の日差しか校舎を照らす。教室の空いた窓から、気に入らない教師が黒板の文字を説明していた。
その上の階では、こちらを見ている女子の先輩がいるのも見えたが、あえてそれ以上視線は上げない。
うっとうしい、そう思いながらその階下の教室に視線を移した。
『……――』
正直、見惚れてしまったんだ。窓の外をつまらなさそうに見つめる、一人の女を。
親譲りであろう艶のある綺麗な髪は長くて黒い。長い睫毛からのぞく瞳は、陽光を受けているせいか輝いている。
だがその表情は、自分と良く似た表情だったから目が離せなかった。
毎日同じサイクルの日常に飽きていて、言いよる女子がうざくて、退屈で。
心をどこか遠くへと置いてきた時の顔。
『おい、一之瀬!ボールいったぞ!?』
『え?』
どれくらいの間、その彼女に見入っていたのかわからない。聞こえた声でやっと現実に戻ってくると、飛んできたボールを反射的にかわしてしまった。
コートを出たボールと、試合終了のホイッスル。さらに授業の終りを告げるチャイムがほぼ同じタイミングで鳴った。
『何で避けたんだよ!あれか!?俺の触れたボールに触れたくなかったってか!?』
『いや、ごめん。わざとじゃないから』
パスをしてきた男子は仲の良い友人だったらしい。よくからかっているせいか、本気で落ち込みかけている友人にそう声をかけて慰める。
午前の授業が終わって昼休みに入った。食堂の席をめぐる争いが、これから始まる。さっさと片付けを始める中、もう一度校舎を見上げて彼女を探した。
――いた。
あそこが彼女の教室なのだろう。先ほどの席から動いていない彼女は、机の上の勉強道具を片付けていた。
『なあ』
『ん、どうした?一之瀬』
俺は先ほどまでわざとらしく落ち込んでいた友人に声をかける。視線は変わらず彼女に向けたままだ。
『あそこって、何組の教室?』
『んー?3階だから1-Aだろ』
『……へえ』
『それより!片付けまでサボんな、よ!!』
机の中に教科書をしまう彼女を見つめていると、友人が腕を首にひっかけてきた。そのせいで視線が下にずれるが、すぐに彼女の元へ戻す。
そこには、目の前の席の女子、おそらく彼女の友人だろう。その子に向かって、愛らしい笑顔を浮かべている彼女がいた。
――それからさらに数ヵ月後――
二年に進級した俺は目の前のクラス分けを眺めていた。隣で友人が俺と同じクラスだとはしゃいでいるが、それはどうでもいい。
俺が探しているのは、あの日の彼女の名前。あれから友人にいろいろ教えてもらい、彼女の名前を知った。
『双葉 朱姫』、少し変わった名前だからすぐに覚えられた。
その名前を今探している。Dクラスから見ていたが、Bクラスまで名前はない。見落としてなければ残るAクラスに名前があるはずだ。
彼女の名前を何度も心の中で繰り返しながら探していた時。
『あった――』
『あったよー!朱姫!!私たちまた同じクラスだね!』
小さく呟いた俺の言葉をかき消す声音が、その場に響いた。
視線を向けると、見覚えがあるようなないような少女がいる。その隣には彼女の姿もあった。
『よかった。奈々ちゃんと離れたら寂しかったもん』
『私と朱姫は運命の赤い糸で結ばれてるから大丈夫だよ!』
『それは彼氏さんじゃないの?』
思い出した。彼女と俺の間にいる少女は、初めて彼女を見かけた時、彼女の目の前の席にいた子だ。
楽しそうな表情で少女をからかう彼女。それがとても愛らしくて、羨ましいと思ってしまった。
『おい、一之瀬!教室行こうぜ?』
『あぁ……俺、何クラス?』
『探してたんじゃねーのかよ!?ってかマジで俺の話聞いてなかったのか!?』
ピーピー喚き始める友人を引き連れながら、下駄箱へさっさと向かう。もう一度気付かれないように、彼女の方を見やった。
いまだに笑みを浮かべている彼女を見るだけで、なんだか胸が騒ぐ。その理由はわかってはいるが、俺が近づくと彼女の日常を壊してしまうことになるだろう。
友人の情報や彼女の様子を見る限り、彼女は高嶺の花と扱われているみたいなので今が一番平和のようだ。それを崩すような真似はしたくない。
しばらくはこのまま見守っていようと思っていた。
そんなある日、友人と帰り道のコンビニへ寄って駄弁った後、家へと帰ろうとした時だ。
食べ終わったアイスの棒をゴミ箱へ入れて、曲がり角の手前まで歩いていた。太陽は沈みかけているが、夏の西日はかなり強い。
いっそのこと沈んでしまえと思いながら歩いていると、目の前の曲がり角を曲がってきた人物が当たってきた。
『――きゃっ!!』
『うっわ!?』
相手は女だったらしく俺が受けたのは軽い衝撃程度だったが、その相手が逆に吹っ飛んでしまう。反射的な行動だった。
女の腕を掴んで転げるのを阻止する。軽くよろけるだけで済んだみたいで、ほっと安心した。
少しの余裕が生まれたところで、ようやく相手が誰だか認識する。俺と同じ高校の制服だ。綺麗な黒髪が絹糸のようで、白い肌はだいぶ走ってきたのだろうか、ほのかに赤い。
そして髪の合間から見えた顔に覚えがあった。
『お前……隣のクラスの双葉か?』
『えっ……?』
的中だったのだろう。驚いた様子で目の前の女、双葉は顔をあげて俺を見る。
――ああ、やっぱり。
あの日と同じ、綺麗な瞳をしていた。だけどどこか、驚きだけではない不安めいたものがあることに気づいた。
『一之瀬、くん……』
『大丈夫か?すっごい汗かいてるけど』
彼女に怪我がないか確認するため、全身を見ながら問いかけた。
もともと彼女は細いラインをしている。透き通るような白い肌が、夏の制服のせいで二の腕から丸出しだ。
その夏の制服も、彼女の汗のせいか濡れていて中の下着が透けている。
短いスカートからのぞく綺麗な足、紺色のハイソックスがそれを引き立たせていた。
『……っ、ごめんなさい!すっごく気持ち悪かったよね……?』
つい彼女に見惚れていたこともあり、反応が少し遅れてしまう。申し訳なさそうな彼女の様子を見て、小さなため息をついてしまった。
友人に対する彼女の態度と、俺や他人に対する態度の差。それに少しばかり嫉妬したんだ。
『あのな、こういうときは謝罪も大事だけど……ありがとうって言うのが正解なんじゃないの?』
『あ、ありがとう……』
少し声音が低くなってしまった。怯えさせてしまったんじゃないだろうかとも思ったが、彼女の小さな声が聞こえた。
半ば無理やり言った感がなくもなかったが、素直な彼女が可愛くて、面白くて。機嫌を直して彼女に微笑みかけながら、その頭をぽんぽんと撫でる。
想像通り、彼女の髪はさらさらでとてもさわり心地が良かった。
『どういたしまして』
僅かに彼女の頬が赤く染まったように見えたが、それは調子に乗りすぎか。
『で、急いでたんじゃないの?』
『え?』
『だって、さっきまですごい勢いで走ってたんだろ?びしょ濡れだし』
当初の彼女の様子を思い出しては何気なく問いかけた。
すると何故だか彼女は頬に手を添えるも、すぐにはっとした様子で曲がり角の向こう、彼女が走ってきた方向を見る。
そして安心した様子で息を吐き出す彼女を見て、なんとなく事態を察した。
『うん、大丈夫。急いでたわけじゃないから』
『……変な奴にでも追いかけられてたのか?』
『え?まあ……似たような感じかな?』
苦笑して言葉を濁す彼女。当たらずとも遠からず、という感じか。
それから少しだけ考え込む。このまま彼女一人で帰してまた怖い目にあう確率と、安全を考えて送っていくという案。
彼女とお近づきになる絶好のチャンスだ。考え込んだが、答えは一つに等しかった。
『双葉って家、この近くなの?』
『そうだよ?ちょっと通り過ぎてきちゃったけど……』
『なら送ってやるよ。俺も家、近くだから』
断ろうとする彼女の手を取って、彼女が曲がってきた方向に曲がる。本当は俺の家は逆方向だけど、彼女が俺の家を知っている可能性は低いだろう。
彼女の家に着くまでの間、他愛ない話をしていた。
『――今日はありがとう、一之瀬くん』
『どういたしまして。俺はこれから毎日送ってもいいけど?』
『それは申し訳ないよ!それに……一之瀬くんってモテモテだし』
他の女の子に悪いから、と彼女は眉根を下げて笑う。
まあ初対面だしそれが普通の対応なのだが、俺としては少し惜しかった。
『あ、じゃあさ。連絡先交換しない?また何かあったら連絡して』
『う、うん。ありがとう』
玄関の柵を開けて、家の中に入ろうとする彼女に声をかける。すると動きを止めた彼女だったが、振り返ってこちらに近寄ってきてくれた。
差し出された彼女のスマホの画面に、俺のスマホの画面を向き合わせて連絡先を交換する。
『ありがとな、双葉』
『こちらこそ、送ってくれてありがとう。一之瀬くん』
ふわりと、彼女は微笑んで玲を告げた後、今度こそ家の中へと入っていってしまった。
去り際の笑顔とか反則だろ、マジで。
顔に夏の暑さではない熱が集まりのを感じて、腕で顔を覆う。
もちろんこの時の俺は、その様子を見ていた人物がいたことなんて気づいていなかった。