五月十一日・6-2
「はし……ば……くん……?」
玖珠葉の声がぽつりぽつりと、静寂の中に零れていく。
「何で……ここに……」
だが、その声もどこか遠くに感じたまま、耀は気が付けばふらふらと歩き出していた。
――なんだ、これ……
気持ち悪い。感じたことのない不快感が無性に胸の中で渦巻いている。言葉に出来ない憤りが呼吸の邪魔をする。
くらくらと眩暈にも似た感覚を覚えながら、その足取りは恵那の元へと向かっていた。
「羽柴、君……?」
戸惑う玖珠葉に名前を呼ばれたが、耀は反応することを失念したまま玖珠葉の横をすれ違う。
力なく横たわる恵那の側へ屈みこむ。
気がつけば狼の姿はそこにはなかった。
身じろぎ一つしない恵那の姿はまるで人形のようで、思わず性質の悪い冗談かと思ってしまう。しかし、肩から胸にかけてべったりと赤黒く染まっていて、牙で貫かれた痕が裂けた衣服の下に薄っすらと見えていて。
力なく放り出された四肢が、ぴくりとも動かない顔が、今もなお零れ落ちていく血液が、目の前の少女の結末を語っていた。
不意に、恵那の頭部にある煌きが目に入る。
以前お守りだと言っていた髪飾りの破片だった。横たわる少女の髪を纏めていたはずの輝石は、地面に散らばりその役目を果たせない姿になっていた。
それを見ていると胸の奥が疼く。今まで生きてきて、こんなにも気分が悪くなるのは初めてだった。
あの日遼平と恵那の二人が傷ついて倒れていたときでさえ、こんな気持ちにはならなかった。
惨劇が目の前で起きたからだろうか。それとも、あの時と違い死を意識してしまうからだろうか。あるいは、自分が早い段階で割って入っていれば、結果が変わっていたかもしれないという後ろめたさがあるからだろうか――
耀はそこで初めて、桜花が言っていたことを理解した。
『――自ら手を伸ばし、繋ぎ止めなければならない。そうでなければ、いずれ遠く、触れることも叶わなくなる――』
人はそれを後悔と呼ぶのだろう。そのことすら眺めるだけだった自分には、そんな当たり前のことも遠い世界の出来事だと勘違いしていた。
目の前の凄惨な光景に息苦しさを覚える。
しかしその一方で――いや、だからこそ、その苦しさから逃れたいという自分本位の感情があったのかもしれない――この惨状を回避したいと思い始めていた。
「羽柴君……どうやって、ここに……? 普通に来れるはず、ないんだけど……」
耀が小さく呼吸を乱していると、背中越しに声が掛けられる。聞こえる声は微かに震えているようだった。
耀は立ち上がり、振り返る。
玖珠葉はこちらを向くことなく背中を見せたままでいた。
「野杜神さんに……」
「なんだ。やっぱり、その子独りじゃなかったんだね」
しかしこの状況でもまだ桜花が姿を見せないことを考えれば、玖珠葉と恵那に関して自ずから割って入る気が無いのは明白だった。
玖珠葉がゆっくりと振り向く。
「いつから、居たの?」
「箕柳さんが、狼を出す少し前から」
「はは……そんなに盗み聞きしてたんだ。趣味、悪いなぁ」
そう言って苦笑する玖珠葉の表情は、酷くぎこちなく見えた。
「箕柳さん」
耀が一つの可能性に思い至り名前を呼んだ瞬間、玖珠葉が体を強張らせるのが伝わってくる。
「……近くに野杜神さんが居るはずだから、探すのを手伝って貰えないかな」
「……何を言ってるの……」
桜花が偶然あの場所に居たとは思えない。ここに来る気配がない理由は耀には知る由も無かったが、付近に居る可能性が高いはずだ。もしそうであれば、桜花と一緒に秋慈が居る可能性はある。そうでなくても秋慈と連絡を取ることは出来るはずだ。
自分が一見すれば絶望的に見える恵那の状況も、秋慈に見せれば最悪の結果を回避出来るかもしれない。
いっそこのまま恵那を抱えて行こうかとも思ったが、それを目の前の玖珠葉が見逃してくれるとは思えなかった。第一、玖珠葉自身が普通に来れるはずがないと言っている場所から、易々と脱出出来る気もしない。
そうなると結局の所、玖珠葉の助力が無ければ自分に出来ることなど何もないに等しい。
「……何で羽柴君がそんなことをするの……? ……大体、見てたんでしょ? 私がその子を助けるのに力を貸すと思ってるの? それにその状態でまだ生きてると思ってるの? 死んだ子のことなんて、放っておけばいいじゃない!」
すんなりと承諾されるとは全く思っていなかったが、やはり案の定手を貸してくれる気配はない。それに加え、はっきりと死んだと言い切られ、耀は思わず息を呑んでしまう。
「その子がどうなったって、羽柴君には関係ないでしょ? 明日になればまた変わらずに日常を送るんでしょ? 関心があったなら……もっと早く姿を現してるはずだよね?」
「それは――」
痛いところを突いてくる。恵那が倒れるまで、この期に及んで手を伸ばすことに積極的になれずに――
耀は何か引っかかるものを感じた。
「羽柴君らしくないよ……」
玖珠葉が言葉少なに呟いた。
不意に、耀は焦燥感にも似た不快感だけが募っていく中、違和感の正体に気がつく。
恵那に対して、本当に単純な殺意があるだけだったならば、わざわざ彼女の言葉に耳を傾ける必要などなかったはずだ。
それ以前に、良く考えてみれば今ある結果とそこに至る原因が矛盾だらけに思えた。わざわざ玖珠葉が恵那の呼び出しに応えたこと。少なくとも最初の段階では大人しく話を聞いていただろうこと。止めを刺せる段階になってまで会話をしていたこと。
そこにあるのが純粋な殺意だけなら、そんなことをする意味はないはずだ。
それに――
耀は今朝大学で言われたことを思い出した。
普通に大学に来れるなんて、と。今思えば、それは玖珠葉に対しても同様だ。自分に対して何かしらの疑いを持っている人間が居ることを知っていたのに、彼女は変わらず日常生活を送っていた。
恵那が最後に言いかけていた。孤独だと。
玖珠葉の抱える矛盾はそこから来ているように思えた。
だとすれば、彼女に手を伸ばせば、それは届くのだろうか。
しかし、彼女に届く言葉を持っていなければ、その手は振り払われてしまいそうだ。
そして耀には、玖珠葉の気持ちを推し量れるだけの経験がなかった。そんな人間が何を言ったところで、彼女にとっては戯言にしかすぎないだろう。
夜の林の中に、本来の静寂が降りる。
一度だけ、玖珠葉の瞳が寂しげに揺れた気がした。
耀が言葉に詰まっていると、玖珠葉が呟き、同時に黒い狼の姿が再び現れる。
「――」
その呟きを、耀には聞き取ることが出来なかった。
掛けるべき言葉が見つけられない。伸ばすべき手の伸ばし方が分からない。
耀は伝える術がないことに、生まれて初めて唇を噛んでいた。
一歩近づけば、手が届く距離。
それだけ近くにいるのに、玖珠葉がとても遠くに感じられる。人との距離をこんなにも意識したのは初めてだった。
「もう、いい」
玖珠葉の抑揚のない声が空気を震わせた。
気圧されるようにして、耀は無意識の内に小さく後ずさる。その拍子に、足元に倒れていた少女にぶつかり体勢を崩してしまう。
しりもちをつくような格好で後ろについた手のひらに、小さな痛みを覚える。
思わず確認すると、それは恵那が着けていた髪飾りの破片のようだった。
月明かりを浴びて輝いている破片の側で、身じろぎ一つせず少女が倒れている。
最後に目が合った気がした。あの時彼女は何を思ったのだろう。
胸の奥にざわつく思いが渦巻くと同時に、地面を擦る音がして、耀は顔を上げた。
玖珠葉が見下ろしている。しかしその表情は陰になっていて、よく見えない。
「羽柴君も、怯えないんだね」
ぽつり、と呟くように玖珠葉は言った。
「……あの子と同じで、私に手を差し伸べようだなんて考えてたりするの?」
玖珠葉の問いに、耀は思いがけず口元を綻ばせてしまう。
「……何が可笑しいの?」
「いや――」
その手を伸ばす手段が分からないから、掛ける言葉も紡げないというのに。
「――手を伸ばすことを知らないって言われたんだ」
「何、それ」
「どれだけ距離が縮んでも、最後は自分自身が手を伸ばさないといけないって。手を伸ばさないから、何もかも遠い世界の出来事のように感じてるんだって」
「なら……このままもう、帰ろうよ。その子が死んだって、羽柴君には何の関係もない。また、今朝までのように、日常を過ごそうよ」
会話が途切れ、しん、と静まり返る。
風の音すら聴こえずに、耀は玖珠葉をじっと見つめていた。
時間が止まった錯覚すら覚えるような光景の中で、手の平に残る微かな痛みだけ鮮烈に意識を蝕んでいく。
今ここで、倒れている少女を見捨てても、恐らくいずれ、また日常に戻るだろう。
この、罪悪感も、不快感も、焦燥感も。時間と共に薄れ、消えていくに違いない。
玖珠葉の言う通り、このまま全てから目を背ければ、今朝のようにまた過ごせる。
そう――今までと同じ、変わりのない日常を。
どくん、と。耀は自分の鼓動を聴いた。
――迷ってられるほど、時間があるわけじゃない。
認めろ。自分の言葉は彼女に届かない。相手がこっちをどう思っていようが、現時点でそれは覆しようのない事実だ。
倒れた少女と目の前の彼女。両方に対して丸く治めることは絶対に出来ない。
今まで手を伸ばしてこなかった人間が、都合よくその手を掴めるわけがない。
「っ……」
耀の目に宿る意思を見て取ったのか、玖珠葉が悲しげな吐息を漏らすのが聴こえた。
その瞬間、狼が揺らめく。
耀は体が浮き上がる感覚と共に、耐え難い痛みを覚えた。思わず顔を歪め、呻き声を上げる。爪でなぎ払われたと気が付いたのは、土の上に転がった後だった。
左腕にべとりとした感覚が生まれる。引き裂かれた袖が地面に落ちる。
爪が掠ったのか、頭部から流れたらしい血が、左目の視界を赤く遮った。
狼を傍らに、玖珠葉がゆっくりと近づいて来る。
その動きが酷く緩慢なのは、恵那と違いこちらに打つ手が無いと知っているからだろうか。それとも玖珠葉の迷いなのか。
奇妙に間延びした時間感覚に囚われる。
目の前にあるはずの玖珠葉の姿が、やけに遠く見えた。
声が届かなければ、力ずくでこの場を切り抜けるしかない。だが、玖珠葉をどうにかしようにも、まともにやりあえば勝ち目があるわけはなかった。即座に玖珠葉の動きを止めるだけの手段もない以上、不意を衝けたとしても何の意味もないだろう。
眼前に玖珠葉が佇む。
耀にはただ見つめることしか出来なかった。
手の中に残っていた痛みが朧になっていく。胸の底にわだかまる感情が、知らないうちに唇を噛ませていたことに気がつき、強く、その手を握り締めた。
紡ぎだせる言葉もないまま、再び凶爪が空気を引き裂く音を聴く。
爪は高く掲げられ、耀の頭上へと振り下ろされる。
耀は咄嗟に腕を振り上げた。
人間の腕など、容易く引き裂かれる。こんなもので防ぐことなど出来はしないと、頭のどこかで思っていた。
しかし――
突如、金属音に近い硬質な音が夜気を切り裂いた。
耀は同時に、強烈な衝撃を腕に覚える。そして、目の前にある――手の中にある物をを見て、自分の目を疑った。
狼の爪は、耀が手にしている一本の剣によって遮られていた。
月明かりの下で清麗に煌くそれは、間違いなく恵那が扱っていた剣だ。
「なんで……」
呆然とする玖珠葉の声が聴こえた。
その声で、耀は我に返る。
――この剣は覚悟の残礎だと。そう言っていた。
痛む体に力を込めて、剣を強く握り締める。
――もう、覚悟を決めろ。
この機を逃したら、きっと全てが終わってしまう。
――自ら手を伸ばさなければ、何も手に入りはしない――
耀は全力で地面を蹴って玖珠葉との距離を詰めた。
そしてそのまま、その手に掴んだ歪な剣を真っ直ぐに、躊躇いを振り切って突き刺す。
剣の出現に気を取られていた玖珠葉が息を呑むのが分かった。狼を動かそうとしたのかもしれなかったが、彼女の腹部を剣が貫く方が早かった。
「――」
呼気に近い、玖珠葉の擦れた声が漏れる。その瞳にすっと溢れた何かが、暗がりの中で月明かりを反射した。
玖珠葉の体から力が抜け、耀は抱えるような体勢で抱き留める。
そこまでの一瞬が、やけに長く感じて、実は夢ではないかとさえ思ってしまう。このまま一緒に倒れてしまえば、次気づいた時には何も変わらない日常に戻っているのではないかと、そう錯覚してしまうほどに。
だが、今はまだ倒れるわけにはいかない。
耀は玖珠葉を半ば引きずるようにして、恵那の側へと向かう。気がつけば手にしていたはずの剣は消えていた。玖珠葉の腹部に見える黒い染みだけが、あの存在が幻ではなかったことを告げる唯一の証拠だった。
鈍痛を覚える頭に目を強く瞑りながら、耀は玖珠葉を背負い直し、恵那を抱え込んだ。
「戻らないと……」
自分に言い聞かせるように呟き、林の中を歩きだす。
幸いなことに、雑木林からはすぐに出ることが出来た。後は桜花を探すだけだ。しかし、どこに居るかがわからない。
耀は微かな希望にすがる様にして、以前恵那を運んだのと同じ場所へと足を向ける。
徐々に眩暈は強くなり、左腕からはぽたぽたと血が零れ落ちていく。
苦しい。そう思った時、気がつけば微かに笑っていた。
ここまではっきりと、苦しいと思うのに諦めきれず行動しているのは、生まれて初めてかもしれなかった。
普段であれば大したことのない距離が、今は無限の彼方に感じてしまう。しかしそれでも、そこを目指すことを止める気にはなれなかった。
やがて、公園の南口が視界に入る。
果たして、桜花達はそこに居るのだろうか。
意識が次第に闇に沈み込んでいくようだった。
目に映る全てが、酷く精彩を欠いている。前に進んでいるのかどうかも分からなくなっていく。
薄れ行く意識の中、名前以外の呼称で自分が呼ばれるのを聴いた。
耀の意識は世界と切り離されるようにして、そこで途切れた。




