第一話:朝の儀式
吾輩は猫である。名前はまだない。
いや、正確に言うならば家族からは「モチ」だの「お猫様」だの、果ては「ダメ猫」などという無礼な呼称で呼ばれているが、吾輩が納得するに足る高貴な名は、まだ授かっていないという意味である。
吾輩が住まうのは、明治の文豪がいたような埃っぽい書斎ではない。
ルンバという名の円盤状の怪物が床を徘徊し、冬になれば床から得体の知れない温もりが湧き上がる、都心のマンションの一室である。
毎朝、吾輩の仕事は早い。人間という生き物は、放っておくといつまでも泥のように眠り続ける。吾輩の腹時計が「カリカリ」を要求しているというのに、実に見下げ果てた怠慢である。
吾輩は仕方なく、主人を起こしてやる事にする。以前は枕元で甘い声を出し、その寝顔に慈愛に満ちた毛づくろい(という名のザリザリとしたヤスリがけ)を施してやったものだが、最近の主人は耳に白いうどんの切れ端のようなもの ―― ワイヤレスイヤホンとかいう代物だ ―― を突っ込み、掛け布団に潜り込むように寝ている。あれを装着した人間は外界の音を遮断し、自身の殻に閉じこもる。ゆえに言葉による説得は無意味であり、物理的な衝撃こそが最も効率的なコミュニケーションであると吾輩は学習した。
床からベッドの端へ、そこからさらに高い本棚へと軽やかな跳躍を繰り返し、照準を定める。狙うは主人のみぞおち。重力加速度を味方につけた吾輩の全体重を、一点に集中させるのだ。
「ぐえっ」
という主人の情けない、カエルの潰れたような声が、吾輩にとっての朝食の号砲である。
何やら「まだ五時半だぞ……」とか「殺す気か……」などと不明瞭な文句を垂れ流しながらも、のろのろと這い出した主人。吾輩はその鼻先を一瞥し、勝利の凱旋パレードを執り行う。キッチンへと向かう吾輩の尾は、一仕事終えた満足感から天を指すようにピンと立ち上がり、先端だけが機嫌よくピコピコと揺れている。
食器の上に「ジャラッ」と無機質な音を立てて流し込まれる最新のキャットフードは色と粒が綺麗に揃っており、食べやすく悪くない代物だ。
しかし、吾輩は問いたい。
主人があのプラスチックの容器から取り出した、コンビニの「焼き鮭」なるものから漂う香りを嗅いだことがあるか。
それは香ばしく焼かれた皮の脂の匂いと適度な塩気が混じり合った、本能を揺さぶる芳醇なアロマである。一方、吾輩の皿に盛られた茶色の飯はどうだ。確かに腹は膨れるし、毛並みも整うだろう。だがそこには「食の楽しみ」が欠如している。主人がその鮭を一切れ箸で摘み口に運ぶたびに、吾輩の喉の奥からは「くぺり」と唾液が漏れる。
主人は吾輩が足元で熱烈な視線を送ると、「モチには塩分が強すぎるからダメだよ」と、いかにも健康を気遣う聖人君子のような顔をする。だがその実、自分だけでその至高の珍味を独占したいだけなのを、吾輩は知っている。ふん、恩着せがましい事だ。ならば吾輩は主人が席を立つ隙に、あの鮭の皮を一切れ掠め取る算段を立てるのみである。
「あ、コラッ。モチ!」
吾輩は猫である。名前はまだない。




