第0話 空が、割れていた
空が、割れていた。
比喩じゃない。雲の向こうまで伸びた巨大な亀裂が、夜空を縦に引き裂いている。裂け目の奥に星はなく、ただ白い光だけが脈打っていた。
眩しいはずなのに、温かさはない。見ているだけで背中が冷えるような、どこまでも無機質な白だった。
大地も、もう元の形を残していない。砕けた石畳の間から黒い根のようなものが這い出し、遠くでは巨大な建造物が半ば崩れたまま宙に浮いている。風が吹くたび、瓦礫が重力を忘れたように空へ吸い上げられていった。
その中心に、俺は立っていた。
「ルカ!」
声が飛んでくる。
「聞こえてる!」
振り向かずに返す。
白い光の向こうで、何かが動いた。
大きい、なんて言葉で済ませていいのか分からない。人の形にも見える。獣にも見える。翼らしきものが広がった次の瞬間には、それが無数の腕へ変わっていた。
見えているのに、形が定まらない。
その何かが、腕らしきものを上げた。
「来るぞ!」
地面へ大盾が叩きつけられる。
『分かってらぁ!』
ベルの怒鳴り声。
直後、白い光が世界を埋めた。
轟音とともに足元が沈む。盾越しなのに腕が痺れ、歯を食いしばっても身体が後ろへ押されていく。
それでも、ベルは下がらない。
「ベル!」
『長くは持たねえぞ、小僧!』
「十分だ!」
砕けかけた地面の下から、黒い板がせり上がった。1枚、さらに1枚。崩れかけていた足場を繋ぎ、そのままベルの下へ噛み合う。
「固定しました」
少し離れたところからイグナの声が届く。
「助かる!」
「次も出せます。ただし、長くは保ちません」
「それでいい!」
右手側で、紫白の雷が大地を駆けた。
「3秒!」
ロゼの声。
「分かった!」
ほぼ同時に、左から矢が飛ぶ。
1本、2本、3本。
狙っているのは敵の身体じゃない。白い光の中を走る何かだけを正確に射抜き、進路をわずかにずらしていく。
「ルカ! 左が開く!」
フィアだ。
足元へ風が巻いた。背中に柔らかな光が触れ、裂けていた傷の痛みが少しだけ遠のく。
「傷、また開いてるよ」
セイルの声はいつも通り穏やかだったが、今は笑っていない。
「動けるようにだけ頼む」
「完全には治せないよ」
「分かってる」
「君は本当に昔から変わらないところがあるね」
痛みは消えない。
けれど、足は動く。
それでいい。
金属が甲高く鳴った。
「ルカ殿!」
シグレの刀が走る。
敵そのものではない。こちらへ伸びていた白い光だけを、流れごと断ち切った。
「道は開いた! されど、僅かぞ!」
「十分!」
さっきから同じことばかり言っている気がする。
そんなことを考える余裕が、ほんの少しだけ残っていた。
「キュイ!」
小さな影が足元を駆け抜ける。
トワだ。
青白い尻尾を揺らし、瓦礫の間を抜けたところで1度だけ振り返る。
そっちか。
「ベル、右!」
『おう!』
「イグナ、前!」
「展開します」
前方に黒い足場が伸びる。同時に脇から薄い壁が立ち上がり、飛来した白い破片を弾いた。
「ロゼ!」
「もうやってる!」
雷が落ちる。
敵へじゃない。
俺たちの間を結ぶように、大地を走った。
フィアが道を作る。セイルが身体を繋ぎ止める。シグレが流れを断ち、イグナが足場を作る。トワが進む方向を示し、ベルが前を支える。
ばらばらの力が、1つの流れになる。
昔の俺なら、たぶん全部自分でやろうとした。
自分で見て、自分で考えて、自分で決める。それが正しいと思っていた。
今は違う。
「クロ」
呼ぶ。
すぐには返事がなかった。
黒い影が俺の隣に立っている。長い黒髪。小さな身体。
いつからか、クロは俺の命令を待たなくなった。
『……まだ』
「ああ」
待つ。
白い光が迫る。ベルの盾が軋み、ロゼの雷が揺らぐ。
『小僧!』
「まだ!」
「ルカ!」
「まだだ!」
足元が崩れた。
片足が沈む。
その直前、黒い足場が滑り込んだ。
「補助します」
イグナの声。
右足が乗る。
それで十分だった。
俺には分からないことがある。
ベルにしか分からないことがある。
ロゼに任せた方がいいことがある。
フィアにしか見えない道がある。
セイルにしか支えられない命がある。
シグレにしか断てないものがある。
イグナにしか作れない足場がある。
トワにしか見つけられない道がある。
そして。
クロにしか分からない一瞬がある。
だったら、任せればいい。
白い何かが、こちらへ手を伸ばした。空の亀裂がさらに広がり、世界そのものが軋む。
『ルカ』
クロの声は、不思議なくらい静かだった。
『今』
地面を蹴る。
1歩。
それだけで景色が後ろへ流れた。
ベルの横を抜け、イグナの足場を踏む。ロゼの雷を越え、フィアの矢が作った隙間へ身体を滑り込ませる。シグレが断った光の間を走り、セイルの風が背中を押した。
トワが示した、その先へ。
黒い刃を握る。
敵がこちらを向いた。
初めて、その白い顔に何かが浮かんだ気がした。
驚きだったのか。
怒りだったのか。
それとも、恐怖だったのか。
分からない。
分からなくていい。
「行くぞ、クロ」
『うん』
振り抜く。
黒と白がぶつかった。
光が弾けた。
◇
これは、ずっと先の話だ。
始まりは、こんな場所じゃなかった。世界の終わりでも、割れた空の下でもない。
小さな街。
冒険者ギルド。
白い測定晶の前。
そこで、何度測っても変わらなかった数字があった。
その数字は。
《1》だった。




