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五月十日・3

 隣の部屋へと移動すると、恵那が少し疲れた様子でため息をついている姿が目に入った。

「大丈夫?」

「え?」

 先ほどの湯飲みを洗っていたらしく、水を止めながら恵那がこちらに振り返った。

「いや……何か疲れてそうだったから」

 普通に動いているとは言え、遼平と同じように異常な傷を負ったのは確かだ。傷の深浅は正直良くわからなかったが、日常的な行為だけでも重労働になる可能性はあるように思えた。

「あ……いえ……大丈夫です」

 しかし、恵那はそう言って、

「私、ちょっと人と話すのが苦手で……もう少し上手く話せればなぁと思って……」

 ばつの悪そうな微笑を浮かべた。

「そうなの?」

「えぇ……その、これでもかなり、頑張ってみてはいるんですけど……」

 言われてみれば会話にたどたどしさはあったが、別段気にかかる程ではないように思えた。なにより、会話の内容は桜花の説明より随分と飲み込み易かった。

 ふと耀は部屋を見回してその桜花の姿がないことに気がついた。

「そう言えば、野杜神さんは?」

「桜花さんなら、秋穂を迎えに、行ったみたいですね。何か、用事でした?」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 結局あの人は何のために自分をここに連れてきたのか。遼平に会わせるためだと言われればそうなのかもしれないが、ほぼ赤の他人である自分に対して、そんなことをする理由がわからなかった。

「あの……」

 恵那がテーブルの上にお茶を出しながら声を掛けてくる。

 元々自分の分を淹れるつもりだったのか、先ほどのとは形の違う湯飲みが手元に置かれていた。丁度耀が戻ってきたため、自分の分だけでなく二人分淹れたようだ。

 耀は促されて椅子へ座る。

 手元に出された湯のみに口をつける程度の間を置いてから、恵那が囁くような声で尋ねて来た。

「箕柳さんとも、知り合いなんですか?」

「……まぁ、一応……」

「……箕柳さんって、どんな人でしたか?」

「どんなって……」

 一連の話を聞いてしまった今、耀の玖珠葉に対する印象は随分と定まらなくなっていた。

 話を聞く前であれば、非常に社交的で交友範囲も広くて、笑顔をよく浮かべる魅力的な女性だと言い切れたかもしれない。少なくとも、今日大学で会った時はそれまで通りの明朗な姿に見えた。

 しかし、桜花と鉢合わせしたときに見せた、玖珠葉のあの表情と態度は、今まで見たこともないものだった。そしてそれは、玖珠葉が遼平を襲ったという話とそれほど違和感を生むことなく結びついてしまう。

「そう……ですか……」

 耀が伝えた個人的な印象を聞いて、恵那は視線を落としながら呟いた。

 耀は何となく、手持ち無沙汰に視線を窓の外へと向けた。

 かなり離れたところに民家らしきものが見えるだけで、本当にだだっ広い程の空き地が広がっている。そんなに都市部から離れているようにも思えないのに、こんなに閑散とした場所があるのは少し不思議なくらいだ。

 ちらりと恵那の様子を伺うと、両手で湯飲みを抱えたままやはり視線を落としていた。

 何故、この少女はそんなにも彼女のことを気にかけているのだろうか。

 旧知の仲なのか、あるいは親族であったり特別な繋がりがあるのか。ただ、あの時玖珠葉が見せた桜花への態度を鑑みるに、桜花と行動を共にしているこの少女が玖珠葉と親しい仲にあったとは思えない。

「あのさ……椚さんと野杜神さんは、箕柳さんとどう言う関係なの……?」

「え……? あ……」

 ぱっと顔を上げた恵那が瞳を瞬かせると、少し視線をそらし考える素振りを見せた。

 今までの話からすれば、いつだか恵那が言っていた行方不明者と玖珠葉が関係していることは何となく推測出来る。しかし、結局のところその程度で、遼平を含み自分の周りの人間が関連しているのに、それらの接点を全く知らなかった。

「その……桜花さんと私は、霊的な事件というか……そういうのを、解決する仕事、をしているんですが――」

 恵那が訥々と話始める。

「――今回、行方不明者が出てるって話で、その調査をしてて……その……」

「……その犯人が、箕柳さん……?」

「……それは……まだ確信がないですけど、恐らく……」

 知り合いだと答えた相手に対して、その事実を告げることに抵抗があったのか、恵那は申し訳なさそうに瞳を伏せた。

 玖珠葉の立ち位置は概ね予想通りのものだった。だが、遼平が実際に傷を負わされていて、恵那の口からそう聞いた今もなお、耀は玖珠葉に対して恐怖や敵意を覚えていなかった。

 それが実際に玖珠葉のそう言った姿を見ていないからなのか、それとも未だに信じられていないからなのか、でなければ気付いていない別の理由があるのかは、自分でもわからない。

「羽柴さんは――」

 穏やかな声音で名前を呼ばれ視線を向けると、恵那が静かにこちらを見つめていた。

「――宇多さんや、箕柳さんのことを聞いても、あんまり動揺はしないんですね」

 耀は思わず息を呑んでしまう。

 恵那は別に咎めるような口調ではなかった。しかし、その的確な言葉は自分の冷淡な部分を指摘している気がして、心に澱となり沈んでいく。

「あ、あの……別に酷いとかそう言う事じゃなくて……」

 顔に出ていたのか、恵那が慌てた様子でフォローを入れる。

「はは……まぁ、自分でも少し、そう思うから」

「そ、そんな事ないです。羽柴さんもきっと手――」

 恵那が、それまでからは想像の出来ない強めの口調で言いかけた言葉はしかし、ドアの開く音と共に聞こえた声に遮られた。

「え……恵那が人と普通に話してる……!」

 椅子に座っていた二人が振り向いた方向には、秋穂が驚いた表情で固まっていた。

「ほぉ。確かに恵那が私達以外に語気を荒げるとは、珍しいな」

 続いて姿を見せた桜花も、珍しく意外そうな表情を見せている。

「お……桜花さん。け、結構早かったんですね」

「そうか? 片道五分で、往復十分だ。寧ろ予定通りだと思うが」

「そんなことより、ちょっと、ほんとにビックリなんだけど。初めて会った時は、知らない人と話すことになったら俯いて黙り込んでたあの恵那が……成長したもんだ。きっと巣立つ雛を見る親鳥の心境ってこんなんなんだね。うぅ、私は嬉しいよ、感無量だよ」

「え、ちょっと……そんなに酷くなかったと思うんだけど……」

 秋穂の思い出に異議があったのか、恵那は控えめに抗議を試みる。しかし、秋穂はぐっと拳に力を込めて、力説し始める。

「いや! あったね! 今でもはっきり覚えてるけど、恵那と初めて会った時、私結局あんたの声一言も聞けなかったし。兄貴みたいに仏頂面で淡々と話す人間相手ならともかく、私は笑顔で穏やかに話しかけてたのにさー。あの時は何かまずいこと言っちゃったのかなとか、本気で気にしてたくらいだよ!」

「え……そう、だっけ……?」

 耀は恵那が形の良い眉をひそめて小首を傾げるのを眺めていた。

 必死に思い返そうとしているようだったが、本人の記憶にはどうやら心当たりが残っていないようだ。

 秋穂の言うことが真実であるかどうかを、耀は判断しようもなかった。しかし、初対面の秋穂がこの勢いで話しかけていたのだとすると、恵那が会話から置いていかれるのも何となく想像がつく。遼平のような性格ならいざ知らず、昨晩自分自身もそれを体感していたし、恵那も恐らくそうだったのではないだろうか。

「こんな年でこんな仕事に足を突っ込んでるから、もう普通の友人を作る気はないのかなってずっと心配してたんだけど、まさかこんな所でその心配が晴れるなんて思ってなかったよ。羽柴さん。ちょっと対人恐怖症で会話が弾まないことが多かったりするけど、一応それも克服しようと頑張ってる健気な子だから、見捨てないで接してあげてくださいね」

「え、あ、はい」

 よく分からないテンションのまま、急に話を振られて耀はただ頷くことしか出来なかった。

「秋穂……」

「あ、そうだ。羽柴さん、今昨日の服持ってきますね。ちょっと待っててください」

 恵那の抗議する声をさらりと流し、秋穂は話題を急転換させる。そこで耀は、本来ここに来るための用事が別にあったことを思い出した。

「あ……ごめん、昨日借りてた服持って来てないんだ」

「え? あぁ、別に大丈夫ですよ。こちらは急ぐわけでもないし、それこそ気の向いたときにでも持ってきて貰えれば。と言うか、もし良かったらそのまま使って貰っても構いませんし、要らなくなったら捨てちゃってくれてもオーケーです!」

 秋穂が笑顔でそう言うと、遼平が寝ている部屋から秋慈が姿を見せた。

「騒がしいな……一応病人がいるんだが。それと、秋穂。俺の服を勝手に譲るな……」

「えー、別に兄貴が服持ってても意味ないじゃん。基本家に引きこもってるわけだし」

 秋慈は大きくため息をつき、小さく頭を振って見せた。

 秋穂はそんな兄の姿を見ることも無く、部屋を出て行く。

「ところで少年」

 桜花の声に、自然と振り返る。気がつけば、すっかりその呼称が自分のことだと認識できるようになってしまっているらしい。

「箕柳玖珠葉のことをどの程度知っている?」

 どの程度と言われても、殆ど知らないというのが実情だった。

 耀はつい先刻恵那にしたような話を、再び桜花に繰り返す。

「そうか」

 桜花が短く答えると同時に、慌しく秋穂が戻ってくる足音が響いた。

「羽柴さん。はい、これ、どうぞ。あ、そうだ。羽柴さん、夕食どこかで食べる予定とかあったりしますか? それとも、家で食べないとダメだったりします?」

「え、いや。特に予定はないけど……」

 差し出された袋を受け取りながら思わず答えると、秋穂は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「それじゃせっかくですし、夕食食べていってください。人数は多いほうが楽しいし、恵那もそれでいいよね?」

「え、わ、私?」

「そうと決まれば買出しに行きましょう! 桜花さん、すみません、車出して貰ってもいいですか? って、なに作ろう。羽柴さん食べれないものとかってありますか? あ、食べたいものがあったら遠慮なく言ってください。よっぽど変わったものじゃなければ作れると思うので」

「いや……特には……」

「おー、好き嫌いないのは素晴らしいですね。了解です、じゃぁこっちで決めさせて貰いますね。恵那があんな風に話せるお相手ですし、ちょっと気合を入れて作りますよ! 全力でおもてなしさせて頂きます!」

 秋穂は一人控えめなガッツポーズを決め、桜花と共に買出しへと出かけていく。

 一気に静けさを取り戻した部屋で、秋慈のため息が静寂を破った。

「相変わらず一人騒がしい奴だな……」

 秋慈はペットボトルを片手に、

「俺は部屋に戻る。まぁ何もないとは思うが、何かあったら呼んでくれ」

 背中を見せたまま片手を上げると、部屋から立ち去っていった。

 一時的に増した人口密度が、あっという間に元に戻る。賑やかさと静けさの落差に、耀は呆気にとられていた。

「す、すみません……」

 声に振り向けば、恵那がどこか居心地の悪そうな表情で恐縮していた。

「何か秋穂が、無理やりで……」

「え……あぁ、いや。別に。どうせこのまま帰ってもやることがあるわけじゃないし……ご馳走してくれるっていうならありがたいよ。……自炊するのも意外と面倒だし」

 最後の一言は心からの本音だった。

 一人暮らしを始めた当初はあれこれ試して見ていたものの、最近は出来合いの物を買って食べることが多くなってきている。作るだけならまだしも、もれなく後片付けがセットになってくるのが最大の要因で、これが非常に面倒になっていた。

「あれ、一人暮らしなんですか?」

「この四月からね」

 何かが変わるかと思って始めた一人暮らしだったが、その点では期待通りになっていると思える気がした。果たしてそれが良いことなのかどうかは判断しかねたが。

 奇怪な現象に接している人物達と接点ができ、大学で出来た友人はそれに巻き込まれ、話をする異性はどうやらその犯人らしい。まさかこんなことになるとは予想もしていなかった。客観的に見ても激変と言って良い程の変化だと思う。

 だが、それなのに何故か、あまりその変化を実感することが出来ていなかった。

 それは現実離れしているためなのか、それとも実際にその怪異をこの目にしていないからなのか。

 変化を期待していて、その期待通りになっているはずなのに、ずっと昔から感じている空虚な思いは拭い去ることが出来ないままだ。

「あ、お茶、淹れましょうか?」

 気がつけば空になっていた湯飲みを見て、恵那が尋ねてきた。

 再び注がれた淡い緑色の液面を眺める。

 積極的に話す人物が居ない部屋は、意識しないとすぐに静寂に支配されてしまう。家の周囲にも家屋がないため、外からの生活音すら聞こえてこない。

 ある程度の都会で生活していたらまず体験出来ないほどに静閑なその空間は、そこだけ世界から切り取られてしまったような錯覚さえ覚えさせた。

「……静かですね」

「そうだね……」

 会話をする気が無いわけではないのに、自然と会話が途切れてしまう。

「秋穂みたいに、話せればいいんですけど……」

 恵那はそう言って、微笑みながら少し残念そうな表情を浮かべた。

「あの子は、確かに話すの得意そうだね」

 ずいぶんと極端な例を出してきたと思いながら、耀は勢い良く話す少女の姿を思い出して表情を崩した。

「でも別に、無理に話す必要もないと思うけど」

「そ、そうですか……? けど、こういう時に沈黙してたら、ちょっと……気まずかったりしませんか?」

「いや、別に……」

 ふと、いつか玖珠葉とこんな話をした記憶が蘇る。あの時は何の話をしていただろう。

 玖珠葉の姿を思い浮かべた時、桜花が言っていた妙なことを思い出した。

「……そう言えば……今日、ここに来る前に、野杜神さんと箕柳さんが鉢合わせしてて」

「え……」

「その時、野杜神さんが、椚さんが箕柳さんに会いに行く、って言ってたんだけど、個人的な用事があったりするの?」

 何気なく聞いたつもりだったが、思いのほか恵那は表情を沈めて押し黙ってしまう。

 聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと思い、焦っていると恵那が沈んだ声で首を振った。

「そう、ですね。……個人的な……私の、我侭です」

「我侭?」

 恵那は視線を落としたまま、どこか遠くを見るような表情になる。

「はい……私が、依頼の解決を拒んだから……」

 恵那の口元にぎゅっと力が入り、瞳には悲しげな光が宿る。

「私が寝込んでる間に、桜花さんなら、仕事を終わらせられたんだと思います。でも、それをしなかったのは……私が箕柳さんを……助けたい、って言うと押付けがましいし、思い上がりだと思うんですけど……そう思ってて、それをする機会を、くれたんだと思います」

 恵那がすっと目を閉じ小さく息を吐いた。

 耀は恵那の話を聞いていて、恵那達から見た玖珠葉の立場をおぼろげに再認識していた。

 行方不明者を生んでいる原因というのが玖珠葉であるのなら、それを解決するには彼女をどうにかしなければならない。

 単純に考えれば、玖珠葉本人を説得する、拘束する、あるいは――殺害する。

 わざわざ確認する気は起こらなかったが、話を聞く限りでは、恵那が拒んだと言うのが殺害による解決であり、機会というのは説得による解決なのだろう。

 しかし、それにしても――

「――何で、そこまで箕柳さんを?」

 知り合いでない相手に、そこまで肩入れする理由がわからない。人を殺めるという行為に対する嫌悪感から、と言った様子にも見えなかった。

「……他人に思えないから……」

 恵那は顔を上げると、耀の方は見ずに窓の外へと視線を向け、

「桜花さんに出会わなかった自分を見てるみたいで」

 そう、静かに呟いた。

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