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五月十一日・4

 耀は冷蔵庫を開けて思わずため息をついた。中には空腹を満たせそうなものは何も残っていない。

 秋慈に服を返し帰宅した後、なんとなく何をする気にもなれず横になっていたら寝てしまったらしい。気がつけば日付が変わるまで一時間を切っていて、目覚めると同時に空腹を覚えた。

 このまま寝てしまおうかとも思ったが、どの道買出しには行かなければならない。それならば、今この空腹を満たすついでに買出しへ行ってしまったほうが良いだろう。どうせしばらくは眠れそうにもない。

 緩慢な動作で準備をして、玄関を出る。少し風が強くなっているようだった。

 この時間ではコンビニエンスストアくらいしか開いていないだろう。

 耀は夜闇の中をとぼとぼと歩き出す。

 一人でぼんやりと歩いていると、秋慈に言われた言葉を思い出してしまう。自分は今、どんな顔をしているのだろう。

 自分から動くことをしないと、そう指摘された。そしてそれは自分でも薄々感じていることだった。

 そんな自分と無為な生活を、心のどこかで嫌悪していたのかもしれない。自分ではどうして良いかわからずに、外からの変化を求めてこの四月に一人暮らしを始めた。

 そのお陰かどうかはさて置いて、変化はあった。非日常的な現象と、その世界に浸っている人との出会いがあった。

 しかし、それでも結局、自分の根本的な所には変化を感じることが出来ずにいる。

 友人が倒れても、その身を案じて不安を覚えるようなことはなかった。

 その友人に傷を負わせた知人に対しても、嫌悪感や怒りを覚えることはなかった。

 玖珠葉が言っていたように、「遠い世界の出来事」であるように見えていたのかもしれない。

 十字路の角にあるコンビニエンスストアが見えてくる。

 渡るべき信号が点滅し始めるが、急ぐ気はなかった。十字路に差し掛かる手前で赤に変わる。

 どこか心ここに在らずと言った感覚で赤信号を眺めていると、背後から予想もしていなかった声が掛けられた。

「おや、少年……面白い所で出会うものだな」

 振り向けばそこには、見知った人物の姿があった。

「野杜神さん……」

「こんな所でも出会うとは、数奇な巡り合わせもあったものだ」

 桜花は始末におえないと言った様子で笑うと、

「運命の女神とやらは、人を過去と向き合わせるのが趣味なのか」

 そう呟いた。

「え?」

「いや、何でもない」

 そう言われても、じっとこちらを見つめる桜花の姿はどう見ても何でもないようには見えなかった。

「少年」

 辺りの雑音を切り裂いて、静麗な声が空気を震わせた。それと同時に桜花が無造作に右目の眼帯を外す。

 その下に隠れていた瞳を見て、耀は目を見張った。

 傷があるわけではない。左目と同様の日本人によくある黒目だ。しかし、その右目の虹彩には、淡い緑色の線が揺蕩っていた。

 その線は基本円を描いていて、その円がゆっくりと揺らめいている。線自体も、闇に溶け込むように拡散し消えていく。その様はまるで炎を連想させた。

 明らかに異質であるにも関わらず、耀はその瞳に魅入ってしまった。

「二つ程、質問させて貰う」

 桜花はその瞳で、耀を見据えながら言う。

「宇多遼平や箕柳玖珠葉について、どう思っている?」

 出された名前に、耀は思わず二人の姿を思い浮かべた。

 咄嗟にはその質問に対する答えを言葉に出来なかった。しかし、桜花は僅かに驚いた様子で「そうか」と呟くと、耀の返事を待つこともなく次の質問を繰り出してくる。

「少年は――どうしたい?」

 あまりに漠然とした質問に、耀の脳裏には言葉にならないいくつもの思考が巡っていく。

 当然のように、そんな乱流のような思考を言葉にすることは出来なかったが、桜花はしばらく耀を見つめた後、静かに言い放った。

「確かに、関心を持つ対象がなければ、楽しいと思うこともないかもしれないな」

 桜花の言葉に、耀の心臓が強く跳ねる。

 何一つ答えていないはずなのに、完全に胸中を看破された気がして、体温がすっと下がるのを感じてしまう。詰問されているような嫌な気持ちを覚え、声が出せない。

「少年」

 耀は桜花の右目から視線を逸らせなかった。

 桜花の声は大きくはなかったが、奇妙な存在感を持って耳朶に響いてくる。

「世界のあらゆる物事は、自分が歩いていくことで、手を伸ばせば届く位置にまで近づける可能性がある。だが、どんなに歩いたところで、絶対に、手を伸ばさなければ届かない位置にまでしか近づくことは出来ない」

 桜花は一呼吸の間を置いて、耀を諭すように語り掛ける。

「手を伸ばさずに眺めているだけでは、何もかもが遠い世界の出来事と変わらない」

 耀は玖珠葉に指摘されたことを思い出していた。

 関心がないから。手を伸ばし触れることがないから。どこか遠い世界の出来事であるかのように感じていると言うのか。

 しかし、手を伸ばすことが関心を示すことと同義なら、自分はその手の伸ばし方を知らない。

「……少年」

 そう言って桜花は何かを握った右手を差し出した。

 耀は反射的に手を伸ばし、それを受け取ろうとする。その手に桜花の軽く握られた手が乗せられるが、桜花はそのまま手を開こうとはしなかった。

 代わりに穏やかな微笑を浮かべる。

「手を伸ばすことなど簡単だろう?」

「……」

 触れる桜花の手の温度を感じながら、耀はぼんやりと相手の瞳を見つめ返す。

 それはそうだ。物理的に手を伸ばすことは容易い――いや、きっと本質的には同じなのだろう。何となくは気付いている。触れるためには、関心を持つためには、ただ沈黙して佇んでいるだけでは何の意味も成さないことを。

 けれど、自分にはそれをする意思が足りない。手を伸ばし、触れるための気力が沸いて来ない。それは恐らく、意識せずに手を伸ばせる人間には解らない。

 その事を辛いと思ったことはない。だからこそ、尚更自ら手を伸ばすことが出来ずにいる。

 差し出された桜花の手が開かれ、何かが耀の手のひらに残った。

 それは流麗にカットされた輝石だった。無色透明で澄んでいる。宝石の様に見えるが、それにしては扱いがぞんざいな気がする。

 耀が渡された輝石の意味に頭を悩ませていると、桜花は何故か苦笑して見せた。

「自分の中には手を伸ばすだけの熱量がないか?」

 再び言葉にしていないことを看破され、耀は目を見張る。しかし、桜花はその反応すらも分かっていたかのように続けた。

「思うに、少年は恵まれすぎているな。万物は流転すると言う言葉があるように、全ての物事は常に変化し続ける。その距離にしてみても当然移り変わる。保つためには自ら手を伸ばし、繋ぎ止めなければならない。そうでなければ、いずれ遠く、触れることも叶わなくなる。そんな世界の中にあって、ただそこに佇んでいるだけであっても孤立しないのであれば、それは非常に幸運なことだが……」

 そこで桜花は珍しく言葉を濁した。

「……恵那が箕柳玖珠葉を説得したいと思っていることは知っていたな」

「え? ……えぇ、具体的には知りませんけど……」

「恐らく今頃、くだんの公園にいるはずだ。すまないが、その石を持っていってくれ」

「俺が、ですか?」

「前にも言ったが私はその場に居合わせる権利がないのでね」

 桜花はそう言うが、自分にもその権利があるとは思えない。あの二人の間に何があるのかも知らず、どちらのこともろくに知らないのだから。

 しかし、耀のそんな想いも桜花には関係ないようで、桜花は青になった信号を渡って行った。

 耀は当初の目的も忘れて桜花の背中を眺める。

 手の中に残る輝石をつき返すことも頼まれごとを反故とするのも、何故かその時の耀には思い浮かぶことが無かった。

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