第十二話:爪切り
吾輩は猫である。名前はまだない。
――いや、正確に言うならば家族からは「モチ」だの「お猫様」だの、果ては「ダメ猫」などという無礼な呼称で呼ばれているが、吾輩が納得するに足る高貴な名は、まだ授かっていないという意味である。
さて、吾輩の身体には幾つかの優れた機構が備わっているが、その中でも特筆すべきは「爪」である。
これは単なる装飾ではない。捕縛、登攀、威嚇、そして必要とあらば戦闘に用いられる、多機能かつ高性能な器官である。普段は鞘に収められ、その鋭利さを外界に誇示することはないが、ひとたび解放されれば、その威力は実に明白である。
その日、吾輩は例によって、主人の稚拙なる狩猟訓練に付き合ってやっていた。
細長い棒の先に房を付けた、例の「ねこじゃらし」である。左右に振られ、上下に跳ね、いかにも獲物めいた挙動を見せてはいるが、その本質はあくまで人間の操作する疑似対象に過ぎぬ。
とはいえ、訓練は訓練である。
吾輩は姿勢を低くし、肩甲骨を波打たせ、全身の筋肉を連動させる。距離、速度、角度――すべてを計算し、最適解を導き出す。次の瞬間、吾輩の身体は弾かれたように前方へと躍り出た。
「ぱしっ」
確かな手応え。
だがその刹那、予測外の接触が発生した。
「……っ、いっ!」
主人の声。見ると、その手の甲に、赤い線が一本走っている。そこからじわりと血が滲み出ていた。主人の表皮を、吾輩の爪が微塵の抵抗もなく切り裂いたのである。そこから溢れ出した鮮血は、吾輩の武器がいかに非情にして正確な破壊力を秘めているかを雄弁に物語っていた
……ふむ。
これはいささか、力加減を誤ったかもしれぬ。
吾輩は前肢を引き、状況を観察する。対象は軽微な損傷を受けているが、致命的ではない。機能停止にも至っていない。とはいえ、これは本来想定された結果ではない以上、一定の評価修正が必要であろう。
主人は「うわ、血出てるじゃん……」などと呟きながら、慌てて布を当てている。動揺の度合いから見て、彼の危機管理能力は依然として低水準に留まっていると言わざるを得ない。
だが ―― 吾輩はここで、ある結論に至る。
この事象の一因は、吾輩の爪の鋭利さにある。すなわち、現在の状態は「やや過剰な性能」を有している可能性があるということだ。環境との適合性を考慮するならば、一定の調整は合理的である。
ほどなくして、主人は例の器具を持ち出した。
小さな金属製の装置――爪切りである。
主人は吾輩を抱き上げ、やや緊張した様子で前肢を取る。その指先はわずかに震えている。目線は爪と器具の間を行き来し、呼吸も浅い。
……なるほど。
吾輩は内心、深い理解を示す。無理もない。
この小さき器具が向き合っているのは、単なる硬質物ではない。そこには潜在的に、先ほどの事例が示す通りの「結果」を生み出し得る吾輩の力が内包されているのだ。彼らにとっては、それは畏怖するに相応しい暴力の根源なのであろう。
吾輩はゆっくりと視線を落とし、主人を見上げる。
実にか弱い存在である。だが同時に、吾輩は寛容でもある。
先ほどの一件において、結果的に負傷を与えたことは事実である。意図したものではないとはいえ影響が生じた以上、それに対する一定の配慮を示すことは、上位存在としての責務と言えよう。
吾輩は抵抗を控え、前肢の力を抜く。
「……お、いい子だね」
主人が小声で呟く。
主人が発した "いい子" なる語は、能力の劣る者が優れた者に対し、その機嫌を損ねぬよう必死に弄する懐柔の辞に過ぎぬ。吾輩はその浅ましさを看破しつつも、あえてその甘言に乗ってやることにした。あくまで『共同作業』としての体裁を保つためである。そう、これは服従ではない。協力である。
「パチン」
小気味よい音が響き、爪の先端がわずかに削がれる。鋭利さは抑えられ、同時に機能は維持される。適切な調整である。主人は慎重に一本ずつ処理を進め、そのたびにわずかに安堵の色を見せる。
その様子を吾輩は静かに観察する。
人間という種は、自らよりはるかに小さき存在の一部に対して、これほどまでに緊張を強いられる。実に興味深い現象である。彼らの文明がいかに発達しようとも、この根源的な脆弱性は消えぬらしい。
やがてすべての爪の調整が終わる。主人は「ふぅ……」と大きく息を吐き、吾輩をそっと床へと下ろした。その顔には、作業を終えた安堵と、わずかな達成感が浮かんでいる。
吾輩は前肢を一度伸ばし、軽く床を引っかく。
感触は悪くない。よろしい。
今回の処置は、概ね適正であったと評価してよいだろう。
もっとも――
この程度の作業でここまで消耗するとは、やはり人間という種の耐性は心許ない。今後も同様の機会が訪れることを考慮すれば、彼らにはさらなる精神的鍛錬が必要であると言わざるを得ない。
吾輩は尾をゆるやかに揺らしながら、その場を後にする。
やれやれ、今しばらく見守ってやる必要があるらしい。
吾輩は猫である。名前はまだない。




