第60話 次の選択
目が覚めた時、最初に感じたのは手の痛みだった。
「……痛っ」
両手のひらが包帯でぐるぐる巻きになっている。
黒槍を握り続けたせいで皮が裂けたらしい。昨夜、セイルに治療してもらった時は疲れすぎていて、どれくらい痛かったのかすらよく覚えていない。
身体を起こす。
肩も腰も脚も重い。でも、ちゃんと動く。
「よかった」
『何がだ』
ベルの声が頭に響く。
「起きてたんだ」
『とっくにな』
「調子は?」
『知らん』
「またそれ?」
『分からんもんは分からん!』
声はいつも通りだった。
少し安心する。
「昨日のあれは?」
『知らん』
「金色のやつ」
『だから知らん!』
「もう出せない?」
『出そうとして出るなら、とっくに試してる』
「試したんだ」
『……一応な』
やっぱり試したらしい。
でも今のベルからは何も起きていない。
フィアまで届いた最初の光も、セイルの方まで薄く広がった最後の反応も、ベルが狙って出したものじゃない。
「まあ、今すぐ使えなくてもいいか」
『いいのか?』
「必要な時に出たんだろ」
『昨日はな』
「じゃあ、また必要になった時に考えよう」
『軽いな、お前』
「無理に出そうとしてベルが壊れたら嫌だし」
ベルが黙る。
「ベル?」
『……何でもねえ』
少しだけ声が小さかった。
右を見る。
壁に立てかけてあるクロ。
「クロは?」
『起きてる』
「黒槍」
『無理』
「即答だな」
『やった』
「試したの?」
『戻らなかった』
クロの声も少し不満そうだ。
昨日は確かに変わった。
剣から、長い黒槍へ。
でも今は、いつもの黒剣に戻っている。
「またできそう?」
『分からない』
「そっか」
『……ごめん』
「なんで謝るんだよ」
『使えない』
「昨日使えた。それで十分」
返事はない。
でも、クロの気配が少しだけ柔らかくなった気がした。
その時。
「キュイ」
「ん?」
枕元で灰白色の塊が動いた。
「トワ?」
「キュイ!」
トワが跳ね、そのまま俺の腹の上へ着地する。
「ぐっ」
「クルル?」
「いや、そこ結構痛い」
トワは気にした様子もなく、腹の上で丸くなる。
『ずいぶん馴染んだな』
「昨日ずっと預けられてたから、怒ってるのかも」
「キュイ」
『こいつ絶対分かってねえぞ』
「俺もそう思う」
扉が開く。
「起きた?」
フィアだった。
「おはよう」
「もう昼近いけど」
「そんな寝てた?」
「寝てた」
フィアの肩には薄い包帯が巻かれている。
「肩、大丈夫?」
「掠っただけ。セイルにも問題ないって言われた」
「よかった」
「ルカの手は?」
「痛い」
「正直だね」
「昨日、大したことないって言ったら怒られたから」
「学習した」
「継ぎ獣より早い?」
「そこ張り合うところじゃないでしょ」
フィアが笑う。
それを見て、やっと少し実感した。
本当に終わったんだ。
誰も死ななかった。
街へも出さなかった。
継ぎ獣は、もういない。
「調査、どうなった?」
フィアの表情が少し変わる。
「その話、ギルドでまとめてするって」
「記録は?」
「かなり消えたみたい」
「そっか」
測定晶。
今まで蓄積されてきた戦歴や技能の記録。
継ぎ獣が食べたもの。
壊れたもの。
どこまで残っているのかは、まだ分からない。
「セイルは?」
「朝からギルド」
「元気だな……」
「昨日一緒に戦ってた人とは思えないよね」
「俺なら今日は寝たい」
「寝てたじゃん」
「だから正しい」
フィアが呆れたように笑った。
「行けそう?」
「ギルド?」
「うん」
「行く」
身体は重い。
でも、確かめたいことがある。
俺はゆっくり立ち上がった。
◇
ギルドへ入ると、いつもより静かだった。
壊れた場所は応急的に塞がれている。奥へ続く通路には立入禁止の札が下げられ、何人かの職員が慌ただしく動いていた。
昨日みたいな緊張は、もうない。
「ルカ」
受付から声がした。
「ミナさん」
「おかえり」
一瞬、足が止まる。
「……ただいま」
それだけで、なんとなく胸が軽くなった。
ミナさんの視線が俺の両手へ落ちる。
「包帯」
「ちょっとだけ」
「セイルさんから聞いてます」
「あ」
「大したことない、って言ったそうですね」
「もう広まってる」
「治療する側に怒られることを言わない」
「はい」
ミナさんは小さく息を吐いてから、奥の部屋を示した。
「皆さん待ってます」
会議室へ入る。
セイルはもういた。
机の上には、壊れた晶石の欠片と何枚もの記録紙が並んでいる。
「ルカ君。手は?」
「痛いです」
「よろしい」
「何がですか」
「昨日より素直です」
フィアが笑う。
「みんな同じこと言うな……」
「キュイ」
「君は自由ですね」
セイルが眼鏡を押し上げた。
俺たちは席へ着く。
「まず、被害から説明します」
セイルの声が少しだけ硬くなる。
「人的被害はありません。軽傷者が数名。全員、治療済みです」
「よかった」
本当に。
そこが一番大事だ。
「建物の損傷はありますが、修復可能です。ただし、測定記録についてはかなりの部分が失われました」
「やっぱり」
「はい。特に継ぎ獣が接触した晶石群は深刻です。戦歴、技能記録、負傷傾向。個人ごとの蓄積情報も欠損しています」
「戻せない?」
「完全には」
セイルは首を振った。
「残った記録から復元できるものはあります。ただ、すべてを元通りにはできません」
「そっか」
たくさんの人が積み重ねてきた記録。
それが消えた。
勝ったから全部元通り。
そんな都合のいい話じゃない。
「ただし、今回の件を受けて、記録を1か所へ集中させる運用自体を見直す話が出ています」
「分けるってこと?」
「はい。複数箇所への保管や、必要以上の戦歴を1つの晶石へ集めない方法も検討されるでしょう」
フィアが腕を組む。
「食べられたら全部なくなるから?」
「それもあります」
セイルは少し間を置いた。
「それ以上に、情報を集めれば集めるほど安全になるとは限らないと分かりましたから」
俺は壊れた晶石を見る。
人の強さ。
戦い方。
怪我。
全部記録できる。
でも、その記録を使って継ぎ獣は俺たちを倒そうとした。
「継ぎ獣のことは?」
「正式な分類はまだ保留です。ただ、既存の魔物とは明らかに異なります」
「原種」
俺が言う。
セイルが頷いた。
「クロさんの記憶にあった呼び方ですね」
『うん』
クロが答える。
もちろん、セイルには聞こえない。
「クロは、そうだって」
「分かりました。では報告書には、暫定的に《原種》の可能性あり、と記載します」
「名前は?」
「《記喰原獣グラフト》」
「グラフト?」
「調査班側で仮称として整理された名称です。継ぎ獣という呼び方も併記されます」
少し長い。
「俺は継ぎ獣でいいかな」
「僕も日常会話ではそちらで構いません」
「私も」
「キュイ」
「トワも?」
「クルル」
「絶対分かってない」
少しだけ空気が緩む。
でも、俺にはもう1つ気になっていることがある。
「最後の白い光は?」
セイルの表情が戻る。
「分かりません」
「やっぱり?」
「ただし、継ぎ獣の核とは別でした」
「クロもそう言ってた」
俺は黒剣へ視線を落とす。
「最後、俺とベルとクロを見たって」
「見た?」
「たぶん」
あの感覚。
今思い出しても気持ち悪い。
「何か送られた可能性は?」
「否定できません」
「どこへ?」
「それが分かれば苦労しません」
「ですよね」
「今は推測で埋めない方がいいでしょう」
「うん」
分からないものは、分からないままにする。
今はそれでいい。
◇
「それでは、次です」
少しして。
ミナさんが新しい測定晶を運んできた。
「交換用?」
「はい。残っていた予備です」
俺は晶石を見る。
正直、あまりいい記憶はない。
「また測るんですか」
「測ります」
「ですよね」
ミナさんが少しだけ笑った。
「今回は普通の測定だけです。保存機能も最小限に切り替えています」
「それなら」
俺は測定晶へ手を置く。
少し冷たい。
光が走る。
前と同じ。
見慣れた感じ。
数字が浮かぶ。
《5》
「……え?」
見間違いかと思った。
もう1度見る。
《5》
変わらない。
「5?」
フィアが横から覗く。
「5だね」
「3だったよな」
「うん」
灰牙狼を倒した時。
1から3。
それからずっと変わらなかった。
12人を助けた時も、数字は動かなかった。
でも今回は。
「2つ上がってる」
声にすると、急に実感が出てきた。
セイルが記録紙を見る。
「間違いありません。レベル5です」
「……5」
『上がったな、小僧』
「うん」
『喜べよ』
「いや、喜んでる」
『顔が固いぞ』
「びっくりしてるんだよ」
フィアが少し笑う。
「やっと追いついてきた?」
「全然追いついてないだろ」
「まだね」
「まだって言ったな」
「言った」
でも、嫌じゃなかった。
遠い。
まだ弱い。
それでも前へ進んだ。
「それと」
ミナさんが紙を1枚取り出す。
「ルカ」
「はい」
「今回の件だけで決めたわけではありません」
「え?」
「12人の救助。迷宮異常への対応。調査への協力。今回の街への被害防止。そして、継ぎ獣への対処」
1つずつ。
今までのことが並んでいく。
「討伐数だけではなく、判断と実績を含めた再審査です」
ミナさんが俺を見る。
「F級冒険者ルカ。今日付で、E級への昇格が認められました」
言葉が出なかった。
「……俺が?」
「はい」
「E級?」
「はい」
「本当に?」
「何回聞くんですか」
ミナさんが笑う。
「おめでとう、ルカ」
その言葉で。
やっと胸の奥へ落ちてきた。
「……ありがとうございます」
嬉しい。
ちゃんと嬉しい。
でも。
ふと、前に見た数字を思い出す。
討伐数、0。
救助、12人。
あの時、レベルは上がらなかった。
報酬もほとんど増えなかった。
笑われたことだってある。
それでも、間違っていたとは思わない。
「数字に出る強さだけじゃないでしょ」
フィアが言った。
「え?」
「顔に出てた」
「そんな分かりやすい?」
「結構」
フィアは肩をすくめる。
「レベル5になったのはいいこと。でも、3の時にやったことまで弱かったことにはならない」
「……うん」
「12人連れて帰った時のルカも、今のルカも同じでしょ」
「そうだな」
少しだけ肩の力が抜けた。
強くなるって。
数字を上げることだけじゃない。
でも、数字が上がるのが嬉しくないわけでもない。
たぶん。
どっちかだけじゃないんだ。
◇
報告を終えてギルドを出る。
昼を少し過ぎていた。
空は青い。
昨日あれだけ騒ぎになった街なのに、市場から声が聞こえる。子どもが走って、店も開いている。
「普通だな」
「何が?」
フィアが横を歩く。
「街」
「そりゃそうでしょ」
「昨日あんなだったのに」
「だからじゃない?」
「え?」
「何もなかったみたいに生活できる方がいいでしょ」
「……確かに」
トワが足元を走る。
「キュイ!」
「元気だな」
「昨日ずっと置いていかれたからね」
「まだ怒ってる?」
「たぶん」
「クルル!」
怒っているようには見えない。
俺たちはギルドの前で足を止めた。
ここからどうする。
迷宮の調査はしばらく止まる。
俺の手も、すぐには武器を握れない。
数日は休むことになるだろう。
「次どうする?」
フィアが聞いた。
「とりあえず手を治す」
「そうじゃなくて」
「え?」
フィアが俺を見る。
少しだけ真面目な顔。
「その次」
「迷宮?」
「もっと先」
意味が分からず、フィアを見る。
「今回も?」
聞いてから。
違うと気づいた。
フィアは首を振る。
「違う」
少しだけ間。
「次からも」
風が吹く。
フィアの髪が揺れた。
「一緒に行く」
「……俺たちと?」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない!」
思ったより大きな声が出た。
「そんな全力で言わなくても」
「いや、だって」
フィアが少し笑う。
「じゃあ決まり」
「そんな簡単でいいの?」
「何かいる?」
「契約とか」
「ギルドの登録はあとでする」
「ちゃんとしてる」
「ルカよりは」
「なんでそこで俺を下げるんだよ」
「キュイ!」
トワが鳴く。
フィアが下を見る。
「この子は?」
「え?」
「当然みたいについてきてるけど」
トワが俺の靴へ前脚を乗せた。
「キュイ」
「どうする?」
「俺に聞かれても」
「クルル」
離れる気はなさそうだ。
『置いてっても勝手についてくるだろ、こいつ』
「俺もそう思う」
『……道、見る』
クロが小さく言った。
「クロ?」
『この子』
トワを見る。
『いると、たぶんいい』
「分かった」
俺はしゃがむ。
「トワ」
「キュイ?」
「一緒に来る?」
「キュイ!」
返事だけは早かった。
「決まり?」
「たぶん」
「また増えたね」
フィアが笑う。
「ベルとクロと」
「私と」
「トワ」
「セイルは?」
少し離れたギルドの入口を見る。
セイルはまだ中だ。
「セイルは……どうなんだろう」
「今回は一緒に戦ったけどね」
「うん」
風で助けられた。
何度も。
昨日の戦いは、セイルがいなければもっと危なかった。
でも、これからずっと一緒に行くのかはまだ聞いていない。
「今度聞こう」
「そうだね」
そこでいい。
全部を今日決める必要はない。
俺たちは歩き出す。
その時、ギルドの扉が開いた。
「ルカ!」
振り返る。
ミナさんが立っていた。
「はい?」
「忘れてました」
「何を?」
ミナさんが笑う。
「行ってらっしゃい」
一瞬。
俺も笑った。
「行ってきます」
フィアが隣にいる。
足元にはトワ。
左手にはベル。
右にはクロ。
少し前まで、俺は1人で迷宮へ入っていた。
人に迷惑をかけないように。
自分でできることは、自分だけでやろうとしていた。
今は違う。
1人じゃない。
それを前より少しだけ、普通に思える。
「ルカ」
「何?」
「どこ行くの?」
フィアが聞く。
「……決めてなかった」
「行ってきますって言ったのに?」
「勢いで」
「ほんとに?」
「キュイ!」
「トワまで何か言ってる」
『馬鹿だな、小僧』
『うん』
「クロまで!?」
笑いながら、俺たちは歩く。
まだ次の目的地は決まっていない。
でも。
次に誰と歩くのかは、もう決まっていた。
◇
誰もいなくなった測定室。
壊れた晶石は片づけられ、新しい測定晶だけが静かに置かれている。
光はない。
音もない。
昼間、俺が触れた時と同じ。
ただの測定晶。
そう見えた。
しばらく、何も起こらない。
やがて。
晶石の奥に、白い線が1本だけ走った。
《観測完了》
線が止まる。
次の文字が浮かぶ。
《適合候補――確認》
わずかな間。
《双核――覚醒進行》
白い光が、一度だけ強くなる。
そして。
《継続監視へ移行》
そこで終わる。
はずだった。
消えかけた白い線が、もう一度だけ脈打つ。
《次段階――》
文字が途中で乱れた。
読めない。
すぐに消える。
測定室には何も残らない。
誰も見ていない。
誰も知らない。
その頃。
リベルから遠く離れた場所で。
地の底を走る、古い何かが。
ゆっくりと。
目を覚まし始めていた。




