020 離脱
「……もう終わりかしら?」
私は疲労をにじませながらつぶやく。廊下には十四人の男性が倒れ伏していたが、誰一人として私の声に答えることはなかった。
べたつく汗と魔力の放出に伴う喪失感が不快で仕方がない。何よりも、服にこびりついた男性たちの血が気に入らない。
三百年前に嗅ぎ慣れた血の匂いが鼻について離れやしない。勝利を喜ぶ気持ちにはなれなかった。
火で焼かれ、水で濡らされ、風で切られ、土で潰される。市長室へと続く廊下は無残の一言に尽きた。壁、床、天井のところどころに穴が開き、月明りが覗いている。私が氷の魔法を消失させた瞬間、間違いなく崩落するだろう。
戦闘跡に背を向け、私は市長室へと足早に進んでいく。どす黒く淀んだ心をどうにかしたい。無性にリーシェの笑顔が見たくなった。
「――やはりまた会いましたね、小さなお嬢さん」
場違いに明るい声が響き渡る。耳障りな音に顔をしかめながら、市長室まで後十歩の距離で私は立ち止まった。そして、警戒を最大まで高めて振り返った。
「このような場所で巡り合えるとは……運命的だと思いませんか?」
「あら、お昼にも会っているはずよ。それに、もし運命だと言いたいのならば、月明りの美しい今この時こそ、貴方との初めての出会いであるべき……違うかしら?」
「なかなかに手厳しいお嬢さんだ」
壁に空いた大穴を飛び越え、教会堂で会った商人と思しき男性が降り立つ。足元に巻き起こした竜巻を用いた安定飛行。男性は簡単に制御しているが、飛行制御は難易度が高く、私も習得までの道のりは長かったのだ。やはり相当の手練れで間違いないのだろう。
男性は体についた埃を軽くはたき、私に微笑む。どこか薄ら寒さを覚えた。
「美しく、そして強い。……実に、素晴らしい」
「……何が言いたいのかしら?」
私はすっと目を細め、男の一挙一動を注視する。男性は笑みを深めていった。
「人型の精霊、それだけでも十分に貴重な存在……けれど、貴方はそれだけでは終わらない!」
興奮した様子の男性が芝居じみた声をあげる。大股で私に歩み寄ってきた。
「ようやく巡り会えた……闇の精霊! 長く商人をやっていても、これほど興奮したことはない! 私たちは、君をずっと待っていたんだ!」
熱のこもった瞳が私の全身を嘗めまわすように上下する。上唇をねっとりと舌で濡らす姿に、生理的な嫌悪感が沸き上がっていく。
突発的な男性の言動に押され、私は数歩後ずさっていた。今すぐにこの男から逃げろと本能が命じている。ただ、背中を向ける勇気が私にはなかった。
男性の一歩は、私の二歩分に相当するのだろうか。徐々に、距離が詰められていく。ちらりと視線を横に向ければ、市長室への入口が見える。その先には、リーシェがいる――これ以上は後ろに下がるわけにはいかなかった。
後ずさろうとする足に力を込め、前へと踏み出す。私は男性をねめつけた。
「貴方は、私を売り飛ばすのかしら?」
男性は歩み寄るのを止め、まじまじと私を見つめ出す。手の届く距離まで近づいたためか、男性の表情が悲しげに歪んでいくのがはっきりとわかった。
「私がそのような愚か者に見せますか?」
愚か者? 貴重な闇の精霊を見つけて歓喜したのはではないの? 私は眉根を寄せる。
「精霊は精霊であるがゆえに価値があるのです。精霊石に価値はない」
「それは嘘ね。欲する者は必ずいるわ」
「確かに、魔力を高めるために精霊石を欲する者はいます。二流、いえ三流としか言えませんけどね……」
男性は大仰に肩を竦めた。
「貴方は違う、と。……商人の意見とは思えないわね」
「ええ、貴方は良い商材ですよ。ただ、私の望みは別のところにあるのです」
「望み?」
私は小さく首をかしげ、目線で先を促す。期待通りの反応を私が返したのか、男性は満面の笑みを浮かべた。
「私の望みは、貴方を救うことです」
……精霊を救う。現代では、この言葉が流行っているのかしら?
「昨日も同じ言葉を聞いたわ」
「その者では、貴方を救えなかった……残念なことです。ですが、私が救いますのでご安心くだ――」
「――貴方は、私を馬鹿にしているのかしら?」
私は不機嫌を隠しもしない口調で、男性の言葉を遮る。詭弁を最後まで聞くほどのお人好しにはなれなかった。
「貴方に救われることは一つもないわ。だって、私を召喚した人たちは、私を精霊石に変えたりはしないのだもの。どこに、保護してもらう必要があるの? そんな必要は、どこにもないわ」
「……今の精霊は人に利用される立場だと知らないのですか?」
「それくらい察しているわ。それに、昔も今も持ちつ持たれつは変わらないはずよ。精霊が支配したことは、一度もないわ」
「絆されたのですか、貴方は……」
男性は苦々しげな表情を浮かべ、私に向かってさらに一歩近づいていく。そして、怒りを孕んだ瞳を市長室へと向けた。
「あの娘は邪魔ですね」
次の瞬間、私の視界から男性が消えた。
刹那の逡巡――竜巻を巻き起こし、市長室まで一直線に私自身を吹き飛ばす。背中から男性に体当たりをかます。衝撃のあまり意識の飛んだ一瞬、私は無防備に宙を漂った。
男性は衝撃を活かして体を反転させていく。勢いづけて振り下ろされた男性の腕が、私の横腹に直撃する。床へと叩きつけられていた。
痛みで我に返った私は慌てて風を巻き起こした。寝転んだ状態のまま、瞬時にガラスのない窓枠に向かって吹き荒れる突風を作り出していく。男性の伸ばした手が私に触れる直前、小さな廃材を震える両手で握りしめたまま立ち尽くすリーシェを巻き込み、市長室の外へと私の体は投げ出された。
暗がりの中、私とリーシェの体が放物線を描いていく。ちらりと下を覗けば裏町を一望できる。二階建ての庁舎よりも遥か上空を飛んでいた。
遅れて聞こえてきたリーシェの甲高い悲鳴が、夜の静寂を破った。
「――私に抱きつきなさい」
手足をジタバタと動かすリーシェに向かって体ごとぶつかる。無理やりにリーシェの襟元へ私は噛みつき、腕先だけで不格好に抱きしめた。離すまいと必死にリーシェの体を固定する。
数秒後、私とリーシェは放物線の頂点へとたどり着き、思わず息を呑んだ。
頂点から落下を始めた瞬間、風が強く吹き荒ぶ。その勢いに負け、私の体が宙を泳いだ。必死に伸ばした腕先は、リーシェに届かない。少しずつ離れていく光景がスローモーションに見えた。
風魔法を好んで使っていても、私は闇の精霊でしかない。私から離れた位置に落下するリーシェを支えきる自信はなかった。
望まない結末が脳裏に浮かび、背筋が急激に冷たくなっていく。凍てつく時間の中、廃材を投げ捨てるリーシェがゆっくりに見える。呆然と眺める私に反し、リーシェは瞳の奥に強い意志を宿していた。
次の瞬間、限界まで手を伸ばしたリーシェが乱暴に私を抱きしめていた。
小さな私の悲鳴は風に掻き消され、リーシェからの拘束が緩むことはない。私とリーシェは一つの塊となって落ちていった。
リーシェに体を預け、私は風への干渉にだけ集中していく。地面に叩きつけられる間際、全力で竜巻を起こし落下の勢いを殺す。
ふわりと私とリーシェの体が舞い上がった。
「……運よく死なずにすんだわね」
地面を踏みしめながら、私が弱々しい声でつぶやく。緊張から解放されたためか、体全身が疲労を訴えていた。
「できるとわかっていたから、飛んだんだよね」リーシェが目をしばたかせる。
「そんなわけないでしょ。私は闇の精霊なのよ。あの高さから落ちた経験なんて、あるわけないわ」
私は早口で告げると、大きく息を吐き出す。近くの廃屋まで歩き、人影がないことを確認していく。リーシェを連れてリビングらしき部屋にたどり着くと、その場でへたり込んでいた。
「大丈夫?」
「……少しだけ休ませて」
隣にしゃがみ込んだリーシェが心配そうに私を覗き込む。私は力なく首を左右に振った。
「あの男が優れた魔法士であっても、風の精霊と同等の飛行ができるとは思えないわ。距離は十分に稼いだはずよ」
私は得意げに微笑む。廃屋の窓から覗く旧庁舎は遥か彼方。何軒もの家屋を飛び越えた先からでは、目を凝らしてどうにか見える程度だ。すぐに追いつくことは不可能だろう。
むしろ問題なのは……ならず者たちの方だ。
私とリーシェが落下してきた瞬間を何人もの人間に見られていたのだ。この廃屋に潜んでいることも、知られているだろう。手放しに安心できる状況ではなかった。
グレンと合流できていないうえ、助けに来るはずのカーティスとも出会えていない。具体的な話を詰められなかったことが惜しまれる。
リーシェが誘拐された後、私とグレンは監視されていたのだ。監視役の中にまともに魔法を使える者はいなく、風魔法による索敵に問題はなかった。ただ人数が十五人とあまりにも多すぎた。
一人でも逃せばリーシェに危害が及ぶ――その事実が衛兵に助けを求めることを妨げた。私の索敵から逃れた者がいる可能性も捨て切れない。
教会堂で注文する振りをしながら、疑われない程度にあっさりとしたリーシェ誘拐のあらましを伝えることが精一杯だったのだ。
あの老執事がどこまで本気にしてくれたかも、カーティスが伝言を信じてくれるかもわからない。それでも信じるよりほかはなかった。
「――誰か来たわね」
私はゆっくりと立ち上がり、正面を見据える。近づく足音が大きく響いた。




